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アーカーシャの箱庭  作者: 小泉 佳
第一章 日常
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第一幕 須弥山(すみやま)総合病院

 四月も最終週を迎えた、月曜日の午前十時。須弥山(すみやま)総合病院のロビーは、週明け特有の熱気に満ちていた。


 天井の高い白亜の空間を埋め尽くすのは、長椅子にひしめく無数の患者たちだ。診察や会計を待つ人々の吐息と、消毒液の匂いが混ざり合い、重たい空気となって澱んでいる。

 大勢の患者や看護師、事務員が行き交う喧騒の中、予約のある再診患者がなだれ込む自動再来機には、長い行列ができていた。また三台並んだ自動精算機の前にもすでに長蛇の列ができ上がり、壁に吊るされたモニターには、会計待ちの番号が収まりきらないほど目まぐるしく点滅している。その最前線にある総合受付の窓口もまた、押し寄せる人の波で完全に飽和状態となっていた。


 受診申し込みを受け付け、保険証や医療証の有効期限を確認し、他院からの紹介状をシステムに取り込み、発行した受付伝票を携えて患者を診察室へ案内する。


 内科、外科、小児科、整形外科――あらゆる病を抱えた人々が押し寄せるこの400床の中規模総合病院では、その業務量が、限られた人員の処理能力を明らかに超えていた。さらに、地域医療の要として二十四時間体制の循環器内科や脳神経外科、産婦人科まで抱えているため、一刻を争う超緊急事態の割り込みは日常茶飯事だった。


 救急外来には、耳を劈(つんざ)くサイレンを響かせ、救急車が頻繁に滑り込んでくる。人手不足の現場では、外来事務といえどもただのデスクワークではいられない。救急車の到着時には救急搬入口まで走り出迎えて、動転する付き添い家族を待合室へといざなう。また、入院が決まった患者がいれば、リストバンドとパンフレットを抱えて説明のために院内を駆ける。病棟から「患者が亡くなられた」と連絡が入れば、手配された葬儀社を地下の霊安室へと厳かに案内し、看取りに来られていたご家族と一緒に故人をお見送りする。


 さらに、診察が終わった後の点数計算では、覚束ない専門知識を必死に駆使してパソコンを操作する。一般的な診療から、化学療法や手術の複雑な点数計算、産科の自費診療までが混在するカルテに、医師の記述漏れを見つけるたび、広大な院内を走って診察室まで直談判に赴かなければならない。それらすべてと並行して、交通事故の自賠責、労災、生活保護といった保険会社や役所相手の電話応対や書類手続き、時には他院との診療情報のやりとりまでもが、容赦なく同時に舞い込んでくる。


 誰も悪意はない。しかし、膨大な数の人々と、際限のない雑務の群れが、次から次へと容赦ない泥流のように押し寄せてくるのだ。


 総合受付にやってくる患者の事情は千差万別だ。発熱や倦怠感、下痢、蕁麻疹といった日常的な症状から、胸部絞扼(こうやく)感や激しい腹痛など、一刻を争う緊急性の高いケースも少なくない。窓口は、彼らの命の重さを最初に値踏みする「篩(ふるい)」でもあった。


 待ち時間のあまりの長さにうんざりした患者が、当てつけがましく不機嫌な態度をとる。


「大変申し訳ございません、新井様。本日は急患の対応で、一時的にたいへん混み合っておりまして……」


 周囲の動揺に気を取られそうになるのを懸命に堪え、不満げに時計を見る初老の男性を前に、生島眞琴は自身の声が上擦るのを必死に抑えていた。

 生島眞琴、三十五歳、男性。この病院の医療事務職になって、まだ二年。

 一般企業から転職してきた眞琴にとって、この医療現場という、ミスが許されない生々しい物量戦には、いまだに心が慣れ切っていなかった。

 一文字の入力ミス、一枚の書類の渡し間違いが、重大な医療過誤に繋がることもある。それでなくとも、事務員の些細なミスは返礼や請求不備、ひいては患者の不利益に直結する。

 目の前の患者の品定めするような視線を直に浴びながら、手元では一寸の狂いもない正確さを求められる。毎日が、薄氷の上を全速力で走らされているような危うさを孕んでいた。


