第五幕 真空寺その3
境内を包む真夏の蝉時雨が、遠くで響いていた。寺務所の居間の縁側を吹き抜ける風が、かすかに庭の青もみじを揺らす。打ち水の湿り気を帯びたぬるい風と、古い木造の建物の匂いと、線香の香りが混ざり合い、胸の奥の乱れた呼吸が、少しずつ整っていく。
眞琴は意を決して気分を切り替え、努めて明るい声で言葉を紡いだ。
「じいちゃん……唯識を勉強していて、ずっと引っかかっていることがあるんだ。阿摩羅識は阿頼耶識とどう違うんだ?」
胸の痛みを静かな知的好奇心へと変えるように、眞琴はパチパチと弾けるサイダーの泡を見つめながら、海印へ問いかけるのだった……。
海印は白く長い眉を少しだけ動かし、コップの中で揺れる氷を愛おしそうに眺めた。
「うむ、そうじゃな……いいかい眞琴、このコップに浮かんでいる「氷」が、末那識じゃよ」
海印は古びた指で、ガラスの側面を軽くトントンと叩いた。
「よく見てごらん。氷には、水面から上に突き出ている部分と、水面下に深く沈んでいる部分があるじゃろう。この水面上の部分が、我々が普段「自分の心だ」と認識している意識じゃ。そして、水面下に沈んでいる大きな部分……これこそが、二十四時間「私はここにいる、自分が一番大切だ」と、知らず知らずのうちに自我に執着し続けている、第七の心――末那識の正体じゃな」
眞琴は息を呑み、コップの中の氷を見つめた。
水面の上と下。自覚できる意識と、無意識のエゴ。それらは別々のものではなく、一つの「氷」という形を持った、同じ心の表と裏なのだ。
「では、その氷を取り囲み、満たしているこの炭酸水……これが、第八の阿頼耶識じゃ。過去のすべての経験の記憶が、この心の蔵のなかに絶え間なく蓄積されておる。私たちが普段見ている現実も、この阿頼耶識の記憶が原動力となって目の前に現れているにすぎん、というのが唯識の基本的な考え方なんじゃよ」
「……じゃあ、阿摩羅識は?」
眞琴が身を乗り出して尋ねると、海印は深く、静かに微笑んだ。
「このサイダーからな、混ざり物である砂糖や、弾ける炭酸を、すべて綺麗に取り除いてごらん。後に残るのは、何じゃ?」
「……ただの、純粋な水?」
「そう。味もなければ、泡立つこともない。何の濁りもなく、ただそこに「ある」だけの清らかな水。それこそが、すべての意識のさらに奥にある、最も清浄な領域――阿摩羅識じゃ」
海印はコップを持ち上げ、一口静かにサイダーを喉に流し込んだ。
「元々はな、すべてがその汚れなき真理の水(阿摩羅識)であったところに、様々な経験の記憶が加わることで阿頼耶識となり、そこからさらに「氷(末那識)」という個人の執着が生まれて、心がいくつもの層に分かれていった。古代のインドの僧侶たちは、そうやって心の構造を解き明かしていったんじゃよ」
パチ、パチ、と目の前でサイダーの泡が弾ける。
眞琴の脳内で、バラバラだった唯識の階層が、伝統的な教えの枠組みとして綺麗に整理されていく。
海印は「ふむ、少し待っておれ」と席を立ち、ゆっくりとした足取りで一度厨房へと戻っていった。戻ってきたその手には、抹茶粉が入った小さな缶が握られている。
「じいちゃん、それは?」
「まぁ見ておれ。これが、我々の「意識」のうえで起きるすり替えじゃ」
海印はスプーンの先で、緑色の粉をほんの少しだけすくい取った。そして、サイダーの波を立てないよう細心の注意を払いながら、水面から突き出た「氷(自我)」のてっぺんへ、そっとその粉を載せた。
湿り気を帯びて濃緑色となった抹茶粉は、サイダーに触れることなく、白い氷の頭をちょこんと帽子のように彩っている。
