第三幕 ジャズラウンジ「くれない」
お寺の境内を後にすると、視界の先で、丘の下の街は、すっかり夜の帳に包まれていた。
空から落ちてくる雨は傘を広げるほどでもなく、霧雨のように優しく火照った頬を撫でる程度だった。
ネオンの明かりが湿ったアスファルトに反射して、まるで色とりどりの光の川を作っているかのように眩く瞬いている。
「ああ、今日は師匠が演奏しているな、聴きに行こうか」
夜風に吹かれながら眞琴が丘の下を指さして言うと、隣を歩く伽羅は嬉しそうに大きな目を輝かせて、何度も深く頷いた。
「はい。師匠のピアノは心の洗濯です」
月曜日の昼間にすみやま総合病院の窓口で無数の患者と関わり、お互いに精神をすり減らしていた二人には、その洗濯が何よりも必要だった。心には、昼間の業務でこびりついた記号化された診療報酬の数字や、窓口に漂う、刺すような緊張感の澱がずっしりと溜まっている。その澱を綺麗に洗い流してくれるのは、あの場所と、あの音だけだった。
二人は吸い込まれるように丘を下り、繁華街の賑やかな明かりをあえて背にして、閑静な住宅街へと足を踏み入れた。
四月終わりの少しひんやりとした夜風が、春の若い葉をそよがせて街路樹を揺らしている。
幹線道路の喧騒から二筋ほど離れ、住宅街の角をひとつ曲がった先に、その洋風館はひっそりと佇んでいた。大正から昭和初期の面影を残すレトロなレンガ造りの外観。蔦の絡まる古風な洋館の軒先には、控えめな真鍮のランプがひとつ、あたたかな琥珀色の光を灯している。
ーージャズラウンジ「くれない」。
雨に濡れて艶を増した石畳を踏みしめ、二人はお店の重厚な木製のドアへと近づいていった。その隙間から、優しくもどこか哀愁を帯びたピアノの旋律が、二人の乾いた心をそっと包み込むように微かに漏れ聞こえてきた。
ドアを開けると、カウベルの小さな音がカラランと静かに鳴り、セピア色の照明に照らされた落ち着いた大人の空間が広がっていた。芳醇なウイスキーや葉巻の香りがほのかに漂う店内の奥、ステージのスポットライトの中に、一台の木目調のグランドピアノに向かい、静かに鍵盤を叩いている老人がいた。
高崎涼介。眞琴と伽羅が「師匠」と呼んで生涯をかけて慕っている、老ピアニストだ。
二人は会釈をしてくれた給仕のスタッフに静かに目配せをし、演奏の邪魔にならないよう、壁際の小さなボックス席へと滑り込んだ。
深々と沈み込む革張りのソファに腰を下ろすと、先ほどまでの雨の冷たさと昼間の疲労が、潮が引くように和らいでいく。
近づいてきたスタッフに、眞琴はカシスソーダを、伽羅はカルアミルクを小声で注文した。
やがて運ばれてきたグラスの中で、カシスソーダのルビー色の液体の中で小さな泡が静かに立ちのぼり、カルアミルクの深いコーヒー色と濃密なミルクがゆっくりときれいなマーブル模様を描いていく。
高崎が弾いているのは、赤みを帯びた深い茶色の木目が美しい、ヴィンテージのスタインウェイだった。長年この店で、そして師匠の手によって愛され、弾き込まれてきたマホガニーの外装は、スポットライトの柔らかな光を受けて琥珀色に優しく輝いている。
指先から解き放たれる音色は、スタインウェイ特有の圧倒的な響きの豊かさを持ちながらも、角が取れたようにどこまでも温かい。木肌そのものが振動して空気を震わせているかのような、深く、包み込むような低音と、水滴のように澄んだ高音。
鍵盤をただ撫でるかのようなその一音一音が、二人の中に残っていた昼間の無機質な数字や殺伐とした空気を優しく撫で、洗い流していく。
ジャズの名曲の旋律が、まるで古い親友に語りかけるような穏やかさで、夜のラウンジを満たしていた。
氷がカランと小さな音を立てる。眞琴が甘酸っぱいグラスに口をつけ、伽羅がストローでやさしい甘さを味わうと、今日一日で胸の奥に澱のように溜まっていた緊張感が、師匠の奏でる優しい旋律とともに静かに溶け出していくのだった。
今夜の高崎が奏でているのは、静かなジャズのバラード――『But Beautiful』だった。
愛とは切なく、儚く、時に人を惑わせるもの。けれど、それでもなお、愛は美しい。
そんな楽曲の持つ切なくも温かな世界観が、セピア色の店内をどこまでも優しく濡らしていく。