 眞琴の視線の先には、パソコンの液晶画面がある。そこに映し出されているのは、無数の「保険証の記号番号」と、複雑怪奇な「診療報酬点数」の羅列だ。

 注射、処置、投薬、手術、出産、そして看取り。人間の生老病死というあまりに泥臭い営みが、すべて点数という無機質な記号に還元され、ベルトコンベアのように目の前を流れていく。

 眞琴はただひたすら、キーボードを叩き、書類を確認し、張り付いた笑顔を作り、次の患者を呼び出す。呼吸をするのも忘れるほどの作業の中で、自身の精神と、立ちっぱなしの足腰がすり減っていくのを自覚する毎日だった。


(……これが、現実世界の正体か)


 キーボードを叩く指先の感覚を確かめながら、眞琴はふと、終わりなき行列に眩暈を覚える。

 これほどまでに忙しく、これほどまでに人間同士が神経をすり減らし合う、息苦しい世界。

 けれどそれは、あの数年前、麻薬の過剰摂取で死にかけたときに目撃した、自他の境界が綺麗に溶け去った「あちらの世界」から、膨大な精神力を費やしてわざわざピントを合わせて降りてきた世界のはずだった。

 あの臨死の淵で視た、これまでの人生が完璧な一本の直線だった記憶。しかし、一度この現実の肉体に意識のチャンネルを合わせてしまえば、あの瞬間の真理は何一つ具体的には思い出せなくなってしまう。

 あの幻のような記憶と失われたはずの真理を、この狭い箱庭のような現実の中で、必死に手探りするように――眞琴は今日も、冷たいデスクに向かっていた。


「生島先輩、そっちの新井さんの会計、チェック終わりました。私の端末からデータ飛ばしますね」


 背後から、張り詰めた空気を丸く切り取るような、心地よい通る声がかけられた。

 振り返ると、そこには草薙伽羅が立っていた。小柄だが背筋がすっと伸びていて、制服のベストを綺麗に着こなしている。ショートカットの髪から覗く大きな瞳が、パソコン画面の光を反射して輝いていた。


「草薙……助かるよ。検査の算定漏れがないか気になって、計算の確定を迷ってたんだ」


「新井さんの伝票、さっき先生が電子カルテにエコーのオーダーをこっそり追記してましたからね。見落としがちです。もう自動精算機にデータ回しましたから、窓口でお声がけしちゃって大丈夫ですよ」


 伽羅は小声でそう言って、悪戯っぽく微笑んだ。

 彼女はこの病院の医療事務職になってまだ一年目の、眞琴の後輩だ。しかし若さゆえか、すでに眞琴よりしっかり仕事をこなしている。年齢は二十六歳。眞琴とは家が近所で、子供の頃から互いを知っている、年の離れた「幼馴染」でもある。

 職場では一歩引いて「生島先輩」と呼んでくれるが、その気立ての良さと物怖じしない明るさは、殺伐としがちな受付チームの清涼剤のような存在だった。


 「新井様、大変お待たせいたしました。お会計の準備が整いましたので、一番の自動精算機へどうぞお進みください」


 眞琴が声をかけると、先ほどまで不機嫌そうに窓口で待っていた初老の男性は、まだ少し不満げな顔のまま精算機へと向かっていった。

 大きなトラブルにならずに済んだ安堵感で、眞琴の肩から一気に力が抜ける。


「さすがだな、草薙。よく気づいてくれた」


「生島先輩が真面目すぎるんですよ。窓口の空気を全部一人で背負おうとするから。ほら、深呼吸、深呼吸」


 伽羅は自分の胸に手を当てて、吸って、吐いて、と大袈裟にジェスチャーをして見せた。その姿が小さくて愛らしく、眞琴は思わず小さく吹き出してしまった。


「……ありがとう。お陰で少し落ち着いた」


「どういたしまして! さ、午前中のピークはもう一息です。頑張りましょう!」


 彼女がそう言って自分のデスクに戻り、次の患者から受付伝票の入ったクリアファイルを受け取る後ろ姿を、眞琴は目で追った。


 伽羅の声には、不思議な力がある。

 ただの業務連絡であっても、彼女が言葉を発すると、その場の空気がわずかに柔らかくなるのだ。

 病院のスタッフたちは誰も、彼女のことを「気が利いて愛想のいい、普通の女の子」だと思っている。だが、眞琴だけは知っていた。彼女の喉の奥には、聴く者の魂の境界線を揺るがすような、恐ろしいほどの天賦の才能――天才的な歌声が眠っていることを。そして、自分たちが夜、密かに一つの音楽を編み上げているパートナー同士であることも。


