患者の気持ち
この宇宙は、全知全能の誰かが意図して、デザインして作ったものではない、と私は思う。
ただ、「形状記憶の性質を持つ阿摩羅識の海」というたった一つの初期条件が、そこに最初からあっただけなのだと。
その性質を起点として波が生まれ、波と波が重なる特異点に渦が発生し、自己参照ループによって自我や時空間、そして私たちが物質として触れているこの現実世界のすべてが、ドミノ倒しのように、自動的、かつ必然的に展開していく。
――それこそが、この世界の真の姿であり、「自己組織化するシステム」なのだと感じてやまない。
そしてきっと、私たちの意識は、互いにその存在を委ねながら、いまこの時も、高い次元からこの世界の構築に参加しているのだ。
私たちの国、日本には、巡りゆく美しい四季がある。水が豊富で緑が豊かだ。時に僕たちの力ではどうしようもない過酷な天災に見舞われることもあるけれど、ここにはそれはそれは豊かで、息を呑むほど美しい自然の営みが息づいている。
豊かな水と伝統的な調理法に裏打ちされた料理は美味しく、湯煙が立ち上る温泉に身を浸す時間は、日常生活で凝り固まった私たちの身体をほぐし、たまらなく心地いい余白をくれる。
そして私たち日本人の感性には、秋の夜長に鳴く虫の音を旋律として愛で、一つの音の響きの中に宇宙を見出す「一音成仏」の美学があり、不完全なものや、移ろい消えゆくものにこそ無常の美を見出す「侘び寂び」を楽しむ心が、初めから組み込まれている。
臨死体験に始まる多くの気づきを経て、すべてが広大な海へと還っていく仕組みを悟ってしまった今、私には、死に対する恐怖はさほど無い。
しかし、それでも――それでも私は、私の末那識は。
「私はいつの時代に、何処に生まれた、誰であるか」
「私はいつ、どこで、誰と、何をしたか」
「私は何を考え、何を感じ、何を思い、何を喜び、何に苦しんだか」
私の末那識は、これまでこの不自由な箱庭のなかで必死に生きて、誰かと触れ合い、紡いできた、大切な大切なこの人生の記憶のすべてが、いつか宇宙の海へと溶けて失われてしまうことに、やはり途方もない切なさを感じてやまないのだ。
私という存在に執着しているわけではない。私の生きた痕跡は、出会った他者の記憶や意識に支えられ、アーカーシャという宇宙に刻まれて残り続けるのだから。
けれどいつか私自身が、その痕跡を確かめ、味わうことのできなくなる日が来る。私はこの愛おしい記憶を自ら感じることができなくなるのが、どうしようもなく寂しい。
そして私の意識は、この「他者との観測共有によってギリギリの硬さを保っている光溢れる3.5次元時空間」があまりにも美しく、ここで奇跡的に心を通わせることができた命たちが、どうしようもないほど愛おしいと、実に素朴に感じてやまない。
そしていま、この愛に満ちた心理状態に身を置くことができていること、その圧倒的なバグ(錯覚)がもたらしてくれた、確率論的な奇跡に対して――ただひたすらに純粋な感謝を捧げる対象として、私たち人間には、どうしても神仏が必要なのではないだろうか。
(了)




