第七幕 アパート(後編)
真白な陶器皿をローテーブルに並べ、二人はソファーの前に座り込んだ。
眞琴は少し焦げたホットケーキを何気に自分の皿に乗せ、伽羅の皿にはうまく焼けたものを乗せた。
たっぷりとかけられたメープルシロップが、ホットケーキの表面にツヤツヤとした層を作っている。伽羅はフォークとナイフを手に取り、嬉しそうに端を切り分けた。
「いただきます。んん〜っ、外はサクサクで中はふわふわ! 眞琴、焼き加減がバッチリです!」
「それはよかった。うん、美味しいね。……でね、伽羅。さっきの「現実を固定する」って話だけど」
眞琴はフォークを動かさず、皿の上のホットケーキを見つめたまま、思考のさらに奥深い層へと足を踏み入れていた。
「はい、疲れるねって話しですね? ふふ」
「うん。ははは。それでね、もし、この現実世界が、みんなで認め合っているからこそ固定されているのだとしたら……僕たちが毎日やっている「夢から目覚める」っていう行為そのものは、一体どういう仕組みになっているんだろう、って思うんだよ」
伽羅は優しく微笑みながら言った。
「眞琴。ホットケーキが冷めてしまいます」
伽羅はニヤニヤ微笑みながらそう言ったが、こうなったら眞琴は自分でも止まれない。
「……伽羅。僕は昔、オーバードーズで心臓が止まりかけて、臨死体験をしたって話したろう?」
伽羅の手がピタリと止まった。ナイフを置き、少し真剣な目つきで僕を見る。
「……はい。聞きました」
「あの時、僕の意識は、この肉体という重たい檻を抜け出して、自分と他人の境界線が綺麗に溶け去った、だだっ広い世界にいたんだ。過去も未来もない、ただ純粋に満ち足りた意識の海。あれがたぶん、何の制限も不自由もない高次元の世界なんだ。……でも、医者たちの蘇生処置で、僕は再びこの世界に引きずり戻された」
眞琴は胸のあたりに手を当て、あの夜の感覚を思い起こした。
「あの時、痛みに苦しんだわけじゃないんだ。ただ……あの無限に広がっていた自分の意識を、無理やりこの狭い「生島眞琴」というちっぽけな個人の器に押し込め、片方向の時間軸に縛りつけ、みんなと景色を共有するために意識のピントを懸命に合わせる……その作業が、恐ろしく重たくて、不自由で、莫大な精神力を使い果たすほどの決死の力仕事だったんだよ」
「意識のピントを合わせる……」
「そうだ。そしてね伽羅。思うんだけど、僕らが毎朝、目覚まし時計で叩き起こされる瞬間のあの体の重さ。あれは、あの臨死の淵から現世へとチャンネルを合わせて戻ってきた時の感覚のミニチュア版なんだ」
「なるほど。今度はなんとなくわかりました。それは大発見」
僕はテーブルに両肘をつき、言葉を組み立てていく。
その時、眞琴の頭の中にスパークが飛び散った。
「まてよ、そうか、そういうことか!」
眞琴は高ぶる気持ちを落ち着かせて、いま脳裏に浮かんだ論理を順番に丁寧に考察してみた。
「つまり整理すると、こうだ。
①まず、僕たちが他の人と同じルールで観測を共有する。
②そうして初めて、バラバラだったイメージが一つの硬い形になり、この時空間という現実世界が構築される。
③そして、その現実世界のルールの中に自分の意識の焦点をガチッと合わせるからこそ、自分がこの世界に存在できる。
「観測の共有」→「世界の構築」→「個の存在」。この三段論法こそが、「生きる」ということの本当のシステムなんじゃないか?」
「……生きるためのシステム……それはまた大きくでましたね。なぜに生きるシステム?」
「たぶん、あのだだっ広い世界は、いわゆる死後の世界なんだよ。そして、この世界に戻るために苦労してピントを合わせることこそが、生きるということなんだよ。言い換えれば、生きるということは、みんなと現実を固定し続けるために、絶えず多大な集中力を払い続けることなんだ。だから生きることは重く、苦しく、疲れる」
「眞琴、すごい。分かった気がする。つまり生きるってことは、意識をこの世界に保つってことなのですね」
「その通りだよ、伽羅。逆にその精神力が尽きて意識をこの世界に保てなくなったら……」
「死ぬの?」
「もし人間が、現実にチャンネルを合わせるための莫大な集中力を失って、みんなとの観測共有が切れてしまったら……」
