↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アーカーシャの箱庭  作者: 小泉 佳
付録
PR
21/21

世界の考察

 この物語の屋台骨となったメモである。物語の根幹として流れていた、抽象的なシステム論のダイアグラム(構造図)を、最後にそっと手渡しておきたい。なお内容はすべて著者独自の推察であり、学術的に証明されているものではないのでご注意願いたい。

→阿摩羅識・阿頼耶識・末那識

伝統的な仏教の唯識思想を、現代的に再解釈し、

・阿摩羅織=アマラ

・阿頼耶識=アーカーシャ

・末那識=エゴ

・意識=マインド

とおく。

まず根本的な定義として、我々の住む次元からは捉えられない未知の力場である「阿頼耶識」。それを構成する媒体として提唱される清浄で純粋無垢な「阿摩羅識」には、その本質として、あらゆる事象を形状記憶的に「波」という形で記録する性質があると仮定する。

「阿頼耶識」は「アーカーシャ」であり「アカシックレコード」である。そこに生じる波は、パラレルワールドを含む全ての世界の記録である。この「阿頼耶識」の記録の網綱にはまだ「個」という区分がない。くまなく隅から隅まで繋がった大きな大きな宇宙である。

その波立つ「阿頼耶識の海」に、何らかの条件下で「渦」が生じる。この「渦」がある程度の安定性と回転数を持ったとき、「自他の境界」をもって「他」と切り離れた「個」としての意識体となる。これが「自我(エゴ)」や「物質世界」の核となる「末那識」である。


→末那識の正体

阿頼耶識に生じた「渦」の中で、万物を記録する性質を持つ「阿摩羅識」に、自分が自分を記録し続けるというループが出来てしまう。ある一定以上の高速回転で自己の記録を重ねる行為が、ある種のバグ(錯覚)を生む。この物理作用によって、まずループする記録と記録が干渉し合って融合し、時間的に幅を持った「記憶」というシステムが誕生する(高次元にも時間軸は存在する)。このとき、自己を参照し続けるループによって自己認識(記憶システムによる記録のもつれ)というバグ、つまり物理的なパーツのどこを探しても見つからない「私はここにいる」という強烈な錯覚が突如として湧き上がる(創発する)のである。

つまり「自己参照ループ」によるバグ(錯覚)が「自我(エゴ)」、すなわち我々が常識的に感じている「わ・た・し」という感覚の正体なのである。私たちはどこかから「魂」というパーツを持ってきたのではなく、「阿摩羅識の記録特性」そのものによって、情報が渦巻いたときに「自我」というバグ(錯覚)が永続するように自動デザインされている」のだ。


→物質世界の構築

また、この高速の自己参照ループは、その物理的作用機序によって、いま生まれたばかりの自我意識に、我々が時空間と呼んでいる次元ベクトルの概念を刷り込む。それは自己を参照し続ける「記憶」というシステムが、あたかも合わせ鏡の中の世界のように、「物質的な時間概念」と「物質的な空間概念」を生むのである。

つまり「自我」」も「物質世界」も、最初から宇宙に客観的に存在しているのではなく、この「自己参照ループ」という情報処理のバグが、一瞬一瞬生み出し続けている「大いなる錯覚」なのである。


→3.5次元時空間と夢の世界

もう一つの定義として、ここでは物質世界のことを「4次元」ではなく、時間軸が片方向であることから「3.5次元時空間」という。

物質や肉体は「3.5次元時空間的」にこそ具現化する。それより更なる高次元の世界とは「夢」の中の世界がそれであり、時空間を容易く超越する自由度を得るが、自己の世界のみで完結する。

夢の中の世界では、すべての事象は存在するもしないも観測者の自由意思に寄るものであり、それらはただのイメージに過ぎず、その存在証明は何ら意味を成さない。そもそもさらに言えばそれらは単に、現実の3.5次元時空間を経験的に模してイメージ化しているにすぎないものである。また我々が普通に想い描く人や景色や出来事の記憶も、あくまで3.5次元世界の中でのイメージの模写である。


→観測共有と実在証明

一方で「3.5次元時空間」において物質や肉体が具現化する事象も、我々の得る感覚情報が自身の意識に支配されている以上、他と観測共有できるという点以外には、夢の世界同様にその存在が単なるイメージに過ぎないことを否定しきれない。ただ他と観測共有できるという一点のみが、この「3.5次元時空間」に実在することの証明になりえる。

