第八幕 須弥山病院その2
アパートで伽羅とホットケーキを囲みながら語り合った「観測共有の法則」と「三段論法」。その論理に行き着いた時、眞琴の脳裏に数ヶ月前のある出来事が蘇った。
あれは、月が変わり、医事課が前月(四月)分のレセプト(診療報酬明細書)の請求業務に追われる、五月初旬の木曜日の午後だった。
眞琴は、その日の業務を一通り終え、書類を挟んだクリアファイルを手にして、病院の最上階にある脳神経外科の医局へと向かっていた。目的は、レセプトの査定対策である。
病院が診療報酬を請求する際、実際に行った処置や検査に対して、電子カルテ上の病名や診療内容の記載が適切でないと、査定によって請求額が減額されてしまう。特に脳外科の手術や高度な集中治療は診療報酬が高額になるため、必要な病名の記載漏れは許されない。
眞琴は、脳外科の若手の医師である河野陽一先生に、カルテへの正確な病名記入を直接お願いしにいく必要があった。
エレベーターを降り、静まり返った医局の奥へと進む。小会議室の前を通り過ぎようとして、眞琴は足を止めた。
ドアが完全に閉まっておらず、数センチほどの隙間ができていたのだ。そこから蛍光灯の無機質な光が漏れ、室内からは低く張り詰めた声が廊下へと聞こえてきた。週に一度の、脳外科チームによるカンファレンス(症例検討会)の最中らしかった。
終わるまで外で待とう、と眞琴は壁に背中を預けた。
書類を抱えたまま何気なく耳を傾けていると、隙間から聞こえてきたのは、三十五歳で眞琴と同い年の脳外科医、河野先生の、感情の起伏が全く感じられない氷のように冷たい声だった。
「――北川宏さん、六十三歳、男性。左内頸動脈(ICA)の閉塞三日目。院内での発症から現在に至るまで、意識戻らず。発症当時カテーテルによる再開通自体は極めて短時間で完了していますが、現状、同側の大脳皮質はほぼ全滅。脳幹の反射も微弱。浮腫も酷く、これ以上の積極的な加療を試みても、医療資源と点数の無駄遣いに終わる可能性が極めて高い。もはや時間の問題であり、緩和的な管理に切り替え、家族に最終的な看取りの覚悟をしてもらう段階に入っていると判断します」
あの北川宏さんだった。あの日、眞琴が受付をした直後に診察室前で倒れ、そのまま意識が戻らなかった北川さん。今でも心の隅に自責の念を感じている眞琴の胸に、河野の非情な言葉が容赦なく刺さる。
このまま一気に看取りの方向で結論づけようとする河野に対し、別の医師があえて異論を唱える。
「——河野先生! 今夜にも脳ヘルニアを起こすリスクがあるなら、一刻も早く減圧開頭術に踏み切るべきではないですか? 患者もまだ若い。」
「無意味です、そんな自己満足のオペは」
その対論を、河野は低く冷徹な声で容赦なく一刀両断した。さらに冷静に、冷酷なデータでその反論を潰しにかかる。
「開通が得られたからといって、すでに虚血で壊死した脳組織が再生するわけではない。ロビーで倒れて主幹動脈が完全に閉塞したあの瞬間にもう、この患者の転帰はほぼ決定づけられていたんです。今さら頭蓋骨を外しても、意識の戻らない肉体の命を数日引き延ばすだけのこと。医療資源と点数の無駄遣いです。このフェーズにおける我々の急性期医療なんてものは、予後のカウントダウンをほんの少し遅らせるだけの、小手先の奇術に過ぎないんですよ」
「……うむ。ダメなものは、ダメ、か」
論破された側の医師が漏らした低く乾いた諦めの声が、ドアの隙間から頼りなく抜けていく。
河野の声には、死に瀕した一人の人間への思いやりや、家族の悲しみに寄り添うような温かみは、微塵も含まれていなかった。
患者を、検査データを取り、数値を処理するためのモルモットのようにしかみない河野。
ドアの外で話を聴いていた眞琴は、胸の奥が冷たく凍りつくような激しい反感と、そして強い違和感を覚えていた。
――意識戻らず。皮質がほぼ全滅。時間の問題。
河野の言う「意識が戻らない」とは、物質である脳細胞が死んでしまったという科学的な事実だ。
けれど、あの休日に自宅のソファーで、置き配の夢から世界の仕組みに気づいた眞琴にとっては、その言葉の持つ意味が違って聞こえた。
(北川さんは、「意識」を失ってしまっているわけじゃないんだ……脳という、外界からの情報を受信して処理するコントロールセンターの故障によって、自我の境界線が薄れ、僕たち周囲の人間と同じ世界を共有するための、あの莫大な集中力を維持できなくなってしまっているんだ」
三段論法の繋がりが断ち切られ、みんなと共有しているこの現実世界に存在できなくなり、今まさに、あの完璧な至福の世界――すべての意識が還る清らかな「阿摩羅識の海」へと、その境界線がグラデーションのように溶け出し、同化しようとしている。
その壮大な魂の旅路を、河野はただの「データの全滅」と呼び、「時間の問題だ」と情のかけらもなく切り捨てているように眞琴には聞こえた。