「いいかい、眞琴。水面下の「末那識」には、すべての生き物が生まれもって根本的に抱える、死ぬこと、消滅することへの恐怖、そして種の繁栄のための選択、という心理が潜んでおる。これを根本恐怖と呼ぼう。そしての、そこから湧き上がった怒りや恨みは、水面上の「意識」に「マイナス思考の自我」として現れる。わしらが人生においていろんなことで四苦八苦するアレじゃな。しかし我々は、そのままでは生きていけん。だからこのマイナスを反省し、学習し、次はどう生きるかという「成長」へ焦点をすり替えるんじゃ。それが、この氷の上に載った抹茶粉じゃよ」
「氷の上に載った、抹茶……」
「そうじゃ。恐怖から逃れるために、自らを複雑に進化させてデコレーションする。これが「プラス思考の自我」の正体であり、他者との円滑な関係に焦点を当てれば「社会倫理的な自我」にもなる。元の根本恐怖に根付いた意識、水面から顔を出しておる氷の表面を土台にして、その上に新しい意味をトッピングしていくわけじゃな」
海印はふっと悪戯っぽく目を細めた。
「まぁ、余談じゃがな。この氷の上に載った抹茶の味や量なんてものは、現代科学にかかれば脳内物質の調整――つまり薬物の投与なんかで、いくらでも意図的にコントロールできてしまう、後付けの幻のようなものなんじゃがの」
海印はスプーンを置き、コップを眞琴のほうへと押し戻した。
「根本の恐怖(水面下)を消すことはできんが、水面上の飾り付けはいくらでも変えられる。……どうじゃ、少しは見方が変わってきたかね?」
サイダーの泡と、液体と、浮かぶ氷。
古代の仏教徒たちが遺した唯識という心理学は、実に見事な心の構造論だ。眞琴は祖父の分かりやすい解説に深く感心していた。
「ま、勉強もいいが、あまり根を詰めんようにな」
海印はそう言って立ち上がり、いつもの優しい好々爺の笑顔で眞琴の肩をぽんぽんと叩いた。その温かい声は、蝉時雨が遠く響く寺務所の空気に、穏やかに溶けていった。
時刻は午後四時をまわっていた。真空寺の境内の木々は、真夏の午後の名残を惜しむように、まだ眩しいほどの濃緑を湛えている。
海印の話に深く納得し、居間をあとにした眞琴は、廊下を渡って隣接する書庫の前に差し掛かった。
西に傾き始めた斜めからの陽光には薄く埃が舞い、古い紙と白檀の香りが混ざり合った書庫の中にまで、青くさっぱりとした風が通り抜けている。
開け放たれた格子戸の向こうをふと覗き込むと、十五歳の修行僧である実蓮が、木造の太い棚にぎっしりと並んだ和装本や経典の虫干しを兼ねた整理の最中だった。
袖をたすき掛けにし、汗をかいた額を拭いながら、傍らに広げたメモ帳と睨み合っている。
「……華厳、阿含、方等、般若、法華涅槃……。で、化儀の四教が頓・漸・秘密・不定……化法の四教が蔵・通・別・円……」
負けん気の強い実蓮は、海印阿闍梨に「まだ早い」と言われた五時八教の分類をどうしても暗唱したくて、作業の手を止めては呪文のように呟いていた。だが、頭の中に広がる広大な仏教体系の枠組みに、いまいちピンと来ていない。
「……くっ、なんでこんなにややこしいんだ。全部「ありがたい教え」じゃダメなのか……?」
負けん気の強そうな太い眉を八の字に寄せながらも、その手は決して雑に経本を扱おうとはせず、破れがないかを一枚一枚確かめる動作を健気に続けている。その憎めない人柄が滲み出た様子に眞琴が思わず口元を緩めたその時、背後から足音もなく静かな気配を纏って海印阿闍梨がやってきた。海印は実蓮の隣に立つと、優しく声をかけた。
「実蓮よ、まあそう言うな。経典はな、作られた時が釈迦が実際に説法した時とは限らんのじゃよ。みーんなあとから弟子たちがああだったかこうだったかと、首を傾げながら作ったものなんじゃ。なんせ釈迦が実際に生きていた頃は、文字なんてなかったそうじゃからな。ほれ、そこのこれとこれを入れ替えて、この並びにしてみ? ほれ、なんかスッキリ見えてこんか?」
そう言って海印が古びた指先で示したのは、机の上に並んだ経典の、ある特定の順番だった。
――『般若経』『華厳経』『法華経』『阿弥陀経』『大日経』。