逆の言い方をすれば、この「3.5次元時空間」に生まれ落ちた我々は、生まれたその日から、自己を自己として認識し、他と関わることによってあらゆる物質、しいては時空間そのものを物理的に認識しているのであって、我々の認識システムにおいては、自己が他と関わることそのものがこの「3.5次元」の世界を認識する原理として根底に刷り込まれているのである。


→意識の生

我々は通常、3.5次元時空間に意識のチャンネルを合わすことで即ち覚醒している。これには実はことのほか多大な集中力を常時費やしている。それは深い眠りに落ちていて無理やり叩き起こされた時、すぐに覚醒出来ず意識朦朧としながら徐々にピントが合ってくる様子からも分かる。このチャンネル同調の作業はすなわち、夢の中の世界で体験していた高い次元を、知覚できないように次元の隙間ににたたみ込む作業であるが、実はこの作業こそが個としての意識体(一つの渦)を存続させる作業、つまり個としての「末那識」を独立させる行為なのであり、「自我(エゴ)」が「3.5次元時空間」に成立することなのであり、それこそが"生きる"ということそのものなのである。つまり"生きる"とはすなわち、個としての"自我"を保持し続けることであり、そのために絶えず"自己以外と触れ合い関わりを持つ"ことなのである。


→意識の死

"意識の死"は身近なものである。夢うつつや意識朦朧な状態、また統合失調症や認知症の患者などは、この「3.5次元時空間」にチャンネルを合わせる集中力が低下して同調不全となり、他との共有世界と自己完結の世界が混在して混沌となる。これは即ち「3.5次元」に意識を保持することが困難な状態なのであり、「個」としての「渦」すなわち「末那識」が消滅しかかっている状態、つまりは程度の差こそあるが覚醒状態よりそれ相応に「死」に近い状態なのである。"意識の死"とは、「末那識」という渦が消滅して「阿頼耶識」の海に帰することである。「末那識」が消滅するとき、意識は無限に広がる「阿頼耶識の海」に揺蕩い、やがて同化して"個"という単位が消える。これがすなわち意識の"死"である。


→肉体の死

一般に「死」とは「死の三徴候」による生体活動の停止を意味するが、ここでは「意識」と密接につながる「脳死」について考える。「脳死」とは科学的に脳が活動を停止して不可逆と判断された状態とされるが、これはつまり「末那識」が肉体との接続を断った状態と考えられる。つまり「末那識」の接続維持は、脳の生態活動とリンクしている。

ただし一般的にいう"肉体の死"は、あくまで他との「観測共有」で確認される事象である。"肉体の生死"とは、この「3.5次元時空間」にこそ意味を成す概念なのであり、他と「観測共有」するからこそ、そこに生命活動としての生死の区別が成立するのである。「末那識」が「自我」を形成し「3.5次元時空間」に具現化するためには、「観測共有」できる機能=感覚器官を備えた何某かの器が必要なのであり、そのために我々は「3.5次元」的に展開するこの生きた肉体を必要とするのである。


→胎児の意識

我々は覚醒状態を基準に考えがちだが、胎児は母体の中で夢の世界にいるのであり、むしろ出発点としてはこの状態を基準に考えるべきである。そこは基本的に自己完結の世界であり、やがて胎児の生命活動が「他(母を含む)」から観測された瞬間から、3.5次元に落とし込まれた現実世界に具現化する兆しが見えてくる。


→肉体的な生命活動

我々の多くは生前の記憶を持たないが、それ故に歳をとるほどに時間の経過を速く感じる。同じ1秒間なら1秒間を、生まれてから過ごした時間で割ったものを無意識に感じ取るからである。この法則を誕生の瞬間まで拡張してみると、体感時間が無限大となる特異点が現れる。

つまり時間を遡れば、生まれた瞬間は無限の時間を感じている、ということである。この話は「意識」レベルであるが、同じ話を「末那識」レベルで考えると、「渦」が「自己参照ループ」によって生み出した「自我」と「時空間」がリンクした瞬間が、肉体的な生命活動の出発点であり、無限の時間を感じている特異点だと解釈できる。つまり子宮に着床した胎児が、母体から切り離れて「個」としての存在となった瞬間がすなわち「阿頼耶識の海」から「末那識」が生じる瞬間なのである。

