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第10話 静寂の海底回廊


音が消えた。


波の音も、風の音も、誰かの呼吸すら聞こえない。


修司は暗闇の中に立っていた。


身体がふわりと浮くような感覚に襲われ、次の瞬間、足元へ冷たい石の感触が戻ってくる。


視界がゆっくりと明るくなった。


そこは海底だった。


いや、正確には海底に存在する巨大な回廊だった。


青白く発光する珊瑚が壁一面を覆い、天井の向こうには水が揺れている。


まるで透明な海の中に、空気だけを切り抜いた世界が存在しているようだった。


「……うわぁ」


あやめが感嘆の声を漏らす。


「空間隔離型の内部構造……理論上は存在するかもしれないって言われてましたけど、本当にあるなんて……」


黒田が周囲を見回しながら肩をすくめた。


「感動してる場合か。俺には水族館のホラー版にしか見えん」


玲奈は修司のすぐ隣に立ち、袖を離さない。


その指先の力から、かなり緊張しているのが分かった。


美咲が先頭で周囲を警戒する。


「通信チェック」


彼女が小型魔石通信機を操作すると、ザーッというノイズの後に声が聞こえた。


『こちら管制。辛うじて通信可能です』


「良好とは言えないけど、完全には切れてないわね」


修司は胸を撫で下ろした。


完全孤立ではないらしい。


回廊の床は黒い石でできていた。


ところどころに古代文字のような紋様が刻まれている。


修司がそれを見ると、《観測者》が自動的に反応した。


【深海文明文字を解析中】


数秒後、意味が頭の中へ流れ込んでくる。


《供物を捧げよ》


《深き母は飢えている》


修司は眉をひそめた。


「また嫌な宗教っぽい文だな」


美咲が振り返る。


「読めるの?」


「ああ。供物がどうとか、深き母が飢えてるとか」


あやめが目を輝かせる。


「すごい……! 未知言語のリアルタイム翻訳なんて、完全にチート能力じゃないですか!」


「本人としては全然嬉しくない」


修司は本音を漏らした。


回廊を進むにつれ、花のような甘い香りが強くなっていく。


玲奈が小さく鼻をひくつかせた。


「この匂い……何だか眠くなりそうです」


その瞬間、《観測者》が警告を表示した。


【精神干渉性花粉を検知】


「息を浅くしろ!」


修司が即座に言うと、美咲もマスク型フィルターを取り出した。


「あやめ、簡易フィルターを配って!」


「は、はい!」


全員が口元を覆う。


数歩遅れていた黒田がふらつき、壁に手をついた。


「危なっ……今、一瞬すげえ眠気が来た」


「植物系の精神攻撃か」


修司は甘い香りの先を睨んだ。


深海なのに花粉。


このダンジョンは、生態系そのものが地球の常識から外れている。


やがて回廊は大きな空洞へ繋がった。


中央には、青白く光る巨大な植物が根を張っている。


高さは二十メートル以上。


珊瑚と樹木を混ぜたような異様な姿だった。


枝の先には透明な花が咲き、その花弁から淡い光が降り注いでいる。


あやめが息を呑む。


「これが……樹木型コア……」


修司の視界に表示が浮かぶ。


【名称:アビサル・ブルーム】


階層維持中枢


精神誘導能力を確認


周囲に守護個体が存在


その瞬間、花弁がふわりと開いた。


甘い香りが一気に広がる。


玲奈が小さくふらついた。


「玲奈!」


修司が肩を支える。


彼女の瞳がぼんやりと揺れていた。


「……修司さんの声が、すごく遠く聞こえる……」


精神干渉が始まっている。


美咲が魔石ライフルを構えた。


「全員、警戒!」


直後、巨大植物の根元の水面が盛り上がった。


ズズズ……。


現れたのは、人型だった。


上半身は青白い女性。


だが下半身は無数の触手と珊瑚で構成されている。


長い髪のように見えるものは、細い海藻状の器官だった。


その姿を見た瞬間、修司の背筋に冷たいものが走る。


どこか赤橋で見た“白い女”を連想させる、不気味な女性性。


《観測者》が表示する。


【名称:深海の巫女】


【危険度:C+】


【警告:視線接触による精神汚染の危険】


深海の巫女はゆっくりと顔を上げた。


そして、驚くほど美しい声で囁く。


『……観測者』


修司は目を見開いた。


怪物が、自分を呼んだ。


巫女は透明な花弁を指先で撫でながら、微笑む。


『ようこそ、深き母の庭へ』


その瞬間、巨大植物の根元から複数の青白い眼が一斉に開いた。


空洞全体が、まるで巨大な生物の体内のように脈動し始める。


美咲が低く呟いた。


「……戦闘になるわ」


修司は玲奈を庇うように前へ出た。


《観測者》の紋章が熱を帯び、視界に新たな警告が浮かび上がる。


【深海の巫女は単独個体ではありません】


【周囲に守護群体を確認】


そして次の瞬間、水面の下から無数の影がゆっくりと浮かび上がった。

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