海印が並び替えたその5つの経典のタイトルを前にして、実蓮も、その様子をそばでじっと見ていた眞琴も、その場では何を意味しているのか全くピンと来なかった。海印はそれ以上何も語らず、ただ穏やかに微笑むと、実蓮の肩を優しく叩いて去っていった。
海印阿闍梨の足音が静かに遠ざかり、古い書庫には再び夏の風と、古書の匂いだけが残された。
机の上に並べられた、五冊の経典。十五歳の実蓮は腕を組み、穴が開くほどその五冊を睨みつけている。
「な、なんですか急に……。『五時八教』の順番をメチャクチャにして。阿闍梨様、もしかしてボケちゃったんじゃ……」
「ボケてなんかいないと思うよ。むしろ、何か重大な問いを投げていったんじゃないかな」
静かな声がして、書庫の奥の薄暗がりから眞琴がゆっくりと姿を現した。手には唯識の解説書と、付箋だらけのノートが握られている。
「うわっ! 眞琴さん!? いつからそこにいたんですか!」
「ふふ、最初からですよ、実蓮さん」
眞琴は申し訳なさそうに柔らかく微笑むと、実蓮の頭を撫でるようにして机の上の五冊を見つめた。
「実蓮さんが「華厳、阿含、方等……」と必死に暗誦しておられたのがあまりに微笑ましくて、お邪魔をしては悪いと黙っていたんです。ですが、じいちゃん……阿闍梨様の今の並べ替えには、どうも無視できない意味があるように思えてね」
「意味……ですか? だって眞琴さん、天台の教えじゃ最初の時期は『華厳』で、『般若』は四番目です。なのに阿闍梨様は『般若』を一番前に置いたんですよ? 支離滅裂じゃないですか」
「ええ。天台宗の『教相判釈』という枠組みで見れば間違いなく矛盾する。しかし……」
眞琴は指先でトントンと机を叩いた。つい先ほど、居間で海印がコップの側面を指で叩いた仕草を無意識に真似ながら、思考の海へと潜っていく。
「じいちゃん……阿闍梨様は言いましたよね。釈迦が実際に生きていた頃は、文字なんて無かったと」
「はい。お経は全部、お釈迦様が亡くなったあと弟子たちが記憶を頼りにまとめたって……あ!」
実蓮はポンと手を打った。
「じゃあこれ、お釈迦様が喋った順番じゃなくて、「お経が実際に作られた歴史の順番」ってことですか!?」
「いい筋ですね、実蓮さん。まさに大乗仏教の歴史において、この並びは、成立年代を考えるための一つの手がかりになるかもしれません」
「やった! 正解ですね!」
嬉しそうに胸を張る実蓮だったが、眞琴は首を傾げ、顎に手を当てたまま眉をひそめた。
「……いいえ、実蓮さん。おそらく、それだけではまだ足りません」
「えっ? だって歴史の順番だったんでしょう?」
「成立年代だけなら、なぜ『阿含』などの初期経典が入らないのか。それとそもそも伝統的な『五時八教』の教判には、実は僕もいささか不自然さを感じています。」
実蓮はうーんと唸り、再び机の五冊に視線を落とした。
「ということは、阿闍梨様が五時八教を疑ってる……? まさか!でも、じゃあ、なんでわざわざこの順番に並べ替えたんでしょう? 私たちに何を考えさせようとしたんだろう……」
「それはきっと、お釈迦様の心……です」
眞琴の胸の奥で、カチリと小さな歯車が噛み合う音がした。
サイダー。氷。純粋な水。甘みと泡を加えた炭酸水。そして、そのすべてが躍動するコップそのもの――。
「実蓮さん。もしこれが……「釈迦が実際に辿った、苦悩と救いの足跡」だとしたらどうかな」
「苦悩と……救いの足跡?」
「ええ。つまり最初、お釈迦様は出家した修行僧たちを相手に、『般若経』や『華厳経』に繋がる難解な教えを説いた。自分の力で世界の理を悟って、自我の執着から脱して、苦しみから逃れろという、究極の『自力』の教えです。例えるなら、サイダーの中の混じり気のない純水を見極めろ、という厳しい教えです」
「サイダーの中の純粋な水……?」
「ところが、晩年になってお釈迦様のもとに集まる人は、厳しい修行ができる僧侶ばかりではなくなっていた。日々の生活に困窮する一般庶民や、悲しみを抱えた王侯貴族たちです。その時、お釈迦様はどう思ったか?」
