第2話 《観測者》の目
地下湖の闇が、大きく波打った。
胸に赤い一つ目を持つ異形は、水面を滑るようにこちらへ迫ってくる。
玲奈の指が、修司の腕に食い込むほど強くなった。
「修司さん……!」
修司自身も混乱していた。
右手の甲に浮かんだ黒い紋章は灼けるように熱く、視界の端には半透明の文字が浮かんでいる。
【対象を観測中】
【名称:レイク・アイ】
【危険度:E】
【弱点:胸部魔核】
「……見える」
「何が見えるんですか!?」
玲奈が不安げに見上げる。
修司は異形を凝視した。
赤い一つ目の奥に、青白く光る小さな結晶が透けて見える。
頭の中に、理解していないはずの知識が自然に流れ込んできた。
あれが魔核だ。壊せば倒せる。
「黒田!」
修司は叫んだ。
「胸の目の奥だ!」
黒田は目を丸くする。
「は? 何で分かる!」
答える暇はなかった。
レイク・アイが湖面から跳び上がり、黒い腕を槍のように伸ばしてきた。
修司は咄嗟に玲奈を抱き寄せ、横へ転がる。
ズガァン!
岩壁に黒い腕が突き刺さり、石が砕け散った。
「洒落にならんぞ……!」
黒田は足元に転がっていた鉄パイプを拾い上げる。
その動きが妙にしなやかで、以前より身体が軽く見えた。
レイク・アイが再び黒田へ向きを変える。
その瞬間、修司の視界に新しい表示が浮かんだ。
【行動予測:左回避】
身体が勝手に動いた。
修司は落ちていた石を拾い、異形の赤い目へ投げつける。
ガンッ!
一瞬だけレイク・アイの動きが止まる。
「今だ!」
「おう!」
黒田の鉄パイプが、赤い目の中心を直撃した。
バキィッ!
青白い結晶が砕け、異形は耳障りな悲鳴を上げる。
次の瞬間、黒い泥のように崩れ落ちた。
地下湖に静寂が戻る。
「……倒した?」
玲奈が恐る恐る尋ねる。
黒田は肩で息をしながら苦笑した。
「多分な。というか修司、お前さっき何を見てたんだ?」
修司は右手を見下ろした。
紋章の熱は少し収まっている。
「弱点が見えた」
「完全にゲームじゃねえか!!」
黒田が呆れたように言う。
すると、レイク・アイの残骸の中から青白く光る小さな石が転がり出てきた。
玲奈がしゃがみ込んで拾い上げる。
「綺麗……」
その瞬間、石が微かに脈打った。
修司の視界に文字が浮かぶ。
【魔石を確認】
【純度:低】
「長く触るな」
修司はすぐに玲奈から魔石を受け取った。
冷たい。
だが内部では心臓のように微かな振動を感じる。
これがニュースで騒がれていた「魔石」なのだろう。
その時、地下湖の奥にある神殿から低い振動音が響き始めた。
ゴォォォ……。
湖面が再び揺れる。
黒田が顔をしかめる。
「嫌な予感しかしないんだが」
修司も同感だった。
だが《観測者》の視界には、神殿へ向かう半透明の矢印が浮かんでいる。
【推奨探索地点】
「スキルが、あそこへ行けと言ってる」
玲奈は即座に反対した。
「絶対に行っちゃ駄目です!」
「…気持ちは分かる」
「分かってません!」
彼女は珍しく強い口調だった。
長い黒髪の奥で、瞳が不安に揺れている。
「…さっき死にかけたんですよ?」
修司は少し考え、苦笑した。
「五分だけ確認して、危険なら戻る」
玲奈はじっと修司を見つめ、それから小さくため息をついた。
「その“五分だけ”で事件が始まるんですよね……」
「よく分かってるじゃないか」
黒田が吹き出す。
「お前ら、こんな地下空間で夫婦漫才やるな」
玲奈がほんの少し頬を赤くした。
「まだ夫婦じゃありません」
「“まだ”って言ったな?」
「黒田さんは黙っててください」
そのやり取りに、張り詰めていた空気が少しだけ和らいだ。
三人は地下湖の岸辺を慎重に進み、古代神殿へ向かった。
石の階段には青白い結晶がびっしり生えており、天井から落ちる水滴が星空のように輝いている。
入口には巨大な石碑が立っていた。
修司が近づいた瞬間、右手の紋章が再び熱を帯びる。
そして読めないはずの古代文字が、なぜか理解できた。
《観測者よ、第一階層へようこそ》
その下には、さらに一文。
《この世界の崩壊は、すでに始まっている》
玲奈が不安そうに尋ねる。
「何て書いてあるんですか?」
修司は石碑から目を離さず答えた。
「……俺たちが思っているより、ずっと面倒なことになってるらしい」
次の瞬間、神殿の奥で巨大な扉がゆっくり開き始めた。
ゴゴゴ……。
暗闇の向こうから、獣の唸り声とともに、香ばしい匂いが流れてくる。
黒田が鼻をひくつかせた。
「なあ修司」
「何だ」
「命の危険を感じるのに、めちゃくちゃ腹が減る匂いがするんだが」
修司も同じ匂いを感じていた。
炭火で焼いた極上の肉のような香り。
異世界めいた地下神殿の奥から漂ってくるその匂いに、なぜか胃が反応してしまう。
そして暗闇の中で、巨大な影がゆっくりと立ち上がった。
四本足。
二メートルを超える巨体。
赤黒い毛並み。
額には小さな角。
修司の視界に表示が浮かぶ。
【名称:ファイアボア】
【危険度:D】
【推奨行動:戦闘回避】
だが次の瞬間、ファイアボアは低く唸りながら鼻を鳴らした。
ジュウッ、と口元から火花が散る。
玲奈が修司の背中にぴたりと身を寄せた。
「……回避できそうにありません」
修司は苦笑しながら、近くに落ちていた古い槍のような武器を拾い上げる。
「取材メモに“地下神殿で火を吹く猪に襲われた”って書く日が来るとはな」
ファイアボアが地面を蹴った。
赤い瞳が三人を捉え、灼熱の息を吐きながら突進してくる。
その瞬間、修司の《観測者》が激しく明滅した。
【戦闘支援モードを開始します】




