第十四幕 坐禅(前編)
初夏の西日がゆっくりと朱を深め、小高い丘の上の真空寺の境内を、濃密な逢魔が時の影が包み込み始める頃。病院での目まぐるしい激務を終えた眞琴は、解き放たれた疲労感と高揚感が混ざり合う足取りのまま、吸い寄せられるように真空寺本堂の重厚な引き戸を沈黙のうちにくぐっていた。
静まり返った堂内には、昼の余熱を抱いた線香の残り香と、古びた欅の柱が放つ凛とした古木の薫香が重く漂っている。開け放たれた欄間からは、濡れた青葉の匂いを孕んだ初夏の冷気がすうっと流れ込み、火照った肌を静かに撫でた。
耳を澄ませば、境内の脇を流れる清流から、清涼な水音に交じってカジカガエルの透き通った美声が細く高く響いている。そして外の静寂が深まるにつれ、境内の生い茂る木組みの暗がりや水際から、柔らかい淡い光を放つホタルたちが、ひとつ、またひとつと優美な軌跡を描いて夜の闇へと舞い上がり始めていた。
真空寺には二体の本尊がある。いわゆる双本尊である。一体は背丈90cmほどの木造千手千眼観世音菩薩立像、その隣にはもう一体、1mほどの木造虚空蔵菩薩立像が祀られている。両仏とも指定重要文化財で、平安~南北朝時代の貴重な仏像であり、この地域の歴史的な信仰がそのまま守り伝えられている。
眞琴は薄暗い本堂の中央へと歩み寄った。須弥壇の奥、厨子に安置された二体の本尊が、威厳に満ちた姿で静かに見下ろしている。その前に腰を下ろすと、坐蒲を当て、半跏趺坐を組んだ。
唯識の深遠な階層、分厚い書籍の頁をめくるたび、指先に伝わってきた紙の質感と整然と並ぶ文字たち。
そして、あの水族館の合わせ鏡や、帰りの電車の中で、突如として視界がひらけるように掴み取った「自我の正体」と「複合次元空間」という世界の真実――。
頭の中に雑然と渦巻くそれら膨大なロジックの断片を、単なる抽象的な思索のままで終わらせたくはなかった。言葉や概念という借り物の衣服をすべて脱ぎ捨て、今、この血の通った自らの「身体」という唯一のフィルターを通して、その最奥にある答えを確かめたかったのだ。
深く、長く、吐き出す息とともに肩の力を抜き、微かな夜の湿気を胸いっぱいに満たしていく。
視線を斜め前方の薄暗がりに落とし、調身、調息、調心――。
二体の本尊が放つ静謐な存在感に対峙しながら、眞琴は一筋の微風にも揺らがぬ石像のように、ただひたすら己の内なる深淵へと沈み込んでいった。
十数分が経った頃、眞琴の肉体にいつもと同じ奇妙な異変が起き始めた。
人間の感覚器官は、「変化するもの」しか捉えられない。視覚も、触覚も、全く変化がなくなると、脳はその情報を「ないもの」として処理し始める。
微動だにせず座っていると、そのうちに衣服が肌に触れている感覚が消え、手足の感覚が消え、自分が呼吸をしている胸の輪郭すらあやふやになっていく。
そして最後に残るのは、ただ真っ直ぐに、広大に広がっている純粋な意識だけだった。
(……あぁ、身体の境界線が、消えていく)
それは、数年前に薬物の過剰摂取で死にかけた、あの臨死の淵で味わった感覚と全く同じだった。
あの時もそうだった。自分という個人の檻が溶けてなくなり、すべてがだだっ広い阿摩羅識の海へと還っていった。
人は普段でも、静かに自分という存在に思いを馳せる時、この狭い頭蓋骨の内側だけをイメージしてはいない。無意識のうちに、頭蓋骨よりも相当広い間をもって、空間全体に拡散した意識の力場として「自分」をイメージしているのではないだろうか。そしてじっと座ることで、意識がそこからさらに広大な高次元の姿へと広がっていくのだ。
座ってから数十分経っただろうか。眞琴が深い瞑想をしていると、不意に前方の一点に光る気配を感じた。おや?なんだろうと思っていると、その光は徐々に近づき、やがて丸い円になり、その中心に人型が現れる。人物像は等身大となり、眞琴の目の前2mのあたりで止まった。円に見えたのは無数の腕だった。そう、本尊の千手千眼観世音菩薩だ。
本尊が目の前に現れたことには驚いたが、眞琴はこれが、自分が勝手にまぶたに投影している幻影であると見切っていた。坐禅をしていて序盤でもないのにこんな邪念が入ることは珍しい。が、菩薩が現れたのなら、これはこれで良いと思った。瞑想という特殊な意識状態が成す、大いなるアーカーシャとの接触なのかもしれない。もしこれから仏との対話が始まるのなら、大いに楽しむことにしよう。
千手観音は眞琴の真正面に立ち、幾重にも広がる無数の手を静かに広げていた。そして、ひときわ大きな大手を胸の前に掲げ、合掌して厳かに告げた。
「偉大なる大勢至菩薩摩訶薩よ、果てしなき知恵の光で世界を照らし、人々を地獄や迷いから救う偉大な菩薩よ。いまその大いなる叡智を讃えん。大勢至の解き明かすところの世の理は、その隅々に至るまで真実なり」
(ーーっ、勢至菩薩なの?僕が?)