実蓮は少し考えてから、ぽつりと呟いた。
「……難しい理屈を言われても、助からないです。僕だって、お腹が空いて泣いてる子に難しいお経を読んだりしません」
「その通りです、実蓮さん!」
眞琴は熱を帯びた目で大きく頷いた。
「お釈迦様は気がついたんだ。文字も理屈も超えた難解な真理をただ押し付けることよりも、いま目の前で現実の重さに苦しんでいるこの者たちを、今すぐ救うことの方角が遥かに大切なのだと」
「……だから、教えを変えた?」
「ええ! 難しい理屈は一度脇に置いて、「仏」という擬人化したモデルを置いた。そして誰でも「仏」を信じ、拝めば救われるという、あえて分かりやすい方便を用いた『法華経』や『阿弥陀経』のような『他力』の説法へとシフトしていったんだ。それは真理の妥協なんかではなくて、目の前の民を本気で救うための「愛の選択」だったんだ。そう、混じり気のない水にあえて甘みをつけたり炭酸を加えたりして、誰もが飲みやすくしたんだ!」
実蓮の目が、輝きを増していった。
「じゃあ……最後の『大日経』は!?」
「それは、お釈迦様が亡くなっただいぶ後になって、弟子たちが躍起になって、その「自力の真理」と「他力の救済」を、もう一度命がけで融合させたんですよ。この現実世界そのものを、宇宙の真理として丸ごと肯定する『密教』の教えとして。水も、氷も、炭酸も、抹茶粉のデコレーションも……そのすべてがシュワシュワと一つのコップの中で躍動しているサイダーという飲み物そのものを、丸ごと味わい、楽しむようにと!」
「……っ!」
実蓮はぽかんと口を開け、机の上の五冊を見つめた。
『五時八教』という複雑な分類ではない。もっと単純な、仏陀という一人の先達が、目の前の人々を救おうともがき抜いたシルプルな「愛の歴史」が、五冊の並びから溢れ出していた。
「……阿闍梨様は、『五時八教』の枠組みに縛られるなとおっしゃりたかったんですね」
「『五時八教』はややこしいですからね。たぶんこれは、『五時八教』の入門編みたいなものなんですよ。これで見ると仏教とは、この世界で僕たちが他者と関わり、支え合って生きていくための……「愛のシステム論」なんだということがよくわかりますね」
「愛の……システム論……」
実蓮は胸を押さえ、深く息を吐き出した。
「阿闍梨様……そんなすごいことを、あの数秒で教えてくださったんだ……。私は、ただの暗記テストかと思ってしまいました」
「僕もです、実蓮さん。あなたが疑問を投げてくれなかったら、素通りするところでした」
眞琴は優しく目を細め、実蓮の肩をぽんと叩いた。
「明日からまた、病院の窓口での仕事が始まります。ですが……目の前の人たちとどう向き合うべきか、お釈迦様と阿闍梨様から、大きなヒントをいただいた気がします」
「眞琴さん……」
実蓮は照れくさそうに鼻の頭をかくと、負けん気と素直さの混ざった笑顔を見せた。
「私も……ただお経を覚えるんじゃなくて、目の前の人を救うための「愛」としてお経を学び直してみます!」
「ええ、応援していますよ、実蓮さん」
夕陽が深く差し込み、古い書庫を眩しいほどの黄金色に染め上げていく。
二人が見上げる窓の外では、八月の濃い青葉が、夏の夕風にそよぎながらキラキラと輝いていた。
【気づき】
《感情の多層システム》……私たちが日常で抱く成長や倫理といった「プラス思考の自我」の正体とは、水面下に潜む根本的な消失の恐怖を乗り越え、不自由な現実世界に適応するために意識の表面へ施された「感情の多層デコレーション」なのではないか。
《根本恐怖》……人間が人生で味わうあらゆる怒りや苦悩の根源とは表面的な出来事そのものではなく、末那識の深層において24時間絶え間なく蠢いている「消滅と否定への根本恐怖」なのではないか。




