臨死体験記
あれは私が20代後半の頃、プロのジャズギタリストを目指して遮二無二修行に励んでいた中で、数週間の予定で渡米した時のことだ。
滞在先は、ニューヨーク在住のジャズドラマーの先輩の自宅だった。ある夜、先輩は静かに切り出した。
「偉大なジャズの先駆者たちの精神を学ぶうえで、マリファナを経験することは決して無意味なことではないと思う。どうだ、やってみるか?」
その言葉に、私は同意した。
用意されたのは、粉末状にした葉をパイプに詰め、火を点けて吸引するものだった。タバコと同じ要領で、深く、二度。肺の奥まで吸い込み、ひとまず様子を見た――
まず、かつてどこかで聞いた通り、眼前の景色が異様なほど超立体的に見え始めた。
「これが噂に聞く感覚か!」
しかし、そう快楽に浸れたのも、ほんの束の間だった。
手足が俄かに重くなり、ほどなくして私の身体は風船が萎むように脱力していった。人間の体は完全に脱力すると想像以上に重たい。腕は力なくぶらんと垂れ下がり、首は前方に折れ、椅子に座っていることすらままならなくなる。不思議と気分は悪くなかった。ただ、己の身体が文字通り鉛のように重く変化していた。
私の異変に気づいた先輩が、「おい、大丈夫か」と声をかけてくる。だが、もはや言葉を返すことすらできない。
少し慌てた様子の先輩が、「よし、少し外の空気を吸いに行こうか!」と私の脇に両手を入れ、椅子から立ち上がらせようとした。
(た、立ち上がれと!? この状態で!? むりむり、絶対むり!!)
心の中で激しく叫ぶ。立ち上がるなど途方もなく難しい課題に思えた。脚には微塵も力が入らない。結局、私は先輩に背後から抱きかかえられ、引きずられるようにしてリビングの窓際まで運ばれた。
窓には防犯用の格子が取り付けられていた。私はかろうじて動く両腕に渾身の力を込め、その窓格子にしがみついた。外の空気は確かに心地よく、意識して呼吸を繰り返した。呼吸は徐々に速く浅くなっていく。うまく呼吸ができない。苦しい。私は過呼吸になった。そして間もなく全体重を必死に支えていた両腕が力尽き、私はそのまま窓の前に崩れ落ちた。
背後で見守っていた先輩は、崩れ落ちた私を再度抱きかかえ、リビングのソファになんとか座らせた。
「おお、何か……どうしたらいいかな。氷、氷で冷やしたらどうかな!? 氷を用意してくるから、座って待っててな!」
先輩はそう言い残し、狼狽しながらキッチンへと走っていった。
次に私を襲ったのは、苛烈な頭痛と耳鳴りだった。
不意に襲ってきたそれは並の頭痛などではない。脳漿のあちこちから血が噴き出しているかと思うほどの激痛。私は両腕で頭を抱えて声すらも出せずに悶絶した。そして聴覚器官の限界をはるかに超える攻撃的で壮絶な音量の耳鳴り。耳を塞いでも加速度的に激しさを増していく、想像を絶する殺人的な耳鳴りだった。
(こ、これがテレビで見た禁断症状ってやつか……! )
その凄まじい苦痛に耐えかね、私はソファからリビングの床へと転げ落ちた。
しばらく床の上をのたうち回っていたが、不意に、すべての苦痛が嘘のように綺麗に治まった。
ようやく平穏が訪れたかと安堵したのも束の間、今度は全身が激しく痙攣しだした。
私自身の意識はいたって平然としているにもかかわらず、全身のありとあらゆる筋肉が、これでもかというほどの満身の力によって勝手に凝縮していく。気がつけば、腕も脚も、文字通り狂ったように震え出していた。
だが、不思議なことに痛みはまったくなかった。私はまるで他人事のように、暴走する肉体を内側からじっと観察していた。
やがて、どのくらいの時間が経っただろうか。激しい嵐は嘘のように去り、圧倒的な静寂が訪れた。私は呼吸をすることさえ忘れ、ただただその深い安堵感に浸っていた。
ふと気づくと、先輩が電話をかけていた。キッチンと廊下を隔てる壁に備え付けられた固定電話だ。救急車を呼んでいるらしい。私は受話器に向かって必死に喋る先輩の顔を、呆然と横から眺めていた。
先輩は、自分がマリファナを勧めた事実を隠蔽しようとしていた。
「彼がどこか外で吸ってきたのだろう。私は知らない――」
必死に嘘をつくその保身の姿に対して、私は激しい腹立たしさを覚えた。
……いや、待て。私はなぜ、彼の顔のすぐ横で、彼を眺めているのだ?
その時、私は自分が「幽体離脱」していることに唐突に気がついた。
それならば、と試しに自分を上空から俯瞰してみる。すると驚くほどいとも簡単に、リビングの床に力なく横たわっている「私自身の肉体」が視界に飛び込んできた。
その時、私は「呼吸」について考えていた。
息をしないということが、これほどまでに安楽であるのかと驚嘆していた。なんだ、呼吸なんて、そもそも、しなくてもいいんじゃないか……。安息の極致にいた私は、生きるための呼吸をすでに「煩わしい」と感じていた。
先輩の悲鳴が聞こえた。受話器に向かって、今にも泣き出しそうな声で叫んでいる。
「彼が呼吸をしていない! He doesn't breathe!!!! He doesn't breathe!!!! 」
次の瞬間、私の唇に、先輩の生暖かい唇が重ねられた。
それと同時に、彼の生暖かい吐息が、怒涛の勢いで私の気管を通り、肺へと流れ込んできた。至上の安堵は唐突に破られ、私はその異物感にひどく驚いた。しかし同時に、忘れていた大事な約束を突如として思い出す。
(あ、そうだそうだ! 呼吸しないと! しないと死んじゃうよねっ……!)