観音菩薩は眞琴を勢至菩薩、大勢至と呼んだ。眞琴は、これはおそらく、午年生まれの自分が、幼少期より勢至菩薩が守護仏であると教えられ、ことあるごとにその真言を唱えていたという事実を、自分の末那識が情報として拾ったからであろう、と見当をつけた。
「マハアヴァロキテシュバラ。千手観音さま。もったいなきお言葉、身に甘んじてお受けいたします」
「偉大なる大勢至よ。仁者の解き明かすところのアマラカーシャ(阿摩羅識)の海は、波を用いて一切縁起を記録す」
「はい」
「仁者の解き明かすところのアーカーシャの波は重なりて渦を生ず。」
「然り」
「仁者の解き明かすところの渦は自己を参照し、記憶と、過去から未来へ向かう時間と、前後左右上下の空間を生ず」
「然り」
「仁者の解き明かすところの渦は自己を参照し、大いなる自我を生ず。」
「然り」
「仁者の解き明かすところの自我は、生まれながらにして存在の理由に迷い、消滅の恐怖に怯える」
「然り」
眞琴はいつのまにか、人という衣を脱ぎ捨てて、大勢至菩薩という光となって、観世音菩薩と互角に対峙していた。
眞琴(大勢至)はこの際、観世音菩薩に分からないことを聞くことにした。
「偉大なる観世音菩薩摩訶薩よ。アーカーシャの波の重なりより生じた渦であるところの自我は、そこに派生する物質界において、自己完結に甘んずることなく他者観測共有の存在式を選択した」
「然り」
「偉大なる観世音菩薩摩訶薩よ。六根の内、唯一、身根触処のみが己を縛し、他の諸根は皆、己を観測すること能わず」
「然り」
眞琴はいま、人間の五感、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚のうち、触覚以外はみな、自分で自分のことを観測できないよね? と確認したのだ。
(ここだ。ここがわからない。自分で観測できない頭部は、観測共有できないんじゃないか? というか、自分は観測できなくて、他者には観測されているわけだ。それはつまり……その部分は存在の確定を100%他者に委ねてるってことか?)
つまり、人間は進化の過程で、高度な感覚器官である視覚や聴覚を手に入れた。しかしその代償として、自分では直接見られない死角(頭部)を作り、自分の感情や存在の主導権を「他者の観測(視線)」に明け渡してしまった。だからこそ、他者にどう見られているかに怯え、コントロールドラマの罠に囚われてのたうち回るのだ。
一方、我々はわざわざ他者との観測共有という回りくどい方法を選んだ。それに対し、例えば微生物などは、触覚のみという単純極まりない方法で、自立した存在を確立している。
「偉大なる観世音菩薩よ。大勢至が観世音に問う。世に身根触処のみを有する命あり。かの末那識は如何に」
(これを聞きたかったんだ。世の中には微生物のように、目や耳を持たず触覚だけで生きている生き物がいる。それらの「意識」はどうなっているのか?ということだ)
すると観音菩薩が答えた。
「観世音が大勢至に応ず。かの渦は微細なりて無色界にいでて独頭ゆえに無相独尊なり」
千手観音の千本の手に握られた宝具や、手のひらに開いた千の目が、暗がりでかすかに揺らめく。
(なんてことだ、微生物の「意識」は、他者の観測を必要としないから、迷いのない悟りの世界にいる、と言ったぞ!……「悟りの境地」とは、裏を返せば「死」に近いところにいるってことなのか……。ってことは、視覚や聴覚は、僕たちが物質的に存在することをより確かなものにするために、わざわざ僕たちを「悟りの境地」と正反対の迷いの世界に導いたってことか!!)