また、死ぬ時は脳内麻薬が放出されると共に時間感覚は遅く緩慢になり、意識消失に続いて末那識も完全に消滅する時、時間感覚は過去も未来もなく無限大となる。


→阿頼耶識の波

仏教では「阿頼耶識」を「意識体の波=気や霊魂など漠然と拡散し浮遊する意識体」と解釈しており、それは全体生命的な記憶を保持しており、それを元に新たな渦(末那識)が生成されて次なる命を得る(輪廻転生)とされる。

「阿頼耶識」の個々の波は、時間経過とともに消え行くものではなく、「他」からの記憶に依って維持され、「他」から忘れ去られるほどに消え行くのではないか。この場合の「他からの記憶」とは時間軸上のものではなく「他からの認識度」である。


→ 根本恐怖と潜在意識・顕在意識

「自分はいったい何者なのか」「自分はなぜ、何のために存在しているのか」という思春期に悩まされる哲学的な問いは、「自と他を分ける境界線」と「一方通行の時間の流れ」があるからこそ生まれる。そもそも本来「阿頼耶識の海」ではすべてが一体であり、始まりも終わりもなく「ただ、ある」だけなので、「理由」や「目的」を必要としない。

「渦」が巻いて「自己参照ループ」により必然的に「自我」が生じる。生じた時点で、全体から切り離され更に過去から未来へ流れる時間に閉じ込められた「自我」は、己を自覚するその瞬間に、「私は何者なのか」「なぜ私は、この時間と空間に、わざわざ区切られて存在しているのか?」という本質的な疑問が、構造的に発生する。これが全ての感情の根本となる「消滅の恐怖」と「存在理由の喪失」の想起である。つまり自我(バグ)の発生と「消滅の恐怖」「理由の喪失」はセットなのである。

言い換えれば、「自分は何者なのか」「自分がなぜここに居るのか」が分からなくて苦悩すること自体が、宇宙の記録システムに生じた「渦(自己参照のバグ)」が正常に機能している証拠なのである。

また、我々の「自我(エゴ)」の根底には、「個」としての「渦」が消えてしまうことへの漠然とした恐怖(生存欲)がある。逆説的に言えば、この恐怖心こそが「自我(エゴ)」の核心となっている。そしてそこから迷い、混乱、目標見失、自信喪失などの負の感情が絶えず派生している。

面白いのは、我々を含む生き物の基本性の中に、より大きな自分を生かすために小さな自分が犠牲になる本能があることである。

自我(エゴ)から発生したそれらの負の感情は、現実の展開を否定するマイナス思考を生み、恨み、妬み、怒りなどの様々な感情を派生する。


→プラス思考への変換(すり替え)

これらのマイナス思考は生存するために必要なものであり、そこから反省し学習して再出発することで我々は成長する。

「自我」の根本的な作用は複雑化し、二次、三次的作用を形成する。自らが成長することに焦点がすり替えられると、「プラス思考の自我」が形成される。また他との関わりを円滑に継続することに焦点が置かれると、「社会倫理的な自我」が形成される。

なお余談であるが、このレベルの感情は脳内物質でコントロールされ、今日ではそれに変わる薬物の投与でも意図的にコントロールが可能になった。


→複合次元空間

私たちの現在の認識ではこの現実世界は3次元空間+片方向のみの時間ベクトルとして「3.5次元時空間」と考えられているが、実は我々の「意識」は、我々が普通に覚醒している今も、時間や空間に拘束されることのない自由な形でここで展開しいる。つまり低次元の肉体の一部である「感覚器官」からは「意識」の実像を捉えられないだけであり、「意識」は物質よりも一つ高い次元ベクトルで、この「物質世界」の構築に参加しているのである。(以下、この一段高い次元を「覚醒意識の次元」という)

なのでこの物質世界は、実際は「3.5次元」には収まらない「複合次元空間」なのである。


→コミュニケーションと次元変換

私たちの意識は、覚醒しているときは「覚醒意識の次元」に居る。我々が、この「3.5次元時空間」を構築するために「観測共有」する、という目的を持って「他」とコミュニケーションするとき、我々の「意識」は、相当な精神力を費やして、様々な手段を用いて、次元を一つ落として、肉体を駆使してその「内界(=意識の世界)」を「外界(=物質世界)」へ、文字通り"表現"する。それは「次元の降格作業」といえる。逆に肉体から得た様々な情報を「意識の世界」に還元するのは「次元の昇格作業」である。つまり我々は「意識」と「肉体」のあいだで「次元のシフト作業(=次元変換)」を行なっているのである。


