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アーカーシャの箱庭  作者: 小泉 佳
第二章 気づき
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8/21

第六幕 アパート(前編)

 九月に入り、ほんの少し秋の気配を含んだ柔らかな日差しが射し込む日曜日。

 三十五歳の生島眞琴は、自宅アパートのローソファーに深く身体を沈め、所在なく天井を見つめていた。

 月曜日から土曜日まで、須弥山(すみやま)総合病院の受付窓口で無数の患者の伝票を処理し、他者の放つ静かな負の波動を受け止め続けていたせいか、全身に鉛のような疲労感がまとわりついている。

 かつて自らが境界線を越え、あちら側の世界に触れたあの「臨死体験」。あのとき感じた、時間も空間も消失した圧倒的な全能感は、最先端の物理学が予言する高次元の世界であり、人間の意識が創り出すホログラムだったのだろうか。


 重くなる瞼の裏で、ふと、奇妙な確信が眞琴のなかに湧き上がった。

(……そうか。夢の世界が! なぜ今まで気づかなかったんだ)

 そう、夢の世界には、過去も未来もない。距離の概念すら存在せず、想った瞬間にその場所へ行ける。それこそが、三次元の時空間に囚われない「高次元」の顕れではないか。

 消音にされたテレビの画面から、無機質な光が明滅しながら放たれ、部屋の中には、時計の針が刻む規則的な音だけが響いていた。開け放した窓から流れ込む少し涼やかな秋風を感じながら、眞琴はいつの間にか、深い微睡(まどろ)みの海へと意識を滑り込ませていった。


 うとうととして、意識が完全に闇に落ちるか落ちないかの、その刹那。

 ――ピンポーン。

 突然、部屋のインターホンが鳴り響いた。

 眞琴は重い身体をのろのろと動かし、ソファーから立ち上がった。ネットで注文していたギターの新しい弦が、今日届く予定だったことを思い出したのだ。

 玄関へと歩き、ドアを開ける。そこには制服を着た宅配便の配達員が立っていた。「生島さん、お荷物です」と言われ、眞琴は受け取りのサインをして、見た目より軽い段ボール箱を受け取る。ドアを閉め、部屋に戻って箱を開けようとした、その瞬間――。

 ハッと息を呑み、眞琴は激しい目眩とともに、勢いよく目を開けた。

 視界に飛び込んできたのは、さっきまで見ていたはずの玄関ではなく、自宅アパートの見慣れた天井だった。身体はソファーの上に横たわったままで、指一本動いていない。手元に荷物などなかった。

 夢、だったのだ。あまりにもリアルな、現実と寸分違わぬ白昼夢。

 その時、ふとスマートフォンの画面が明るくなり、通知のバイブレーションが短く鳴った。画面を見ると、宅配アプリから『お荷物の配達が完了しました(置き配)』という通知が表示されている。

 眞琴は弾かれたように立ち上がり、今度は「本物の肉体」を動かして玄関のドアを開けた。そこには、先ほど夢の中で見た段ボール箱が、静かに床に置かれていた。

「……夢、だったのか」

 届いた箱を抱え、部屋に戻ってローソファーに座り直した。背中に薄寒い汗が伝わっていく。

 今起きたことの仕組みが、眞琴の頭の中で、まるでパズルが噛み合うように見えてきた。

 よくオカルト番組なんかで言われる「幽体離脱」の正体って、きっとこれだ。

 肉体はソファーの上で眠っているのに、意識だけが「そろそろ荷物が届くはずだ」という記憶をもとにして、勝手に玄関まで行って応対を済ませてしまう。つまり、自分の頭が作り出した、ものすごくリアルな幻(イメージ)の単独飛行なのだ。


 段ボール箱を見つめながら、眞琴の考えはさらに深く潜り込んでいこうとした、まさにその時――。

 ――ピンポーン。

 再び甲高い電子音が部屋に響き渡った。

「うわっ!?」

 眞琴はびくりと肩を震わせた。また夢かと一瞬警戒して手元を見ると、そこには冷たい段ボール箱の感触が確かにある。

 おそるおそる立ち上がり、玄関へ向かってドアを開けた。そこに立っていたのは宅配員ではなく、ビニール袋を両手に下げたエプロン姿の伽羅だった。


「こんにちは、眞琴。お邪魔します。」


「伽羅……? なんでここに」


「なんでって? ふふ、約束してたからです。 日曜の昼下がりは、私が最高のホットケーキを焼いてあげるって。小麦粉と卵とバターと牛乳、買ってきました」


 伽羅は眞琴の脇をすり抜けて部屋へ上がり込むと、慣れた手つきでキッチンへと向かった。棚から手際よくボウルや泡立て器を取り出し、カチャカチャと心地よい音を立ててテーブルに並べていく。


