終幕
幾度となく国家権力の包囲網を掻い潜り、裏社会の秩序すら塗り替えてきた怪物――《Torturer》も、永遠ではなかった。
時代は進歩する。
監視衛星、顔認識システム、都市全域を覆う監視カメラ網、AIによる行動解析。かつてなら闇に溶け込めた殺人鬼も、現代社会において完全な匿名性を維持し続けることは困難になりつつあった。
加えて、どれほど化け物じみた存在であろうと、肉体は老いる。
長年にわたる戦闘で蓄積した損傷。
衰え始めた反応速度。
わずかな判断の遅れ。
それら全てが積み重なった結果、ついに《Executor》創始者、《Torturer》は拘束された。
その報道は世界を震撼させた。
数十年もの間、都市伝説として語られてきた存在。
実在すら疑われていた怪物。
国家すら恐れた処刑人。
その男が、鉄格子の内側へ落ちたのだ。
だが、誰もが予想していたような光景は、そこには存在しなかった。
怒号も、抵抗も、絶望もない。
護送車へ押し込まれるその瞬間でさえ、《Torturer》はただ静かに笑っていたのである。
「……何がおかしい」
移送中、耐え切れなくなった若い警官がそう吐き捨てた時、拘束具に繋がれた男はゆっくりと顔を上げた。
その目には恐怖も焦燥も存在しない。
まるで舞台の開演を待つ観客のような、奇妙な期待だけが浮かんでいた。
「いや……ようやく、かと思ってな」
掠れた低い声。
そして、口元は愉快そうに歪む。
「死というものを、私はまだ味わったことがない」
その言葉に、警官は背筋へ氷水を流し込まれたような悪寒を覚えたという。
裁判は異様なほど迅速に進行した。
証拠は十分すぎるほど揃っていた。
数え切れない死体。
膨大な失踪事件。
そしてExecutorとの関連性。
当然のように、判決は死刑。
しかし、判決文が読み上げられる法廷の中でさえ、《Torturer》は笑っていた。
まるで長年待ち望んだ恋人の名を呼ばれたかのように。
「被告人、《Torturer》に死刑を言い渡す」
静まり返る法廷。
誰もが固唾を呑む中、男は小さく目を細め、愉快そうに呟いた。
「ああ……素晴らしい」
狂っている。
傍聴席にいた誰もがそう思った。
死刑執行前夜。
看守の一人は、独房の前で低く問いかけた。
「……怖くないのか」
薄暗い部屋の中、《Torturer》は壁にもたれながら笑みを浮かべる。
「怖い?」
彼はその言葉を反芻するように繰り返した後、くつくつと喉を鳴らした。
「違うな。私はずっと待っていたんだ」
そして彼は、ゆっくりと看守を見据え、まるで親しい友人へ頼み事をするかのような穏やかな口調で告げた。
「美しく殺してくれ」
看守には、その意味が理解できなかった。
何をもって“美しい”というのか。
苦痛か。恐怖か。絶望か。
あるいは、死そのものか。
だが、その問いに答えられる者は誰もいなかった。
そして翌朝、死刑は執行された。
方式は、絞首刑。
冷たい空気の漂う執行室の中、《Torturer》は看守に支えられることなく、自らの意思で処刑台へ上がったという。
いや、それどころか、まるで待ち切れないと言わんばかりの足取りだった。
「最期に言い残すことはあるか」
執行官の問いに、男は静かに笑う。
そして。
「ありがとう」
その一言だけを残した。
次の瞬間、床板が外れる。
肉体が落下し、縄が首を締め上げ、骨の軋む鈍い音が執行室へ響いた。
――だというのに。
彼は笑っていた。
首を吊られ、生命を削られながらなお、その口元は歓喜に歪み続けていたのである。
「は、はは……ははははははッ――!!」
狂気じみた笑い声。
いや、それはもはや歓喜そのものだった。
その声は、意識を失う瞬間まで止まらなかった。
施設中に響き渡るほどに。
看守たちが凍り付き、執行官すら顔を青ざめさせるほどに。




