急転直下の撤退
時は立葵の月。楽羅軍の先陣を瞬く間に壊滅させた事は、世間をあっと言わせた。
大虎の民は身を踊らせて戦勝を祝い、靖破やアダオウを褒め称える声は日夜止むことがなかった。
方や、後続の楽羅本軍は多くの兵士が恐れ慄き、上級指揮官達も怒りに身を震わせる。北鑑や白眉や榲も、精強な大虎軍の健在を知って様々な感情を抱いた。
皆が一様に、靖破やアダオウ達がいる限りは、大虎に揺るぎなしと見ただろう。
銅龍城 軍議の間
「……なんだこの王命は……ふざけているのかっ……!!」
しかし、一番士気が上がっている筈のアダオウに関しては、ある人物からの密書が届くと同時に不穏な雰囲気に包まれた。
第三将 岩猛が何事かと尋ねれば、アダオウは無言で密書を手渡す。
岩猛は戦時中とは一変して、落ち着き払った紳士然とした物腰でそれを受け取った。
「…………ほぉぉぉぉ……? これはなんとも、ふざけた内容ですな」
「……今さら、我らに敵と和睦せよと言うのか!? 今さら我輩に、道を踏み外せと……!?」
「……せめて、もっと早く知らせてほしかったところですな。事前にわかってさえいれば、楽羅の先陣を根絶やしにする事もなく、角を立てずに立ち回れたものを」
「ぬぅぅぅ…………ブゥァァ……ブアァッ……!! …………フー! フゥーー!
――岩猛。我輩らは謀られたかもしれん。この連合の立役者にな」
「八万の楽羅軍を生贄に捧げる事で、我々の参戦を断れぬように仕向けた……ですかな? 多少出来過ぎな気もしますが、あの國王ならやりかねませんぞ」
「おのれ白眉……!! 悪知恵で大虎王家を唆し、我輩に不名誉を押し付けおった……!! 我が軍をコケにして、自分達だけ甘い汁を啜らんとするか!!」
アダオウは自分が守ってきたものが、音を立てて崩れたように感じた。
彼の不満は爆発的に高まり、正常な判断に支障をきたす程だった。
故に参謀には不向きな岩猛が、経験に則った臨時的な指揮を執る。
「……とにかく龍伯と祝万にだけ、この件を内密に伝えます。靖破軍の者達にはそれとなく理由を付けて扶美に移ってもらいましょう。後は祝万が何とかしてくれる筈です」
「……岩猛、任せてよいか?」
「それがしで良ければ、喜んで引き受けますぞ」
「うむ、頼んだ。我輩はこの動員令を何とかせねば……」
「その件もそれがしの名前で処理しましょう。白眉に命じられた様で、長官の気が済まないと見えますからな。長官は昂りが収まるまで、軍備を整えていて下され」
「…………すまんな。恩に着るぞ」
事態はアダオウ一人の一存で、どうにかできるものではなかった。
銀龍城にいる龍伯、靖破隊の退路を預かる祝万にも緊急信号が飛び、受け取った両者は解読しだい直ちに走った。
銀龍城 靖破隊駐屯地
「靖破様! 龍伯将軍より伝言です! 「楽羅軍の別働隊が扶美を狙って、西方の山合いを急行中! 祝鉱様が阻止に向かわれますが、靖破様の部隊も念の為、扶美の備えに回ってほしい」との事です!」
「ほぅ、それは驚いた。北部軍の索敵網をくぐり抜けて来たとはな。楽羅にも少しは出来る奴がいるようだ。
――リナム、バラガス。出陣するぞ。扶美に繋がる山道ともなれば、ケトに出る道もあるだろう。備えを厚くしておいて損はない」
「はい。直ちに出陣すると、兵士達に伝えます」
扶美とケトは隣り合わせの領土。扶美の山道を経由して、ケトを攻められる可能性もないとは言えなかった。
それに扶美を治める祝家の主力軍は、この銀龍城に集結している。今、扶美は手薄そのものであり、楽羅の別働隊が一万でもいればあっという間に蹂躙されるだろう。
だがここで、靖破隊にあって唯一人、純粋な軍人であるバラガスがふと疑問に思った。