伽羅はフォークを弄びながら、じっと眞琴の言葉を待っている。
「病院の窓口にね、時々、大迫さんっていう、半年前にうちの病院で奥さんを亡くして、いまは独り身になった認知症のおじいちゃんが来るんだ。伽羅も知ってるかな? そのおじいちゃんはロビーにじっと座ってるんだけど、声掛けすると、「あそこの椅子に妻が座って待っている」と言って、愛おしそうに誰もいない空間を見つめてるんだ。……あのおじいちゃんは、僕たち全員と現実を固定するのをやめて、自分一人の世界を構築し始めている。つまり、他者との観測共有から少しずつ離脱して、この現実世界に存在する力が弱まっている状態だと考えられないかな」
「それは……」
「そう。僕が臨死体験のときに、世界の境界線を見失っていった感覚と全く同じなんだよ。……人間にとって本当の『意識の死』とは、心臓が止まることじゃない」
僕はぽつりと、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「『意識の死』とは、みんなと一緒に現実を固定するのをやめて……「個」の自分という「渦」がほどけて、混ざり物のない純粋な意識の海――「阿摩羅識の海」へと還っていくことなんだ」
「ああ、なんとなくわかります。死んだら無限の海に帰っていくって聞いたことがあります」
「そうそう。水面の渦巻きや竜巻、台風なんかもそうだけど、渦って、何もないところから生まれて「個」として形を作り、やがて消えて何も残らないよね」
「はい。なるほど、それが「個」としての私たちであると」
「そう。この現実にチャンネルを合わせるエネルギーが尽き果てたとき、僕たちを現世に繋ぎ止めていたエゴの渦は完全にほどけてしまうんだよ。意識は無限の海に溶け込み、「個」という単位が消滅する。過去も未来もない、あの完璧な無限の世界へと戻っていくんだ」
開け放たれた窓から入る初秋の爽やかな風がレースのカーテンを緩やかに揺らし、壁の時計の針がチクタクと規則的に音を刻んでいる。眞琴は自分の口から飛び出した「宇宙の最高機密」のような冷徹な論理を前にして、一種の畏怖に包まれていた。
伽羅がふーっと大きなため息をついた。
「……眞琴」
「ん?」
「眞琴の言ってること、難しくてたぶん半分くらいしか分からないけど……それは要するに、みんな「渦」ってことですか?」
「みんな渦?」
「そう。一生懸命ほどけないように、固まって頑張ってる渦。ほどけちゃえば楽なのに、がんばって「生島眞琴」とか「草薙伽羅」とかという形の渦のままでいようとしてる」
「……! ああ、まさにその通りだ」
「わかった気がします。そんなふうに考えたことなかったけれど、なんか面白いです。……でも、眞琴?」
伽羅はニッと笑って、シロップで濡れたフォークを僕の鼻先に突きつけた。
「美味しいホットケーキがここにこうして、ほどけないで形を保って固まっているのだから、冷めないうちに食べましょう。冷めたら固くなってしまう!」
「……ふっ」
思わず、眞琴の口元から笑いが漏れた。
彼女の天然で真っ直ぐな感性が、小むずかしい理論の迷宮に陥りかけていた眞琴の意識を、あっけらかんとこの「現実世界」に引き戻した。
「そうだね。固まっているうちに、味わわないとな」
「そうです! ほら、お口を開けて、あーん」
「自分で食べるよ!」
眞琴はフォークを取り、自分たちの共有観測によってこの世にガチッと固定されたホットケーキを切り分け、口へと運んだ。
甘くて、温かい。
この圧倒的な不自由さと重たさを持つ現実世界が、ほんの少しだけ愛おしく思えた。
ただ眞琴は、夢の中でも他者がリアルに振る舞うことについて、納得できていない。眞琴の中でその引っ掛かりが大きなささくれのように痛むのだった。
【気づき】
《三段論法》……「生きる」というシステムの正体とは、他者と観測を共有し、世界という現実を立ち上げ、その確固たる枠組みの中にみずからの意識の焦点を固定し続ける途方もない営みなのではないか。
《意識の死》……人間にとっての「本当の死」とは肉体の機能停止ではなく、他者と現実を固定していたエネルギーが尽き、世界との観測共有から静かに離脱していくプロセスなのではないか。