 しかし、今はここが彼らにとっての「現実」だった。


「朝からどうも立ち眩みがしてね。ちょっと診てもらえますか」


 伽羅が次の患者の対応へと入るのと入れ違いに、眞琴のデスクの前へ、初診の男性が診察券と問診票を差し出してきた。北川宏、六十三歳とある。


(立ち眩みやめまいなら、耳か頭のどちらかだろう。今日は耳鼻科の一般外来が休みだから、念のため脳神経外科の初診かな)


 激しい混雑を早く捌きたい一心もあり、眞琴はごくありふれた聞き取りと案内のつもりで、


「では、脳外科の受付をしますので、あちらの長椅子でお待ちください」


と、彼を受付からほど近い脳神経外科診察室の前へと案内した。端末のキーを叩き、受付データをシステムに登録する。


 ――それから、わずか十五分後のことだった。


「キャッ……! 誰か!看護師さん、大変です! この人を診てあげて!」


 ロビーの喧騒を切り裂くような、女性の短い悲鳴が響き渡った。

 視線を走らせると、さっき案内したばかりの北川さんが長椅子から滑り落ちるようにして、タイル張りの床の上にドサリと仰向けに倒れ込んでいた。駆けつけた看護師の呼びかけにも全く反応せず、完全に意識を失っている。溺れた魚のように不規則な呼吸。


「高木さん! ERからストレッチャー持ってきて! それから山下さん、脳外科の先生に連絡! すぐ来てもらって! それから事務さん!事務さん!コードナインお願い!」


 いち早く駆けつけた看護師が叫びながら、顎先挙上で気道を確保し、意識の確認を急ぐ。周囲の患者たちがパニックを起こして一斉に立ち上がる。


『コードナイン、コードナイン。一階中央ロビー。繰り返します、コードナイン――』


 全館のスピーカーから、ベテラン事務員の発する、超緊急事態を告げる暗号(コード)が冷徹に鳴り響いた。

 数秒と経たないうちに、通路の奥から院内PHSの警告音をけたたましく鳴らした脳神経外科の医師たちや、青いスクラブを着たERの看護師たちが、ストレッチャーを押して凄まじい足音と共にロビーへと大挙してなだれ込んでくる。


「ストローク疑い! 意識レベルは!?」


「JCS300、全く反応ありません! 瞳孔不同あり!」


「すぐにERへ! CT室空けさせて、急げ!」


 怒号と医療機器の警告音が交錯する中、北川さんを乗せたストレッチャーは、群衆を押し退けるようにして救急外来へと猛スピードで消えていった。

 あとに残されたのは、静まり返ったロビーと、眞琴の手元に残された、患者の「脳神経外科初診」の文字が点滅する冷たいカルテ画面だけだった。



 十一時半を回る頃には、あれほど混み合っていたロビーの行列も徐々に引き、自動精算機の電子音だけが規則的に響くようになった。

 保留データの処理がすべてゼロになったのを確認し、眞琴は静かに息を吐き出す。

 だが、その指先はかすかに震えたままで、さっきまで端末のキーを叩いていた感覚が妙に遠い。


 窓口のカウンター越しに交わされる、無数の他人との関わり。その一つひとつに、どれほどの質量が宿っているのだろう。ほんの一歩の踏み込み、ほんの数分の遅れが、他者の生と死を文字通り切り分けてしまう。

 生きるということは、これほどまでに具体的で、泥臭く、そして――薄氷を踏むように恐ろしい作業なのだ。


 眞琴はデスクトップの隅に表示されたデジタル時計に目をやった。

 日常という名の箱庭の時間だけが、さっきの修羅場などなかったかのように、冷徹に一秒ずつ刻まれていた。周囲のスタッフが「大変だったね」「焦ったわ」と小声で交わす日常の雑音すら、いまの眞琴の耳にはどこか現実味を欠いた歪んだ響きに聞こえていた。



