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第1話 赤橋の向こう側


二〇二七年四月二日。


…午前六時三十二分。


大阪湾上空に、最初の「裂け目」が現れた。


雲のない青空に、黒い縦線が走ったのだ。


それは雷でも飛行機雲でもなかった。


空間そのものが、紙を裂いたように開いていた。


神戸港の岸壁にいた作業員たちは、最初それを蜃気楼だと思ったという。


だが次の瞬間、海面が盛り上がり、巨大な石造の門が姿を現した。


高さ三十メートル。


表面には見たこともない紋様。


門の内部は闇に覆われ、光を吸い込んでいた。


その日を境に、日本各地で同じ現象が起き始めた。


東京湾。


名古屋港。


博多港。


そして兵庫県猪名川町の山中でも。


人々はそれをこう呼び始める。


ダンジョン。


「……また無茶な仕事を持ってきたな」


西宮北口駅近くの喫茶店で、相良修司はスマートフォンをテーブルに置いた。


四十五歳。


フリーライター。


かつては週刊誌記者だったが、今は怪談や都市伝説、未解決事件の記事で細々と生計を立てている。


細身の身体に、無精ではない程度の髭。


知的な顔立ちだが、どこか疲れた大人の雰囲気を漂わせていた。


向かいに座る高槻玲奈が、カフェオレを口にしながら首を傾げる。


「また心霊取材ですか?」


「今回はもっと厄介だ」


修司は編集部から届いたメール画面を見せた。


【緊急調査依頼】


兵庫県猪名川町で確認された自然発生型ダンジョンの取材


玲奈の表情がわずかに曇る。


「猪名川……」


二人にとって、その地名は特別だった。


かつて赤橋で起きた連続失踪事件。


白い女・まゆとの遭遇。


地下水路で見つけた子供たちの遺骨。


あの事件は表向き解決したが、完全に忘れられるものではない。


「嫌なら断る」


修司が言うと、玲奈は静かに首を振った。


長い黒髪が肩を滑り落ちる。


彼女は三十二歳のカウンセラーで、普段は地味で目立たない女性に見える。


だが修司だけは知っている。


その穏やかな笑顔の奥に、かなり重たい愛情と執着が隠れていることを……


「修司さんが行くなら、私も行きます」


「観光じゃないぞ」


「だからです」


玲奈はテーブルの下で、そっと修司の手を握った。


指先は細く、少し冷たい。


「危険な場所に、一人で行かせたくありません」


修司は苦笑した。


「相変わらず重いな」


「好きな人には…重くなります」


全く隠す気は無いらしい…さらりと言い切るあたりが、玲奈らしかった。


午後一時。


二人は猪名川町役場の臨時対策本部へ向かった。


会議室には地図やモニターが並び、職員たちが慌ただしく動いている。


そこで待っていたのは、見慣れた男だった。


「よう、修司」


黒田慎一。


大学時代からの腐れ縁で、同じくフリーライター。


四十五歳だが、アノ事件以降は最近妙に肌が綺麗で、仕草にもどこか柔らかさが混じっている。


「お前も来てたのか」


「ダンジョン特集だぞ? 金になる匂いしかしない」


黒田はニヤリと笑った。


玲奈が小さく会釈する。


「黒田さん、お久しぶりです」


「相変わらず美人だなぁ。修司、ちゃんと大事にしてるか?」


「余計なお世話だ」


黒田は意味深に肩をすくめた。


対策本部のスクリーンに、問題の洞窟映像が映し出される。


赤橋から北へ三キロ。


旧久代診療所のさらに奥。


三日前まで存在しなかった洞窟が、突然山肌に現れたという。


内部調査に入った消防隊員三名のうち、一名が行方不明。


生還した二人は錯乱状態で保護された。


証言は共通していた。


「洞窟の奥に、巨大な扉があった」


修司は映像を凝視する。


岩壁に刻まれた黒い紋様。


それは赤橋地下水路で見た古い祭祀の文様に酷似していた。


嫌な予感が、背筋を這い上がる。


「取材班として入るのは君たちだけだ」


担当職員が疲れた顔で言った。


「警察も自衛隊も、今は神戸港の大規模ダンジョン対応で手一杯なんだ」


黒田が眉をひそめる。


「民間ライターに任せる案件じゃないだろ」


「承知している。だが地元事情に詳しい人間が必要なんだ」


修司は黙っていた。


赤橋。


久代診療所。


白い女。


偶然とは思えない。


夕方五時。


三人は問題の洞窟へ向かった。


山道は静まり返り、春の終わりとは思えないほど冷たい風が吹いている。


洞窟の入口は直径三メートルほど。


内部から湿った空気が流れ出していた。


玲奈が小さく呟く。


「……水の匂いがします」


修司も同じ匂いを感じていた。


地下水と、どこか古い石室のような匂い。


懐中電灯を点ける。


「行くぞ」


洞窟内部は、自然洞窟とは思えないほど滑らかだった。


岩肌は人工的に削られたように平らで、奥へ行くほど温度が下がっていく。


数百メートル進んだところで、三人は足を止めた。


そこにあったのは――


巨大な黒い扉だった。


高さ五メートル。


幅三メートル。


表面には無数の目のような紋様が刻まれている。


黒田が思わず息を呑む。


「……冗談だろ」


玲奈は修司の腕にしがみついた。


「これ、本当に地球のものなんですか?」


修司は答えられなかった。


その瞬間。


ゴゴゴ……。


扉が、ひとりでに動き始めた。


重い石の軋む音が洞窟全体に響く。


冷たい風が吹き荒れ、三人の髪を揺らした。


扉の向こうから、青白い光が溢れ出す。


修司は思わず目を細める。


その先に広がっていたのは、地下とは思えない光景だった。


巨大な鍾乳洞。


天井には星空のように輝く結晶。


中央には静かな地下湖。


そして湖の向こうに、古代神殿のような建造物が浮かんでいた。


「……異世界かよ」


黒田の声が震える。


玲奈は修司の服をぎゅっと掴んだまま動けない。


だが本当の異常は、その直後に起きた。


地下湖の水面が盛り上がり、黒い影がゆっくり浮かび上がったのだ。


人型。


だが顔がない。


代わりに胸の中央に、赤い一つ目が開いていた。


異形は水面を滑るようにこちらへ向かってくる。


その瞬間、修司の右手に焼けるような激痛が走った。


「ぐっ……!」


視界が白く弾ける。


耳元で、誰かの声が囁いた。


《適合者を確認》


右手の甲に、黒い紋章が浮かび上がる。


玲奈が悲鳴を上げた。


「修司さん、その手――!」


紋章は青白く輝き、洞窟全体が共鳴するように震え始めた。


そして修司の視界の端に、半透明の文字が浮かび上がる。


【ダンジョン適合者】


【固有スキル:《観測者》を獲得しました】


赤い一つ目の異形が、獲物を見つけたようにこちらを見据える。


修司は痛む右手を握り締めながら、静かに呟いた。


「……どうやら、取材どころじゃなくなったらしいな」


地下湖の闇が、大きく波打った。

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