やがて、高崎のソロピアノは曲のテーマを美しく深く歌い上げたあと、静かに、けれど解き放たれたようにアドリブの海へと足を踏み入れていった。
そこからは、高崎の心の世界そのものだった。
不器用で、儚くて、けれど愛おしまずにはいられない――そんな愛すべき「人間の心」の世界。
指先が鍵盤の上を舞うたびに、マホガニーのスタインウェイが歓喜に震える。
自由に。自由に。
深く。深く。
どこまでも高く羽ばたき、どこまでも広く、遠くへ溶けていく。
音が夜の闇を照らし、旋律が命を得たかのように舞う。
コードの縛りすら越えて、変幻自在に表情を変えていくその音調には、もはや遮るものなど何一つとして存在しなかった。
ただそこには、解き放たれた老ピアニストの魂と、それに呼応して響くスタインウェイ、セピア色の店内を満たす、圧倒的な愛の響きだけがあった。
ああ、ピアノが歓喜に満ちて歌っている。声を張り上げるような歌ではない、感極まる静かで深い響き。気持ちが高まるほどに、不必要な音は徹底的に削ぎ落とされ、音が鳴っていない「余白」の瞬間が、かえって饒舌に物語を語っていく。
その圧倒的な響きの純度は、昼間の業務で擦り減った心や、先ほどお寺の縁側で胸を掠めた言葉にならない不安を静かに押し流し、聴く者の胸の奥の最も柔らかい場所を、優しく抱きしめるような力を持っていた。
眞琴は静かに目を閉じ、その音の波に身を委ねた。
窓口で頭を下げ続けた疲労も、人間関係の煩わしさも、すべてがこのピアノの響きによって解きほぐされていく。隣に座る伽羅もまた、静かに目を閉じ、心地よさそうに息を吐いていた。
彼女が静かに、丁寧に歌うときのあの唯一無二の空気感は、間違いなくこの師匠の背中を見て、この一音一音を慈しむような響きを聴いて育まれたものなのだろうと、眞琴は改めて感じていた。
やがて、最後の音がペダルの残響とともにゆっくりと夜の闇に吸い込まれ、演奏が終わった。
ラウンジのあちこちから、静かだが心からの温かい拍手が湧き起こる。眞琴と伽羅も、深く息を吐き出しながら、惜しみない拍手を送った。
高崎は鍵盤からそっと手を離し、客席に向けて穏やかに一礼すると、店内の明かりのなかに眞琴たちの姿を見つけた。彼は深く刻まれた目尻の皺をいっそう和らげ、ゆっくりとした足取りで二人のテーブルへと近づいてきた。
「よく来てくれたね、ここ座ってもいいかい?」
渋い仕立てのジャケットを羽織った高崎は、そう言って優しく微笑んだ。
「もちろんです、師匠。今夜も素晴らしい演奏でした」
「本当に、心が洗われるようでした。お疲れ様です、師匠」
二人が迎えると、高崎は「ありがとう」と椅子を引き、二人の正面に腰を下ろした。
「相変わらず、二人は仲が良いね。今日も病院の仕事は忙しかったのかい?」
「ええ、月曜日ですからね。たくさんの人が押し寄せて、正直、へとへとでした」
眞琴が苦笑しながら答えると、高崎は運ばれてきたロックグラスに目を落とし、氷をカランと鳴らした。
「そうだろうね。傷を負ってもがいている人間が何百人も集まる場所だ、それだけで凄まじいエネルギーが渦巻いている。事務職とはいえ、そのすべてを受け止めるのは骨が折れるさ。……だがね、眞琴。その擦り切れるような日常があるからこそ、君のギターには深みが出るんだ」
「僕のギター、ですか?」
「ああ。何一つ悩みがない人間の音は、綺麗だがどこか軽い。君が日々、不自由な現実と格闘し、他者と関わりながら感じているその「疲れ」や「もどかしさ」が、即興の瞬間に音の陰影となって現れる。音楽っていうのは、そういう日常のすべてが音になるからね」
高崎の洒脱で、けれど核心を突く言葉に、眞琴は静かに胸を打たれた。
病院の殺伐とした日常も、お寺の静寂も、そしてこの夜のジャズの響きも。すべては繋がっていて、自分の「生」を形作っているのかもしれない。
「さあ、今夜はゆっくりしていきなさい。近いうちにまた君たちの音も聴かせておくれよ」
高崎はそう言って、悪戯っぽく微笑んでグラスを傾けた。
眞琴と伽羅は顔を見合わせ、小さく笑い合った。
今日一日を締めくくるラウンジの夜は、どこまでも温かく、心地よいジャズの余韻に包まれていた。現実という名の箱庭の夜は、優しく、静かに更けていくのだった。