 十二時半を過ぎ、午前中の激務が一段落したところで、事務方のスタッフは交代で昼休憩に入ることになっていた。

 眞琴が職員用の通用口を出て、病院の敷地内にある小さな中庭のベンチへ向かうと、そこにはすでに先客がいた。制服のカーディガンを羽織った伽羅が、持参した小さなお弁当箱を膝の上で広げている。


「あ、生島先輩。お疲れ様です。こっち空いてますよ」


 伽羅は隣のスペースをぽんぽんと叩いた。眞琴は苦笑しながら、コンビニで買ったサンドイッチと缶コーヒーを手に、彼女の隣に腰を下ろした。


 四月も終わりに近づいた爽やかな春風が中庭を吹き抜け、赤紫色のツツジの植え込みを優しく揺らしている。病院のロビーに漂っていた消毒液と張り詰めた空気の匂いを、綺麗に洗い流してくれるようだった。

 だが眞琴はサンドイッチを開けたものの、喉を通る気がせず、手元で缶コーヒーのプルタブを無意識にいじっている。頭の裏では、まだあの全館スピーカーの冷徹な電子音が鳴り響いているようだった。


「ほら先輩、食べないならそれ、伽羅が没収しちゃいますよ」


 隣に座った伽羅が、自分の愛妻弁当(自分で作ったものだが)の玉子焼きを咀嚼しながら、ジト目で眞琴を覗き込んできた。


「……いや、食べるよ。ちょっと、さっきのことが頭から離れなくて」


「あ、あの急変した患者さんのことですか?」


 伽羅は箸を置くと、ふう、と小さく息を吐いた。その表情には、受付で見せるいつもの営業スマイルはなく、素の幼馴染としての顔があった。


「眞琴、また全部自分のせいにしようとしてるでしょ。顔に「大反省中」って書いてあります」


「だって、画面に脳梗塞の既往って出てたんだ。それなのに僕は、ただの立ち眩みだからって通常の初診ルートで処理して、長椅子で十五分も待たせてしまった。もしあの時、僕がもっと早く彼の緊急性に気づいて、順番を待たせずに看護師に知らせていたら、待合室で倒れる前に、何とかなったんじゃないかって……」


押し殺した声で言う眞琴に、伽羅は首を横に振った。


「それは、違うと思います。だってあの患者さん、北川さん? 受付の時にはまだ普通に歩けてたし、麻痺も言葉のもつれもなかった。私たち事務員に「この立ち眩みは十五分後に大爆発する脳梗塞の前兆だ!」なんて高度な病気の診断できるはずありません。むしろ、めまいからちゃんと脳外科を選んで受付を通していたからこそ、倒れた瞬間にカルテが連動して、脳外科の先生たちが一秒で飛んできたんです。眞琴の判断は、あの状況でできるベストでした。私が保証します!」


 伽羅は胸を張り、太ももをポンと叩いて見せた。

 その物怖じしない、だけど温かい言葉の数々に、眞琴の胸の奥の澱(おり)が、ほんの少しだけ軽くなるのを感じる。


「……そうかな」


「そうです先輩! だから、今はちゃんと食べて体力つけて。午後からは、自賠責と労災のややこしい書類が待ってるんだから」


「う……それはそれで頭が痛いな」


 苦笑する眞琴を見て、伽羅は「よしよし」と満足そうに笑うと、再びお弁当に向き直った。


 「けどコードナインのときの先生たち、すごかったですね。特に脳外科のあの冷徹な先生……ストレッチャー押しながら「CT室空けさせろ!」って怒鳴ったとき、休憩室まで声が響くかと思いました」


「ああ……確かに、あの迫力は凄かったな」


 眞琴はサンドイッチを一口齧りながら、脳裏に焼き付いたあの青いスクラブの医師たちの背中を思い返していた。

 伽羅の言う通り、これしきのことに動揺していてはダメなのかもしれない。眞琴は脳裏にかかるモヤを振り払うかのように話題を変えた。


「……それにしても、本当に職場では誰も気づいていないもんだな。僕たちが夜、ライブハウスで一緒に音を出しているなんて」


「ふふ、そうですね。もしバレたら副業禁止規定でクビになっちゃうかも。みんな私のことを、ただの真面目で大人しい新人の事務員だと思ってます。私が夜、ステージの上であんなに真剣に歌ってるって知ったら、医事課長あたり、きっと目を丸くします」