→物質世界は箱庭

「肉体」や「物質」と「意識」は次元ベクトルが異なる。「肉体」や「物質」は「3.5次元」、「意識」はその一つ上の「覚醒意識の次元」である。「意識」は「3.5次元」に降りることはできない。この「3.5次元の物質世界」と、「覚醒意識の次元」は、同じ直線上に並べるべきではない。 「3.5次元」の世界は元を正せば渦が自ら構築した世界なのである。

この「3.5次元時空間」は「末那識の渦」が「自己参照ループ」によって「記憶」と「自我」と「時空」を作り出し、更に「他との観測共有」をするために作り出した「錯覚の世界」、それはあたかも「箱庭」のような特別な次元世界なのである。


→自己表現

「末那識の渦」は、「自己参照ループ」によって「記憶」や「自我」や「3.5次元時空間」を生み出しながらも、「阿頼耶識の海」の数多の「他の波」と絶えず干渉し合っている。

我々がお喋りをしたり、芸術家が創作活動をしたりする時、たとえ相手がいなくても無性にアウトプットせざるを得ない衝動に駆られる。これはおそらく、「阿頼耶識の海」の「他の波」との干渉、あるいは「阿頼耶識の海」そのものとの繋がりから来るものである。


→次元間フラクタル

「覚醒意識の次元」を最下層として、「阿頼耶識の次元」を最上層と考えるが、我々が死にゆく過程を鑑みると、そのあいだには幾つかの段階的階層があると思われる。

「末那識の渦」により生じる「記憶」と「自我」と「3.5次元時空間(観測共有の世界)」のうち、「3.5次元時空間」は、最下層の「覚醒意識の次元」においてのみ構築される。「自我(自他の境界線)」はもう少し高次の次元まで保たれ、「記憶」は最も高次元まで保持される。それらは次元間を移動し、また次元にまたがって「次元間フラクタル」の構造で高次に進むにつれて小さくなり、最終的には消滅して「阿頼耶識の海」と同化する。


→触覚の妙理と微生物

我々の五感には、その「観測力(観測共有する力)」において明らかな格差がある。「観測力」は圧倒的に「視覚」が強い。それに次いで「聴覚」も強い。また「触覚」は少し特殊である。

五感のうち「触覚」のみは、外界と直接接触することで「他」を認識する。他の感覚器官は基本的に自分を観測することができないが、「触覚」は唯一、それ単体で自分を感知(観測)できる感覚器官である。「視覚」をはじめとする他の感覚器官は高等動物のみが所有するが、触覚は微生物にもある。微生物は「触覚」のみで外界との境界を構築しており、強い「観測力」を持たない彼らの「意識(渦)」は、自己完結に近い高い次元、つまり迷いのない「悟りの境地」でもあるが「死」に近い危うい状況下にあるともいえる。


→他者観測に優先される頭部・背部

この「3.5次元時空間」の全ての物質は、まず自分が「夢(自己完結の世界)」の場合と同じようにイメージ構築し、次に「他者」がその存在に同調してそれを認めて、ようやく存在が強固に確定する。ところが我々は、「3.5次元時空間」において、自分自身が宿る肉体の「頭部」や「背中」に限ってはこれを視覚的に観測(イメージング)することは構造的にできない。ただし「背中」は「触覚」によって自己観測される。

我々が「自分」をイメージする時、それは実際の「頭」の大きさを超えた広範囲の意識の力場としてイメージする。

しかし実際の頭部の物質的形状は「他」からの観測情報が優先されている。

つまり「頭部」に限っては自分が把握できない状態で「他」に観測されてゆく、ということである。例えば自分の顔の表情や脳内分泌物なども、「他」の観測情報のみに基づいて「自分」に作用する。鏡を見て「自分はこんな表情をしていたのか」と驚くのが何よりの証拠である。ここで重要なのは、「我々は日常、「頭部」の情報をイメージングせずに過ごしている」という厳然たる事実である。

我々はこの自己観測ができない「死角」を持ち、そこを他者観測に委ねることによって、覚醒時に、夢の世界にはない"実体感"や"現実感"を得ている。つまり自己観測できていないという不安を「他者」に埋めてもらうことで、我々の精神は安定し、それが"現実感"に繋がるのである。


→観測の省エネ化

また、我々の認識システムは、「3.5次元」をプレイするにあたり、多大な集中力(精神力)を消費している。そのため、構造的な死角である「自分の頭部」のイメージングをあえて省略し、他者からの観測情報にその確定を委ねることで、処理負荷を削減(省エネ化)している。