 「ここに来るの、3週間ぶりくらいかな。あ、ポトスも元気によく伸びてますね。ねえ眞琴、洗濯はもうしましたか? 今日はいい天気だから、干したらすぐ乾いちゃいますよ」


 まるで甲斐甲斐しい通い妻のような言葉を並べながら、伽羅はベランダのほうへ視線をやった。


 眞琴のアパートは、ゆったりと流れる大きな河川のすぐ傍らに建っている。三階にある部屋の窓を開け放つと、川面を撫でてきた初秋の清々しい風が部屋の奥まで吹き抜けた。その風に乗って、河川敷の草むらから鳴き始めた虫の音や、遠く澄み渡る鳥のさえずりが、どこか遠く、けれど鮮やかに届いてくる。


 ふわりと膨らんだレースのカーテン越しに外の景色を覗き込んでから、伽羅は満足そうに微笑み、テーブルの向かいへと腰を下ろした。


 「ありがとう、伽羅。よく来てくれたね。まずはお茶でも淹れようか」


 眞琴は立ち上る湯気を眺めながら、急須をゆっくりと傾けた。


 幼馴染という免罪符があるとはいえ、相手はまさに華やいで真っ盛りの年頃の女性だ。九つも年が離れた、冴えない三十五歳の男の部屋にこうして平然と上がり込み、我が物顔で居場所を作っている――そのシチュエーション自体に、眞琴の胸の奥では微かな躊躇いと罪悪感がチリリとくすぶっていた。


(世間一般から見れば、不釣り合いもいいところだろうに……)


 もし誰かに見られれば、都合のいい関係だと勘違いされるかもしれない。あるいは、自分自身が彼女の眩しい青春を搾取しているのではないかという、小さな自己嫌悪。一線を画すべきだという理性の声は確かに頭の片隅で鳴っているのだ。

 けれど、目の前で無邪気に笑い、部屋全体を明るい空気で満たしていく伽羅の無防備な愛らしさを前にすると、その頑なな警戒心もあっけなく解けてしまう。彼女の屈託のない笑顔や、当たり前のように自分を頼り、距離を詰めてくる無邪気さに、どうしようもなく惹かれ、毒気を抜かれてしまうのだ。

 いけないと分かっていながら、この心地よい温もりにすがってしまう自分。彼女にとって自分は「気やすくて頼れるお兄ちゃん」に過ぎないのかもしれないという諦めと、もしそれ以上の感情を抱かれていたらという甘い期待の狭間で、心はいつでも優柔不断に揺れていた。

 境界線を引かなければと思いつつも、彼女の放つ眩しさと一途な好意に抗えず、結局はこの曖昧で愛おしい「特別」な関係に甘んじてしまう。急須を置き、お茶を運ぶ眞琴の手元には、そんな男の情けないほどの弱さと、隠しきれない愛おしさが滲み出ていた。


 伽羅はキッチンスケールの上に丁寧にボウルを載せ、彼女が小麦粉と称したホットケーキミックス、卵、そして牛乳を順に注ぎ入れていく。その手つきは驚くほど手慣れていて、目盛りに注ぐ視線は真剣そのものだ。泡立て器を手に取ると、手首を軽やかに滑らせて生地を混ぜ合わせ始める。カチャカチャと響く規則的な金属音が、どこか温かいリズムとなって狭い部屋を満たしていった。

 その間に、眞琴はテーブルの端を少し片付け、卓上IHコンロをセットする。

 温まったフライパンを一度じゅっと濡れタオルの上に置き、底の熱を静かに逃がす。余分な熱が取れたのを見計らい、伽羅が丁寧にこしらえた生地をレードルでひとすくい。滑らかな円を描くようにフライパンの真ん中へ落とし込むと、ぽってりとした白い生地が優しく広がった。