 伽羅はくすくすと笑いながら、玉子焼きを口に運んだ。

 すみやま総合病院での彼女は、どこまでも周囲に馴染んだ「普通の後輩」だ。しかし、ひとたびマイクを握り、彼女がその喉を震わせた瞬間、その場にいるすべての人間が言葉を失い、彼女の歌声の渦に引き込まれていく。

 彼女の歌声は、単に音程が正しいとか、声量があるという次元を超えていた。聴いているだけで、自分の境界線が曖昧になり、どこか遠い、懐かしい場所へ連れ去られるような――そんな圧倒的な「何か」が、彼女の喉には宿っているのだ。


「……なんだかな、落ち込んでるわけではないんだけどな」


 眞琴は生ぬるくなった缶コーヒーのプルタブを引きながら、ぽつりと言った。


「こうして窓口でたくさんの人と関わって、毎日毎日、目の前の業務を必死になってこなしていると、自分がどんどん擦り切れていくような気がする。生きるのって、なんでこんなに疲れるんだろうな」


 それは、眞琴の胸の奥にある、決して他人には言えない感覚だった。数年前、生死の境を彷徨ったあの瞬間。あの「無限の楽園」のような、すべてが満ち足りていた世界に比べると、この他者と関わり続けなければ維持できない現実世界は、あまりにも不自由で、重たい。

 伽羅は箸を止め、少しだけ首を傾げて眞琴の顔を見つめた。大きな瞳が、春の穏やかな陽光を浴びて深みのある色を帯びている。


「……ちょっと分かります、その気持ち。私も、普段こうしてたくさんの患者さんの伝票を処理している時は、自分がちっぽけなネジになったみたいに窮屈に思うときがある。でも、眞琴」


 伽羅はベンチの背もたれに体を預け、若葉を伸ばし始めた木々の隙間から覗く澄んだ春空を見上げた。


「不思議なんだけど、私、ステージで歌っている時だけは、自分がこの小さな体から抜け出して、どこか遠くまで、無限に広がっていくような気がします。自分と、眞琴のギターの音と、聴いてくれているお客さんの境目がなくなって、一つの大きな波になって揺れているみたいな……。あの瞬間だけは、窮屈さも、寂しさも、全部消えてしまう。だから私、歌うのをやめられないのかもしれない」


 伽羅のその言葉に、眞琴は胸を突かれた。

 彼女は唯識の知識も、世界の構造についてのロジックも持っていない。それなのに、感覚だけで、世界の裏側にある真理に触れているような気がした。

 自分と他人の境目が消える、一つの大きな波。

 自分がかつて臨死の淵で垣間見たあの世界を、彼女は歌を通じて、この現実世界に一瞬だけ手繰り寄せているのではないか。


 「眞琴のギターもそう」


 伽羅は不意に視線を戻し、眞琴の顔を覗き込んできた。いつもの人懐っこい笑顔だった。


「眞琴のギターは時々、どこか遠くの景色を見ているみたいな音がします。私は、あの音に合わせて歌うのが、世界で一番好きです」


「……買い被りすぎだよ。僕はただ、必死にコードを追っているだけさ」


 眞琴は照れ隠しに缶コーヒーを口に含んだ。ほろ苦い液体が、乾いた喉に染み渡っていく。

 遠くで、昼休憩の終わりを告げる病院のチャイムが静かに鳴り響いた。


「あ、もう時間。戻りましょうか、先輩」


「ああ、そうだな」


 二人は立ち上がり、再びあのピリピリとした、けれど愛おしい「現実の戦場」へと歩き出す。

 午後のロビーには、またたくさんの患者の受付伝票と、体調不良や待ち時間の長さに苛立つ人々の、重苦しい空気が待っているだろう。それでも、隣を歩く幼馴染の軽い足取りを見ていると、眞琴の心は先ほどよりも少しだけ軽くなっているのだった。

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