→阿頼耶識の波動

この世界が、個々の「意識(渦)」が展開するイメージを、他と互いに共有しあう(頭部を省く)ことで構築されるということは、その中に発生するあらゆる事象は、まず自らがイメージしたもの(他とイメージを共有していなくても)であることを意味する。自らイメージする事象の多くは覚醒時の記憶から模倣されるものである。しかし模倣する元ネタを、どう考えても持ち合わせていないと思われる場合がある。例えば知らなかったことに初めて出会うとき、例えば虫の知らせ、思いもかけなかった展開、そしてそもそも我々が何かを判断するとき、いかなる場合においても、突き詰めれば「直感的にそう感じるから」としか言いようのない根拠で取捨選択している。それらはすべて、「阿頼耶識」からの波動を感知した結果である。つまり我々の「意識(渦)」は、思うよりもずっと身近に「阿頼耶識」と繋がっていて、絶えずその波動をダイレクトに受け取って舵を取っているのである。「渦」の化身ともいえる「末那識(=自我)」は「自他の境界線」を強く引いて外界をシャットアウトするので、我々は「阿頼耶識の波」を実感として感じ取ることが難しいだけなのである。


→阿頼耶識の記録

我々は「観測共有」することで「3.5次元時空間」に存在を確定させている。しかしこの「3.5次元時空間」そのものは、我々の「渦」が自己参照ループをした結果発生した「錯覚の世界」だ。我々の「意識」はその直ぐ上の「覚醒意識の次元」からこの物質世界を俯瞰している。そして我々の選択や未知との遭遇など、「3.5次元」の世界に展開するおよそ全ての事象は、「阿頼耶識の波動」に由来する情報によって具現化している。「阿頼耶識」自体は時間も空間もない高次元にあるので、そこに物質的な情報は存在しない。「阿頼耶識の波」は、関係性の記録なのである。どこまでも緻密な関係性の記録。これが自然と「渦」の中に介入し、「錯覚」として生じた「3.5次元時空間」に落とし込まれるときに初めて時空間に束縛された物質的なイメージを纏う。「阿頼耶識」のどこまでも緻密な関係性のデータが、「渦」が作成した「時空間」という制約が許す範囲で具現化したのが、この「3.5次元時空間」という"箱庭"なのである。


→夢と現実の違い

夢は、ただ「阿頼耶識」の情報を「受信」するのみ。現実(3.5次元時空間)で行われるのは不確定を確定にする「観測」。

「阿頼耶識」の情報は過去も未来もないが不確定でもある。夢の世界は現実に比べればすべてが絶対性に欠ける。よく考えると論理的に辻褄が合わなかったり、物理法則を無視したものだったり、細部の詰めがあまい。「阿頼耶識」の情報もそのようなものである。

そのような「阿頼耶識」の情報を、「受信」するのみでは、存在を確定し得ないのである。存在の確定は「観測(観て測る)」してはじめてできる。さらに他者との「観測共有」で絶対的な強度を得る。

そして「観測」は、時間軸が片方通行の「3.5次元時空間」でのみ可能である。「3.5次元」は「観測」ができる次元の上限なのである。


→自我と3.5次元時空間

「自我」が「私」という限定的な存在であるためには、どうしても「3.5次元時空間」が必要である。

なぜなら、過去・現在・未来のすべてが見えてしまう高次元では、すべての他人の視点や、あり得たかもしれない別の人生の可能性が同時に流れ込んでしまい、「特定のこれを選び取っている私」という「自我の輪郭」が溶けて消えてしまうからである。

 また、「3.5次元時空間」は「自我」による「観測」によって具現化する。

 よって「渦」の「自己参照ループ」で発生する「自我」と「3.5次元時空間」は二身一体のセットである。


→変性意識状態

「阿頼耶識の渦」の回転速度は"この世界に顕現しようとする力"あるいは"生きようとする活力"に依存する。速度が落ちると気分が落ち込み、生きる気力がなくなる。速度が速まると気分は高揚し、集中力が増し、活力がみなぎる。芸術の創作活動、スポーツ、瞑想などで体験する「変性意識状態」は、渦が極めて高速回転した結果である。あまりに回転速度が速くなると、「自己参照ループ」の「フォーカスエリア」が拡張し「自分」という認識が広い範囲に拡大する。

このときの"自他の境界がなくなる感覚"は、「死」に至るときの感覚に似ているが、「死」にゆく過程では「渦」の回転速度は低下して最終的には「渦」が消滅するのであるから、運動としては真逆である。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。