眞琴は、むやみに延命治療を行うことがいいとは思っていない。何故なら家族の負担があまりにも大きいことと、何より患者本人の心情として、そこまでして生きながらえたいと思うだろうか、と考えるからである。
だが、河野のように命の終わりをただの「記号の抹消」として片付け、切り捨てる冷酷さには、どうしても反発を禁じ得なかった。
物質としての脳がすべてだと信じる冷徹な脳外科医。
意識の繋がりこそが世界を作っていると考える医療事務員。
ドアの向こうから聞こえる冷たい声を受け止めながら、眞琴は、この病院という生老病死の最前線で、自分の掴んだ仮説が恐ろしいほどの現実味を持って検証されようとしていることを、静かに実感するのだった。
「では、今週のカンファレンスを終わります」
室内の老医師の声を合図に、椅子の引ける音や書類をまとめる雑多な音が重なり、数人の医師たちが次々と会議室から出てきた。眞琴は壁際に身を寄せ、彼らが通り過ぎるのを静かに待った。
最後に、白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、気怠そうに歩いてきたのが河野だった。
眞琴と同じ三十五歳。整った顔立ちはどこか無機質で、その切れ上がった双眸には、徹夜の疲労と、それ以上に他者を寄せ付けない冷淡な光が宿っている。
「河野先生。お疲れ様です、医療事務の生島です」
眞琴が声をかけると、河野は一瞬だけ視線を向け、毎月この時期になるとやってくる事務員への、酷く面倒そうな溜息を隠そうともせずに足を止めた。
「ああ、生島さん。またレセプト? 今、外来のカルテ整理に戻るところなんだけど」
「恐れ入ります。先月分の脳外科のレセプトチェックの件で、一点だけ先生にご確認いただきたい箇所がありまして、こちらへ伺いました」
眞琴は感情の起伏を一切排した、徹底的に丁寧な「事務職の仮面」を顔に張り付けた。クリアファイルから、河野が担当した別の患者の診療報酬明細書を取り出し、差し出す。
「こちらの患者様ですが、脳血管造影の算定がされているのですが、カルテ上の病名が「脳梗塞の疑い」のままになっております。確定病名への変更、または補記をお願いします」
差し出された書類をひったくるように受け取った河野の表情には、「これだから事務方は毎月うるさい」と言わんばかりの露骨な見下しが張り付いていた。
河野にとって自分たち医師は、脳という細胞のかたまりの生死を左右する存在であり、金銭の数字を右から左へ動かすだけの事務員など、雑用係に過ぎないのだろう。
「……分かったよ。後で電子カルテの病名をいじっておく。これでいいだろう」
河野の口調は、吐き捨てるように冷たかった。その態度からは、事務に対する圧倒的な傲慢さが感じられた。それは直接言葉にされずとも、彼の拒絶するような佇まいからジワジワと周囲の空気に漏れ出していた。
眞琴は河野が、患者の脳を、単に障害によって詰まったり壊れたりする、修理対象としての不良品として考え、そして彼自身は、自分がそのすべてを決定する、いわば支配する側の人間だと考えているように感じた。
(……畜生っ、医者というのは人の心を失う職業なのか!)
眞琴は、河野がまとうその冷酷な空気感を、心の中で強く、激しく否定した。
脳を単なる細胞のかたまりと呼び、手術やデータで意識のすべてをコントロールできるという傲慢。脳は意識のすべてを詰め込んだハードウェアなんかじゃない。脳は、この現実世界を構築するための「観測器」であり、観測した情報を「意識」に伝えるための「変換器」なのだ。
河野のように、患者をモルモットとしてしか見ない捉え方は、患者たちの「存在する力」を強めるどころか、むしろ彼らから「生きようとするエネルギー」を奪い取り、彼らの意識を現世から切り離して、あの深い海へ還ることを助長するのではないか――。
眞琴の胸の奥で、静かな怒りと畏怖が混ざり合った感情が渦巻いた。
しかし、眞琴の口から出たのは、それとは全く裏腹の、淀みのない平坦な言葉だった。
「お忙しいところ、お手数をおかけして申し訳ございません。本日中にカルテの修正をお願いいたします。失礼いたします」
表情には微塵も出さない。声のトーンも変えない。あくまで一介の事務員として、医師である河野に深く頭を下げた。
河野は眞琴のその徹底した無表情さに、僅かに気圧されたように口を噤むと、不機嫌そうに鼻を鳴らして足早に廊下の向こうへと去っていった。
眞琴はその背中を、静かに見送った。
物質としての脳を冷酷に分析し、すべてを自分のコントロール下に置こうとする河野陽一。
その冷たい価値観を脳裏で鮮やかに拒絶しながらも、眞琴は、自らが掴んだ「観測共有の世界原理」を、この病院という巨大な箱庭のなかで、さらに深く検証していく覚悟を静かに固めるのだった。
【気づき】
《意識の死その2》……命の終わりとは単なる機能の「停止」やデータの「抹消」ではなく、膨大なエネルギーを使って留まっていた三次元の重圧から放たれ、本来の純粋な意識の海へと還っていく静かな還元のプロセスなのではないか。