 再びコンロへと戻し、火力を弱火に絞る。

 じっと耳を澄ませ、表面の変化を見守る静寂の時間。やがて、表面にぷつぷつと小さな気泡が浮かんでは弾け、同時に香ばしく甘い香りが、秋風の吹き抜ける部屋いっぱいにふわりと広がっていった。


 「あ、焦げちゃいます眞琴!ほら、早くひっくり返さないと」


「あ、ああ……」


慌ててフライ返しを滑り込ませ、ホットケーキを裏返す。きれいにきつね色の焼き目が現れた。

 それを見届けてふうと息をつくと、伽羅は満足そうに鼻を鳴らし、ボウルの端に残った生地をゴムベラでこそぎ落としながら言った。


 「眞琴、さっきからぼーっとしてるけど、何か嫌なことでもあったのですか? 病院の受付でまた変なクレーマーに絡まれたとか」


「いや、そうじゃないんだ。……実は、伽羅が来る直前、妙な夢を見ていてね」


「夢?」


「ああ。うとうとしてたらインターホンが鳴って、僕が玄関を開けたんだ。そしたら配達員さんが立っていてさ。ネットで頼んでいたギターの弦の段ボール箱を受け取って、サインをして、部屋に戻って箱を開けようとした……その瞬間に、ハッと目が覚めた」


「ん?」


「目を開けたら、僕はソファーの上に転がったままで、指一本動かしてなかった。夢だったんだ。……その直後にスマホが鳴ってね。宅配アプリから「置き配完了」の通知が届いたんだよ。本物の身体を動かして玄関を開けたら、夢で見たのと同じ箱がそこに置いてあった」


 フライパンから皿へ、ふわふわのホットケーキを移す。伽羅は「こっちは美味しそうにできた!」と目を輝かせ、メープルシロップの瓶を手に取った。


 「なるほど眞琴、それは予知夢とか、それともエスパーですか」


「違うよ。予知なんかじゃない。……あれは、僕の頭が作り出した「イメージの単独飛行」だ。オカルトで言う幽体離脱の正体も、たぶんこれなんだと思う」


「幽体離脱?したのですか?」


「そう。肉体はソファーで眠っているのに、意識だけが「そろそろ荷物が届くはずだ」っていう記憶や予測をもとにして、勝手に玄関まで行って応対を済ませちゃったんだ。……で、考えてたんだけど、夢の世界ってさ、自分一人だけで完結しているでしょ? 自分が「ある」と思えば空だって飛べるし、景色だって自由に変えられる。けれど……つまり、そこに他人がいない以上、その存在証明には何の意味もないんだよ」


 眞琴はレードルを手にして、二枚目の生地をフライパンに流し入れながら、自分の思考の淵へと潜り込んでいく。伽羅は次の生地をカチャカチャと混ぜる。


 「ふふふ、眞琴、熱弁してるのはわかるけど、いまいちなに言ってるのかわからない」


「ああ、つまりね。夢の中でいくらリアルにギターを弾いても、それは起きている時の現実世界を真似て、自分の頭の中だけで描いている思い出のコピーにすぎないんだよ。それは現実じゃない。唯識でいうところの、エゴの心……末那識(まなしき)が持つ特殊な能力だ。……でもね、伽羅」


「はい?」


「じゃあ、いまこうして焼きたてのホットケーキを目の前にして、シロップをかけようとしている「この現実世界」が本当に本物の現実だっていう証拠は、一体どこにあると思う?」


「ああっ……やっと眞琴が何を言おうとしてるのかわかりました。ふふふ。そうだなぁ、単純に、ここに甘い匂いがして、食べたら美味しいから、だからこれは現実?」


「いや、僕たちが見ている景色や触れている感覚は、すべて自分の脳や目を通して捉えた結果だ。つまりこの現実の景色だって、夢と同じ「ただの自分の頭の中のイメージ」かもしれないんだよ。わかるかい? そうじゃないって、言い切れないんだよ」


 伽羅はメープルシロップの蓋を開けたまま、首をかしげた。

 そして、トッピング用に用意していたバターの塊を、ポトンと熱々のホットケーキの上に落とした。バターが熱でじわじわと溶け、黄金色の筋を作っていく。


 「んーなるほど……。でも、私が「眞琴、バター溶けて美味しそうね」って言ったら、眞琴も「そうだね」って思うでしょ?」


「……え?」


「一人で夢見てるときは、バターが溶けてもたぶん誰も何にも言わない。でも今、私が「美味しそう」って言って、眞琴も「美味しそう」って思って、二人で「美味しいね」って言って食べてるんだから、これは夢じゃないってことになりませんか」


