第ニ幕 貴波山真空寺(きなみざんしんくうじ)
須弥山総合病院での月曜日の勤務を終えた眞琴は、伽羅と共に、夕闇の気配が少しずつ忍び寄る街へと歩き出した。四月も終わりに近づき、夕暮れの空気はどこまでも澄み渡っていた。春の柔らかな日差しが残した余熱が、心地よい温もりとなって肌を撫でていく。二人が目指すのは、小高い丘の頂に静かに佇む天台宗の古刹、貴波山真空寺だった。
西の空はまだ柔らかな黄昏色に染まり始めたばかりで、傾いた陽光が斜めから街並みを黄金色に透かしている。長く伸びる二人の影を引き連れながら石段へ足をかけると、一段上るごとに、足元から伝わる石の冷気と風の湿り気が変化していくのが分かった。下界を走る自動車の途切れない走行音や、病院の廊下に満ちていた無機質な喧騒は、登るにつれて遠い幻聴のように薄れていく。
代わって二人を包み込んだのは、春の陽気を吸い込んで青々とした草木の匂いと、土の豊かな匂い、新緑の葉をさやさやと揺らす涼やかな風の音だった。石段を上り終え、木漏れ日の斑影が揺れる参道を抜ける。今にも動き出しそうな仁王像の立つ荘厳な山門をくぐり抜けると、まるで結界を抜けたかのように視界が一気にひらける。
そこには、傾きかけた夕光が薄く層をなし、隅々まで隙なく掃き清められた寂静なる境内が広がっていた。立ち上る薄煙の向こう、若い青葉の匂いと、寺院特有の古木と線香の香りが静かに交じり合い、ただ静謐な時間だけがゆるやかに流れていた。
境内の隅では、一本の竹箒を手にした作務衣姿の少年が、静かに熱心に落ち葉を掃き集めている。海印阿闍梨のもとで暮らす十五歳の修行僧、実蓮である。
彼は眞琴たちの足音に気づくと、すぐに手を止め、箒を傍らに添えて、胸の前で静かに合掌し、深く一礼した。
「生島さん、草薙さん、こんにちは」
その丁寧でハキハキとした挨拶に、眞琴は小さく手を挙げて応えた。
「おっ、実蓮くん。今日も精が出るね。境内がいつもきれいなのは実蓮くんのおかげだね」
「ありがとうございます。でも、まだまだ先輩方のようにはうまく掃けなくて、毎日試行錯誤しています」
実蓮は少し照れくさそうに頭を掻きながら、それでも嬉しそうに目を細めた。負けん気が強く努力家な彼だが、年上の二人に対してはいつも礼儀正しい。そんな実蓮と何気ない言葉を交わしていると、自然と心のトゲが抜けていくのを感じる。
「実蓮くん、これ、お供えと……あとでみんなで食べてくださいね」
伽羅が手提げ袋から取り出した、小ぶりなどら焼きの詰まった箱を手渡すと、実蓮は「ありがとうございます!」と深々と頭を下げた。
その時、本堂の重厚な木造の扉が静かに開き、二人の僧侶が姿を現した。
先頭にいるのは、眞琴の祖父であり、この寺を統べる天台宗の高僧、海印阿闍梨だ。口数は少ないが優しい好々爺で、眞琴にとっては「じいちゃん」、伽羅にとっては「海印おじいちゃん」として昔から親しまれている存在である。海印阿闍梨は、別の年配の高僧を一人伴って、本堂から寺務所へと移動する途中のようだった。
眞琴と伽羅が並んで一礼すると、海印阿闍梨は足を止め、深く刻まれた目尻の皺をさらに優しく崩して、二人に温かい笑顔を向けた。隣の高僧もそれに応じて、静かに手を合わせて微笑む。言葉は交わさずとも、その眼差しだけで二人の日々の労苦を包み込んでくれるような、不思議な安心感があった。阿闍梨たちはそのまま静かに、回廊の奥へと消えていった。
「相変わらず、海印おじいちゃんの笑顔はホッとします」
「ああ。あの年になっても、現役の阿闍梨だからな。佇まいからして違うよ」
二人は本堂へと進み、お賽銭を入れて静かに手を合わせた。
お線香の煙がかすかに漂う薄暗いお堂の中、静かに目を閉じていると、昼間に病院の窓口で消費した精神力が、ゆっくりと底から満たされていくような感覚を覚える。
お参りを済ませた二人は、本堂の縁側に腰を下ろし、夕暮れに染まる街並みを眺めながら、しばらくくつろぐことにした。
「そういえば、海印おじいちゃんって、若い頃はすごい武勇伝があったのですよね?」