ハッと我に返った私は、意識的に数回深く息を吸い込み、ようやく自発呼吸を取り戻した。
しばらく意識を失っていたのだろうか。
次に目に焼きついている記憶は、リビングの床に横たわる私を、救急隊員たちが物々しく取り囲んでざわついている光景だった。
私はやはり、彼らを天井付近から静かに見下ろしていた。
飛び交う言葉が英語だったせいだろうか。緊迫した彼らのざわめきをBGMに、私と、私を取り巻く救急隊の周囲を、数人の幼児の天使たち(!)が優雅に羽ばたきながら、ゆったりと舞い飛んでいた。
私は暗黒の闇の中を、遥か彼方に見える一点の光に向かって、まるでヒーローのように滑空していた。私の両脇には、今も数人の天使たちが寄り添うように一緒に飛んでくれている。
その時、不意に私の過去の記憶が、心のスクリーンに鮮烈に蘇ってきた。私の意識は、吸い寄せられるようにその映像に釘付けになった。
それは、完全に忘れ去っていたはずの、幼少期から昨日までの些細な出来事の数々だった。
あたかもスライドショーのように次から次へと紡がれていく、その走馬灯。生きていた時にはまったく無意味に思えた一つひとつの場面が、そのチョイスとその順番で連ねて見せられた時、私はある衝撃的な事実に気づかされた。
そこに現れたのは、一本の、完璧なまでに真っ直ぐな「筋道」だった。
それは寸分の狂いもなく、どこまでも一直線に引かれた美しい道だった。私が無作為に右往左往して生きてきたと思っていたこれまでの人生は、実はこれほどまでに手落ちなき、完璧な一本の道だったのか――!
そして、次に私が覚えている記憶――それは、病院のベッドに横たえられ、電気ショックを受けている場面だった。
ドン、と肉体が跳ねる。
傍らの医師が緊迫した声で指示を出し、直後、弾んだ声が響いた。
「Look! He got it! He is alive!(見ろ! 吹き返したぞ! 生きている!)」
その声を聞きながら、私はある奇妙な違和感を覚えていた。
それまで私は、ずっと目を開けて周囲の光景を見ていると疑わなかった。しかし次の瞬間、医師が私の「閉じていたはずの瞼」を指で無理やり押し開いたのだ。眩しいペンライトの光がダイレクトに瞳孔を射抜き、私は己の身に起きていた驚天動地の事実を知った。
私は先ほどまで、完全に目を閉じていたのだ。にもかかわらず、耳から入ってくる音や気配の情報を頼りに、現実と寸分も違わないほど鮮明な景色を、勝手にまぶたの裏へと投影していた。自分自身でも境界が崩れるほど、精緻で、完璧な世界を、私の意識は「視て」いたのである。
……それからどれほどの時間が経ったのか、私は、静かに、ゆっくりと意識を取り戻していった。
それは、何千、何億と存在する膨大なチャンネルの中から、たった一つのチャンネルを見極めて選び出し、その周波数に寸分の狂いもなくピントを合わせるかのような、緻密で気の遠くなる作業だった。途方もない精神力と集中力が費やされ、さらに一度合わせたチューニングを維持し続けなければならなかった。
そうして私は、この世界に戻ってきた。
ようやく目を開けて視界に飛び込んできたのは、静かな病室の、少し汚れた天井だった。
その瞬間、私の目から滝のような涙が溢れ出し、どうしても止まらなくなった。
なぜ泣いているのか、自分でも分からなかった。ただ、この世界に再び戻ってくることができたという、むき出しの感動と、深い感謝の念だけが胸に満ちていた。
音が聞こえる。光が見える。肌に触れる空気がある。
いま感じているすべての出来事が、この上なく「有り難い」ものだった。この世界に存在することの奇跡が愛おしくて仕方なくて、私はただ、泣き続けていた。
――後日談がある。
医師の話によれば、通常、大麻の単独摂取だけでこれほど劇症の急性中毒に陥るケースは極めて稀だという。おそらく、私が吸ったものには当時アメリカで流行した合成麻薬のPCP(俗にエンジェルダストと呼ばれる)などの、より強力な違法薬物が混入されていたのではないか、とのことだった。件の先輩自身も常習の末に感覚が麻痺しており、混入の事実に気づいていなかったのだろう。
そしてもう一つ、書き添えておかねばならないことがある。
それは、あの時目撃した「走馬灯」の行方だ。
私たちが浅い睡眠から目覚める時、それまで見ていた夢の内容が、覚醒と同時に疾風のごとき速さで霧散していくように――。病室のベッドで目を開けた瞬間、私が視た完璧な一本の道は、ただならぬ速度で忘却の彼方へと消え去っていった。
抗う間もなく、記憶はすべて剥ぎ取られた。
いま私の手元に残されているのは、ただあの時、確かにそれを見て、深く魂で感じたのだという、確信の残滓だけである。