(……楽羅本軍の大将がどの様な者かは知らんが、八万もの先陣を撃破されてすぐ、また各個撃破されるような部隊を送り込むであろうか……。備えを固めろという指示も解らんでもないが、牙の実力を知る龍伯の考えとしては疑問が残る。徒に部隊を動かして兵の体力を消耗させるより、牙と魔女を先回りさせて足止めをはかる方が良いと思えるが)
バラガス視点で龍伯の戦いぶりを見た限り、彼は無駄な行動を好まないように映った。
動く時はとことん動くが、そこに至るまでは軍の体力管理に気をつけている様だった。
靖破一人を動かせば済むような問題に、彼の部隊全てを動員させるなど、楽羅本軍の接近が予想される今にすることではない。というのがバラガスの考えである。
「バラガス将軍? どうかなさいましたか?」
「……北部軍第二将の指示としては、妙に無駄があると思ったのだ。その違和感に、多少の黙考を要したまでである。すぐに参ろう」
経験則で何となくおかしいとは感じたが、バラガスにその正体を見破る智慧深さは備わっていない。
考えていても始まらないと思った彼は、「何であるか判らないうちは警戒しながら動く」という結論に至った。
「…………龍伯がかくも言うのだ。扶美に向かいさえすれば、何かしら解るだろう」
靖破は元武将として、バラガスの言いたい事がなんとなく理解できた。
彼も自分達に危険が降り注ぐ事はあるまいという考えの下、ひとまず龍伯の指示通り扶美に向かうべきだと判断する。
それに最悪の場合は武力で解決するつもりだった。
靖破隊五千は準備が整い次第、銀龍城から出撃する。
祝鉱隊に遅れて出た彼等は、来た道を戻る形で扶美へ急行した。補給も祝万と合流すればどうとでもなる事から、必要最低限の武器・兵糧だけを持っていく。
扶美では領主の祝万が、城の郊外まで出迎えに来ていた。僅か二十騎ばかりの供を連れて、靖破隊の進路上に待ち構えていた。
「靖破殿、よくぞ戻られた。実は大変な事に……」
「今戻ったぞ祝覧。留守中、問題はなかったか」
「残念ながら私は兄の祝万だ」
「……あぁ……。そう言えば居たな、瓜二つの兄弟が。だがそれがどうした。俺が祝覧だと思えば、兄貴も祝覧になるのだ」
「靖破殿、戯れている暇はないぞ。本日早朝、アダオウ長官の許へ、石岳城の虎忙様より王命が届いた。「楽羅軍は金鶏菊の一日より、我が大虎の盟友である。許可のない戦闘行為は固く禁ずる」という話だ」
「えぇっ!? 楽羅国と……同盟!? 祝万様、なぜその様な話になっているのですか!?」
リナムは驚かずにはいられなかった。バラガスも落ち着いてはいるが、事態の深刻さを本能的に感じて冷や汗をかく。
「それだけではない。楽羅軍が攻めてきた理由は北部攻略ではなく、我等北部軍と連合して陽慶を攻撃する為だと言うのだ。更には國璽の押された大規模動員令も届けられたという。殿下は北部軍のみならず、北部一帯に召集をかけたのだ!」
「そ、そんな!? 同じ大虎の人間同士で争うなんて!?」
「……祝万、一つ確認したい事がある。今しがた軽く流されたように感じたが、“虎忙からの王命” と言ったか?」
「……左様。殿下は大虎王を宣言なされたそうだ」
「剣合国がそれを認めたとは思えん。僭称であれば北部軍も従う謂れはないだろう」
「否、剣合国は特例措置を設けて王号を認めたそうだ。おそらくだが、白眉王が裏で手を回したのだろう。ともかく、殿下は本気で貴女達を討ちに来たのだ」
「…………どうしよう……私のせいだ。私が、殿下の逆鱗に触れたから……」
愚王が政治の実権を握り、軍を動員すればどうなるか。実際に身をもって知ったリナムは、目の前が真っ暗になった。
軍事や権力者の陰湿さに疎い彼女は、心の何処かで甘く見ているところがあったのだ。虎忙がいかに話の通じない相手でも、同じ國の人間ならば、味方同士のいわば内乱にまで発展させる事はないだろうと。
『誰がリナムのせいだよ。意味のねぇ事に悩んでる暇はないだろ?』