眞琴はさらに質問する。
「では大勢至が観世音に問う。他者観測共有の存在式を選択するは何ゆえか」
(……なぜ僕たちは、そうまでして「共有世界」を作ろうとするんだ? 悟りの境地とは正反対の方向だぞ? もしかして僕たちは、退化していたのか⁈ ……いや、きっとそうではないはず……。僕たちは何かの理由があって、存在の自立性を犠牲にして、他者観測の道を選んだのだ。その理由とは何だ――?)
「観世音が大勢至に応ず。そは随縁迅速の為なり」
眞琴は愕然とした。
(随縁迅速、状況に応じて素早く姿を変えるって意味だ。つまり観音は、僕たちが目や耳を使って他者と観測共有するのは、刻々と変化する身の回りの状況に、即座に適応するためだ、と言っているのだ!)
つまり、微生物のように触覚のみで生きているものは、自分だけで自分の存在を確定できるかわりに、遠くのことが分からないので急な環境や状況の変化には対処できない。
それに対して、「他者との観測共有による存在確定」を選択しているものは、悟りの境地から離れて迷いや苦しみを抱えるかわりに、目や耳や、他者との連携によって、広範囲の情報を得ることができる。それによって環境や状況の変化に迅速に対応して、災難を切り抜ける力が格段に強化された、ということだ。
そこまできて眞琴は、新たな疑問にぶつかった。自分の頭部が、他者観測に委ねられているのは何故なのか……。さっそく聞いてみることにした。
「では大勢至が観世音に問う。観測に死角ありは何ゆえか」
「観世音が大勢至に応ず。そは共業の根本法理なればなり。それ無くんば、器世界は一刹那も安立すること能わず」
(くっ、言葉が難しいな。お経の中に使われる言葉だ。「共業」とはたぶん観測共有のことだな。「器世界」は物質世界、すなわち3.5次元時空間のことだ。つまり観音は「それは観測共有の根本的なルールだよ、それがなければ3.5次元時空間は一瞬たりとも成立しないよ」と言っている。……なるほど。よく考えたらそうだよな。自分で観測できているうちは、いくら他者と観測共有したところで、それらのすべてが自分の作り出した夢かもしれないってことだ。自分では観測できない死角があってこそ、本当の他者観測が成り立つってことだな)
「大勢至よ。たとい千手千眼を具すとも、自らの後頭を観照すること能わず」
千手観音の背中から生えている42本の手が、様々な宝珠を乗せたまま蠢いた。一つひとつの手のひらにある目が方々を見ながら瞬きをする。
(そうか、千手観音ほどの全方位を見渡す眼があろうと、己の後頭部は見えないんだ)
そこを確定させるには他者の視線——すなわち他者観測に依存せざるを得ないのだ。
万人を救済するという千手観音も、千の手が持つ特別な触覚と、互いの観測を共有し合うシステムがあって、初めて世界の変容、環境の変化に即座に応じることができるのだ。
(千の眼は自身を観測するものではないのだな)
【気づき】
《意識の場》……「私」という意識の実体とは頭蓋骨の狭い内側に閉じ込められているのではなく、肉体の境界線を超えて空間全体へと力場のように拡散し、世界そのものと重なり合っている広大な場なのではないか。
《観測共有の死角》……自らの身体に「死角(後頭部)」が存在する理由とは進化の欠陥などではなく、己の観測が届かない領域を他者に委ねることによってのみ、この現実という共有世界(器世界)を確立させるための根本法理なのではないか。
《コントロールドラマの根源》……私たちが他者の視線に怯え、自我の葛藤やコントロールドラマに囚われるのは、みずからの存在の主導権を他者の観測に委ねざるを得ないという、この現実世界のシステムの必然なのではないか。
《触覚の特別》……視覚や聴覚が自分自身を捉えられない死角(他者への依存)を作るのに対し、触覚とは己を直接観測することで、他者の存在を必要とせずに自己を成立させられる唯一の特殊な領域なのではないか。
《環境変化対応の感覚器官》……私たちが五感を手に入れ他者と世界を共有する道を選んだのは、自己完結した静かな悟りから離れ、迷いや苦しみを抱えてでも、刻々と変化する世界の災難に立ち向かう「随縁迅速の力」を得るためなのではないか。




