第16話 アビス・エッグ
《アビス・エッグ》は、《アビサル・ブルーム》の根元で静かに脈打っていた。
ドクン――。
まるで心臓のような規則的な鼓動。
黒い表面には青白い筋が浮かび、内部で何かがゆっくり蠢いているのが透けて見える。
空洞全体が、その鼓動に合わせてわずかに震えていた。
美咲は槍を構えたまま、一歩前へ出る。
「今のうちに破壊する」
「待て!」
修司が思わず叫ぶ。
美咲が鋭く振り返った。
「何?」
修司の視界には、《観測者》の新たな表示が浮かんでいる。
【アビス・エッグ】
状態:孵化前
深海魔力を吸収中
外部刺激により暴走孵化の可能性:高
「下手に攻撃すると、ここで孵化するかもしれない」
美咲が眉をひそめる。
「脅してるわけじゃないのよね?」
「残念ながら本気だ」
あやめがタブレットを確認し、青ざめた顔で頷いた。
「魔力反応、急激に増えてます……刺激を与えると臨界に達する可能性があります」
黒田が嫌そうな顔をした。
「つまり“触るな危険”ってやつか」
「かなり危険な状態です」
その時、深海の巫女がゆっくりとエッグへ近づいた。
美咲が警戒して槍を向ける。
「止まりなさい」
巫女は振り返らず、静かに言った。
『これは母のものではない』
彼女の指先が、エッグの表面へそっと触れる。
すると黒い殻がビリビリと震え、内部から低い唸り声のような音が漏れた。
『アビス・イーターは、門を寄生して増殖する』
修司は息を呑む。
「寄生……?」
『深き母の根に卵を植え付け、魔力を吸って育つ』
つまり《アビサル・ブルーム》は、アビス・イーターにとって餌場なのだ。
巫女は悲しげにエッグを見つめた。
『放置すれば、この階層はいずれ喰い尽くされる』
美咲が低く呟く。
「破壊できない。放置もできない。最悪のパターンね」
修司は右手の紋章を見下ろした。
まだ熱が残っている。
《観測者》が微かに反応し、エッグの内部構造を映し出した。
黒い殻。
その中心に、小さな青白い核。
さらにその周囲には、巫女の結界と同じ波長の光が絡みついている。
【封印適性を確認】
「……封印できるかもしれない」
全員が修司を見る。
「本当に?」
あやめが身を乗り出した。
「《アビサル・ブルーム》の結界と、俺の《観測者》が共鳴してる。完全破壊ではなく、一時的に活動を停止させられる可能性がある」
美咲は即座に判断した。
「成功率は?」
修司は正直に答えた。
「分からん」
黒田が頭を抱える。
「最近のお前、“分からん”で世界を救おうとしすぎだろ」
「俺もそう思う」
深海の巫女が修司へ視線を向ける。
『観測者なら、母の力を借りられる』
その言葉と同時に、《アビサル・ブルーム》の花弁が淡く輝いた。
修司の紋章が共鳴するように脈打つ。
ズキン――。
今度の痛みは、これまでとは違った。
暴力的な熱ではない。
巨大な海の底へ意識が沈んでいくような感覚。
修司の脳裏に、再びあの樹木の映像が浮かぶ。
世界中に根を張る《深き母》。
その根の一部が、神戸湾の深海門へ繋がっている。
そして修司は理解した。
《観測者》は単なる分析能力ではない。
門と門を繋ぐ“観測権限”そのものなのだ。
《観測者》が新たな表示を浮かべる。
【一時権限:《封潮》を解放可能】
【代償:使用者へ高負荷】
玲奈が修司の顔色の変化に気づいた。
「また無茶なことをしようとしてますね」
「顔に出てるか?」
「かなり」
彼女は修司の手をぎゅっと握る。
「死ぬようなことなら、絶対に駄目です」
修司はその温もりを感じながら、小さく笑った。
「死ぬつもりはない」
「“つもり”って言い方が怖いんです」
美咲が周囲を警戒しながら言う。
「決めて。アビス・イーター本体は撤退中だけど、いつ戻ってくるか分からない」
空洞の奥では、巨大な咆哮が遠ざかっていく。
だが完全に消えたわけではない。
時間は限られていた。
修司はエッグの前へ進み出る。
黒い殻の表面には、無数の小さな眼のような模様が浮かんでいた。
見ているだけで不快感を催す。
《観測者》が最後の確認を表示する。
【《封潮》を実行しますか?】
修司は深く息を吸った。
そして右手を、ゆっくりと《アビス・エッグ》へかざす。
その瞬間、空洞全体の海水が静まり返った。
《アビサル・ブルーム》の花弁が一斉に開き、青白い光が渦を巻き始める。
深海の巫女が静かに目を閉じた。
『母よ、観測者へ潮の鎖を』
修司の右手の紋章が、これまでにないほど眩しく輝く。
そして《アビス・エッグ》の表面に、青白い鎖のような紋様が刻まれ始めた。
だが次の瞬間――
パキッ。
黒い殻に、小さな亀裂が走った。
その亀裂の奥から、青白く光る幼い眼がゆっくりと開いた。