伽羅が思い出したように、膝を抱えながら眞琴に顔を向けた。
「武勇伝っていうか……じいちゃん、若い頃は天台宗のなかでも特に厳しいとされる『千日回峰行』に挑んだことがあってさ。比叡山の山道を毎日何十キロも、何年もかけて歩き続ける命がけの修行なんだけど」
「えっ、あの優しい海印おじいちゃんが……想像つきません」
「だろ? 途中で体調を崩して倒れかけたとき、誰もいない山奥で、頭の中がすっかり真っ白になって、自分が歩いているのか山が動いているのか分からなくなったらしい。そのとき、ふっと体が軽くなって、気がついたら何十キロもの山道を一瞬で移動していた、なんて話を昔、僕が子供の頃に笑いながら話してくれたことがある」
「すごい……それはちょっとSFみたい」
伽羅は大きな目をさらに丸くして、感嘆の息を漏らした。
「まあ、じいちゃんは「単に極限状態が見せた幻覚だよ」って言ってたけどね。でも、そういう死線を何度も越えてきたからこそ、今のあの、何も言わなくてもすべてを許してくれるような、静かな笑顔があるのかもな」
眞琴がそう言って空を見上げると、西の空はすっかり深い茜色から群青色へと移り変わろうとしていた。
二人が夕暮れの街並みを眺めていると、本堂の引き戸がガラガラと静かに開き、中から小柄なお婆ちゃんが姿を現した。眞琴の祖母であり、海印阿闍梨の妻である絹代だった。
絹代は、上品に仕立てられた割烹着の袖を整えながら、二人を見つけてパッと顔を綻ばせた。
「おや、眞琴に、伽羅ちゃんじゃないの。よく来てくれたねぇ」
「絹代お婆ちゃん、こんにちは! これ、よかったら皆さんで食べてください」
伽羅が先ほど実蓮に渡したのと同じ、どら焼きの箱をもう一つ手渡すと、絹代は「まあまあ、いつも気が利くこと」と嬉しそうに受け取った。その笑顔は、眞琴が子供の頃から見慣れた、どこまでも温かく優しい祖母の顔そのものだった。
「今ね、お台所でちょうどお茶を淹れようと思っていたところなんだよ。二人も中にお入り。美味しいお煎餅もあるからね」
「ありがとう、婆ちゃん。じゃあ、お言葉に甘えようかな」
眞琴が立ち上がろうとした、その時だった。
絹代は手にしたどら焼きの箱を愛おしそうに見つめ、ふと顔を上げて、全く同じ優しい笑顔のまま、全く同じトーンで言った。
「おや、眞琴に、伽羅ちゃんじゃないの。よく来てくれたねぇ」
一瞬、眞琴の身体がピキリと凍りついた。隣にいた伽羅も、差し出した手を浮かせたまま、わずかに瞬きを止める。
「婆ちゃん……? うん、今、中でお茶をいただくところだよ」
「そうかい、そうかい。今ね、お台所でちょうどお茶を淹れようと思っていたところなんだよ。二人も中にお入り。美味しいお煎餅もあるからね」
まるで、蓄音機の針が同じ溝でパチパチと飛び跳ねたかのような、寸分違わない言葉の繰り返し。
絹代の大きな瞳は優しく澄んでいるが、その焦点は、眞琴たちの少し後ろの、何もない空間を泳いでいるようにも見えた。
「――絹代、お前はまた、大切なお客人を玄関先で立ち往生させているのか」
本堂の奥から、海印阿闍梨の低く落ち着いた声が響いた。
振り返ると、海印がいつの間にかそこに立っていた。海印は絹代の肩にそっと大きな手を置くと、驚く眞琴たちに向けて、静かに、何も言わずにただ優しく微笑んで見せた。
「あ、あら、そうねぇ。さあ、中へお入り」
海印の手の温もりで我に返ったように、絹代は楽しそうに笑って奥へと歩いていった。
静まり返る縁側に、湿り気を帯びた夕暮れの風がさっと吹き抜ける。見上げれば、昼間の快晴が嘘のようにいつの間にか空の茜色はどんよりとした鈍色に呑み込まれ、街の灯りが湿った空気の中にぼんやりと滲み始めていた。
ポツ、と濡れた冷たさが眞琴の頬を打った。
ひとつ、またひとつ。本堂の瓦や庭の青葉を叩く雨粒の音が、静寂を少しずつ塗りつぶしていく。
いつもと変わらない、温かいはずのお寺の日常。けれど、降り始めた雨の冷たさとともに、眞琴の胸の奥には、白い紙に滲んだ墨のように消えない小さな不穏が、静かに、確実に広がっていくのだった。