「……シュラ様……」
シュラは項垂れるリナムの肩を寄せ、互いの額をコツンと合わせて落ち着かせる。身長はリナムの方が少しだけ上であった。
「魔女殿の仰る通り、ぐずぐずしている暇はない! 私は龍伯殿より、貴女達を帰還させるように頼まれた! 既に退路を塞がんとして、楽羅の別働隊がこの扶美に迫っている! 包囲を敷かれるより先にこの地を脱するのだ!」
「北部軍はどうする気だ? 虎忙の命令に従って俺達を攻めるならば、容赦はせんぞ」
「……わからん。全てはアダオウ長官しだいだ。我々北部の軍人は、戦時にあっては大虎王より北部軍長官に従うべしと、強く教育されている。実質的な剣合国の盾となる軍隊が、大虎王と現場の指揮官、両者の意見に流されて統率を乱さない為にな」
北部軍では大虎王を最上位に捉えながらも、時として現場の大将の命令を優先する。
それは剣合国を中心とした世の中に於いて、外側の最前線に位置する北部軍だからこそ許される独立性でもあった。だからこそアダオウの判断次第で、敵にも味方にもなる。
「とにかく今の状況ではどう転ぶかわからん。城を迂回して、東側の街道を突っ走ってくれ! 替えの馬や物資を提供するように、道中の各拠点には指示を出してある。体力さえ続けば、止まることなく陽慶まで行けるだろう」
扶美は最前線の那盤と陽慶を繋ぐ要所である。街道沿いには多くの基地が建造されており、有事にはそこに蓄えられた物資を放出して、疾風の如き進軍速度を維持できるように訓練されていた。
故に扶美の領主は、軍事以上に政務の才に長ける者でなければ務まらない。
かの人物には、軍需物資を生産・収集し、蓄え、適切に運用することの出来る事務処理能力を要されるのだ。
そして本番となった今、各拠点の隊長達が迅速な連絡および手配を遂行した事からも、祝万の実力の程が窺い知れる。
領主の力量次第で友軍を生かすも殺すもできる影の存在に、靖破は改めて、流石祝覧の兄である事を理解した。祝家に不才の者はなし、と。
「隠れた精鋭軍こそ、祝家自慢の兵団か。配慮に感謝するぞ、祝万。
――リナム。君が気を落とす必要はなければ、その時間もないぞ。ここでまごついていれば楽羅だけでなく、虎忙や北鑑まで攻め寄せて来るだろう。先ずは陽慶に戻り、祝覧と合流する」
「靖破様…………わかりました。兵士達に陽慶への転進を伝えます」
初戦の勝利が嘘のように、靖破隊は陽慶への撤退を余儀なくされた。
せめてもの救いは、負けて下がるのではなく、勝って下がるという事だろう。
悔しがる兵士には、バラガスがその様に言って聞かせた。
《確かにふざけている》
「……なんだこの王命は……ふざけているのかっ……!!」
ある人物からの密書が届くと同時に、アダオウは不穏な雰囲気を放った。
第三将 岩猛が何事かと尋ねれば、アダオウは無言で密書を手渡す。
「アダオウへ。余は王になった余。記念の宴には是非、褌一丁になった君の赤裸々な姿が見たいんだなウホウホ。
――うほおおぉぉぉぉぉっ!? こ、これはなんとも……ふざけた内容ですな」
「……我輩に、人としての道を踏み外せと!?」
「……王命でなければ龍伯にやらせるところですな」龍伯(えっ……!?)
「…………岩猛、任せてよいか?」
「はっはっはっ、ご冗談を。それがしは下着を履かぬ主義です」
「……ノーパンか。それはそれで問題な気はするが仕方はないな」
「申し訳ありません。それがしの赤裸々な姿とは即ち、わいせつ物陳列罪。子供の夢を破壊しかねません」
「だが我輩とて、褌一丁は嫌だ。何か手はないか?」
「ではやはり龍伯へ」龍伯(えっ……!?)
「それしかないな」龍伯(えぇぇっ!!?)
こうして虎忙の密書は、アダオウ宛から龍伯宛に書き直された状態で、銀龍城へ流されましたとさ。めでたしめでたし。龍伯「そんな訳があるかぁぁ!!」




