第17話 封潮の鎖
《アビス・エッグ》の亀裂の奥で、青白い眼がゆっくりと開いた。
ドクン――。
鼓動が一気に強くなる。
黒い殻が内側から押し広げられ、粘ついた青黒い液体が滴り落ちた。
あやめが悲鳴を上げる。
「孵化します!!」
美咲は即座に槍を構えた。
「相良さん、間に合う!?」
修司の右手は、すでに焼けるような熱を帯びていた。
《封潮》の青白い鎖がエッグ全体へ広がっている。
だが亀裂から漏れ出す黒い魔力が、それを押し返していた。
《観測者》が警告を表示する。
【封印率:62%】
【孵化進行:38%】
「くっ……!」
修司は歯を食いしばる。
もっと魔力を流し込めば封印できる。
だがそれは、自分の精神を深海門へ深く繋げることを意味していた。
玲奈が修司の背中へ手を当てる。
銀色の光が静かに広がった。
「一人で抱え込まないでください」
その瞬間、《観測者》の表示が変化する。
【精神共鳴接続】
【補助供給源:高槻玲奈】
熱が少し和らぐ。
修司は驚いて玲奈を振り返った。
「お前、本当に何者なんだ」
玲奈は困ったように笑った。
「ただ、修司さんが大好きなだけです」
黒田が後ろで小声で呟く。
「重い愛がついに深海級になったな……」
エッグの亀裂がさらに広がる。
そこから現れたのは、拳大ほどの幼体だった。
魚類と蛸を混ぜたような異形。
だがその眼だけは、《アビス・イーター》本体と同じ青白い発光を宿している。
幼体は修司を見た瞬間、甲高い鳴き声を上げた。
キィィィィッ!!
同時に、空洞の奥から遠ざかっていた咆哮が再び響く。
ゴォォォォォォッ!!
美咲の顔色が変わる。
「親が反応した!」
深海の巫女が険しい表情で呟く。
『幼体が完全に目覚めれば、親は必ず戻る』
つまり今ここで止めなければ、再び《アビス・イーター》本体との戦闘になる。
それは今の戦力では不可能に近い。
修司はエッグへ両手をかざした。
《封潮》の鎖がさらに強く輝く。
青白い光が幼体へ絡みつき、その動きを封じようとする。
だが幼体は激しく暴れ、黒い魔力を撒き散らした。
視界が揺れる。
修司の頭の中へ、無数の囁き声が流れ込んできた。
喰え。
増えろ。
門を開け。
猛烈な吐き気が込み上げる。
《観測者》が赤く点滅した。
【精神汚染進行:警告】
玲奈が修司を強く抱き締める。
「修司さん、こっちを見て!」
彼女の声だけが、暗い海の底から聞こえる灯台のようだった。
修司は玲奈の瞳を見つめる。
その瞬間、銀色の光が二人の間で強く共鳴した。
《観測者》が新たな表示を浮かべる。
【精神汚染を中和】
【《封潮》出力上昇:91%】
「――今だ!!」
修司は全力で魔力を流し込んだ。
青白い鎖が爆発的に広がり、エッグ全体を包み込む。
幼体が悲鳴を上げる。
キィィィィィッ!!
黒い亀裂が次々と閉じていく。
そして最後に、青白い紋様が殻の表面へ刻み込まれた。
ドクン。
ドクン。
鼓動がゆっくり弱まっていく。
やがて《アビス・エッグ》は完全に沈黙した。
《観測者》が静かに表示する。
【《封潮》成功】
【アビス・エッグ:封印状態】
空洞に静寂が戻った。
遠くで響いていた《アビス・イーター》本体の咆哮も、徐々に遠ざかっていく。
どうやら親個体との繋がりは一時的に断たれたらしい。
修司はその場に膝をついた。
全身から力が抜ける。
玲奈が慌てて支える。
「大丈夫ですか!?」
「……徹夜で原稿を十本書いた後みたいな感じだ」
「全然大丈夫じゃありません」
美咲も近づいてきた。
彼女は封印されたエッグを慎重に観察し、低く息を吐く。
「信じられない……本当に封印した」
あやめは興奮と恐怖が入り混じった顔で呟く。
「こんなの、世界初の事例ですよ……」
黒田が肩をすくめる。
「修司、お前そのうち国宝扱いされるんじゃないか?」
「絶対に嫌だ」
修司は即答した。
深海の巫女は、《アビサル・ブルーム》の前で静かに頭を下げた。
『観測者よ。母は、あなたを覚えた』
その言葉と同時に、巨大植物の花弁から一枚の青白い花弁が舞い落ちる。
花弁は修司の手の中へ静かに収まった。
《観測者》が反応する。
【深海の花弁】
【効果:精神汚染耐性を強化】
修司が顔を上げると、巫女の姿は薄い水霧のように揺らいでいた。
『また門が開く時、あなたは選ばれる』
「待て、まだ聞きたいことが――」
だが言葉は最後まで届かなかった。
深海の巫女は青白い泡となって消え、《アビサル・ブルーム》の光の中へ溶けていく。
空洞には、静かに脈動する巨大植物と、封印された黒いエッグだけが残った。
その時、《観測者》が新たな通知を表示する。
【第二階層の安定化を確認】
【深海門は72時間以内に一時閉鎖状態へ移行します】
修司は深く息を吐いた。
神戸湾の危機は、ひとまず乗り越えたらしい。
だが表示はそこで終わらなかった。
最後に、見慣れない一文が浮かび上がる。
【次の門を観測しました】
そして関西地図の中で、赤く点滅したのは――
梅田地下・東梅田駅。