 ガツン、と頭を殴られたような感覚がした。


 フライパンの上で生地が焼けるパチパチという音が、やけに鮮明に耳に響く。


 「……それだ!まさにそれだよ、伽羅!」


「おわっ? 私なんか変なこと言いましたか?」


「いいや逆だよ。君はやっぱり天才だ、ものすごい真理をいま言ったんだ。……つまり、夢がどこまでもリアルなら、僕らは夢と現実の区別がつかないわけだ。それを「絶対にこれは現実だ」と証明できる唯一の拠り所は、要するに自分一人で完結するんじゃなくて、誰かに「私もそこにそれがあると思う」と言ってもらえた時、初めてその物質が、その二人の間で、確固たる現実として存在が確定するんだ」


「要するに、二人以上で認めあえば、それは現実ってこと?」


 細い眉を寄せながらも、伽羅はなんとか理解しようと言葉を返す。

 眞琴はフライ返しを握りしめたまま、熱っぽく言葉を重ねた。


 「そういうこと! さっきの夢の応対は、夢の中だから当然、僕一人だった。でも逆に言うと、自分のほかに誰もいなかったから、夢で終わったんだ。つまり現実とはならなかったってこと。……でも、例えばいまここにある荷物や、このホットケーキは違う。宅配員さんが置き、僕が見つけ、そして伽羅が「美味しそうね」と声をかけてくれる。お互いに「そこにそれがある」と確認し合い、認め合う……。ただその一点だけが、この世界を「夢じゃない、実在する現実だ」と繋ぎ止めている唯一の錨(いかり)なんだ!」


「ああ、ふふふ、言いたいことはなんとなくわかりました。要するに「一緒に食べるから美味しい」ってことですね」


「ああ、ははは、なるほど。そうだね、本質的にはそういうことかもしれないな」


眞琴は少し考えてから再び静かに口を開いた。


「……つまり僕たち人間はね、オギャーって生まれたその日から、周りのみんなと関わって、みんなで景色を共有することで初めて、周りの物質や、この空間、過去から未来へ流れる時間そのものを「本物だ」と認識している。……そうか、つまり僕たちの心の仕組みには、他の人、いや、人だけじゃない、他の命と関わることそのものが、現実を現実として確定するための大前提として刷り込まれているんだよ」


「だから私たちは、受付のお仕事でいつもあんなにクタクタになってるのですね」


「え?」


「だって、毎日毎日、病院で何百人もの患者さんと「はい、受診票ですね」「熱があるんですね」って、現実を一緒に確認し続けてる。それはものすごいエネルギーを使うことです。 疲れて当たり前なのです」


「……そうだ。窓口でへとへとになるのも当たり前だったんだ。この現実世界をみんなで維持するために、僕の、いや、僕たちの意識は毎日、気が遠くなるほどのエネルギーを使い続けているんだから……」


「でも眞琴? 夢の中に家族や友人が出てくることもあるし、会話をすることもあるんじゃないかな。宅配の配達員とか……」


「んぐっ!」


 伽羅がぽつりと呟いた言葉に、眞琴は息を呑んだ。


(確かにそうだ……。説明がつかないな……)


 眞琴の中で何かが引っ掛かっていた。今の伽羅の言葉。夢と現実の違いが説明できない。だが、何が引っ掛かっているのか、自分でも分からなかった。


 フライパンの焦げる匂いにハッとして、慌てて火を止める。

手元のフライパンには、伽羅という「他者」によって強固に現実として固定された、少し焼きすぎたホットケーキが乗っていた。




【気づき】


《夢の正体》……夢とは単なる脳の誤作動ではなく、三次元の肉体という制約から解放された意識が、時間も空間も超越しうる「高次元の自由度」を垣間見ている状態なのではないか。


《観測共有》……一人の観察では「夢」か「現実」かの判別はつかず、複数の意識による「観測の共有」があって初めて、この世界は確固たる「現実」として確定するのではないか。


《意識の生》……私たちの意識に深く刻まれた「生の条件」とは、ひとりきりで存在することではなく、他者や他の命と景色を分かち合い、世界を「本物」として互いに認め合うことなのではないか。

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