9 一閃
園芸部の作業を終えた頃には、校舎の影がずいぶん長くなっていた。
樹は水道でスコップについた土を洗い流し、園芸用具を倉庫へ戻してから、最後にもう一度だけ花壇を振り返った。夕方の光を受けたチューリップは、先ほど玲央と眺めていた時よりも少し色を深くして、風が吹くたび静かに花首を揺らしている。
今日はもう帰るだけだった。
鞄を肩へ掛け、いつものように昇降口へ向かおうとして——樹は、渡り廊下の途中で足を止めた。
ぱあん、と竹刀を打ち合う乾いた音がした。
少し遅れて、鋭い掛け声が聞こえる。
運動部の声があちこちから響く放課後の校内で、それでも樹がそちらへ目を向けたのは、つい先ほどまで花壇の前に置かれていた玲央の竹刀袋を思い出したからだった。
「……剣道場」
小さく呟く。
玲央はあの後、ちゃんと稽古へ行ったはずだ。
あの花壇だけが二人の間のささやかな接点で、それ以上に関わる筋合いもない。そう思っても、足はすぐには昇降口へ向かなかった。
また、竹刀のぶつかる音がする。
だいぶ遅刻したのだから、さんざん怒られて剣道場で正座させられたりしていないか、少しくらい様子を見ていってもいいかもしれない。そんな理由を後から思いついて、樹は鞄の肩紐を持ち直した。
剣道場は、体育館からさらに奥へ回ったところにある。
近づくにつれて、床を踏み込む重い音と掛け声がはっきり聞こえるようになった。開け放された入口からそっと覗くと、磨かれた板張りの床に何組もの部員が散らばり、防具姿で竹刀を打ち合わせている。
樹は中へ入らず、戸口の脇で立ち止まった。
玲央がどこにいるのか、最初は分からなかった。
皆が同じような剣道着と袴を身につけ、面で顔を覆っている。けれど視線を巡らせているうちに、一人の背の高い部員が目に入った。
分かったのは、たぶん姿勢のせいだった。
長い手足もそうだが、それ以上に、立ち方に見覚えがある。いつもなら花壇の前へ無造作にしゃがみ込み、土だらけの手で「これでいい?」などと聞いてくる男が、ここでは背筋を伸ばして竹刀を中段に構えていた。
対する相手も竹刀を構える。
二人とも動かない。
ほんの数秒、道場のそこだけ音が遠ざかったように思えた。
樹は無意識に、その足元を見ていた。
間合い。
重心。
剣先の揺れ。
相手の肩がごくわずかに動いた、その瞬間だった。
「メンッ!」
玲央が踏み込む。
床を打つ足音と、竹刀が防具を捉える乾いた音がほとんど同時に響いた。
速い。
樹の目がわずかに見開かれた。
いつもの玲央からは想像もつかない動きだった。
大柄な体格に頼った力任せの技ではない。相手へ踏み込む直前まで無駄な動きがなく、竹刀を振り抜いた後も気を緩めず、そのまま距離を取って振り返る。再び正面へ竹刀を構えた時には、さっきまで花壇で大騒ぎしていた人間の面影などどこにもなかった。
そしてもう一度、打ち合いが始まる。
暗器を扱う樹は、相手の呼吸を見ることも、重心の崩れを読むことも、攻撃へ移る直前の小さな動きを拾うことも、嫌というほど仕込まれてきた。
だから、分かってしまう。
玲央は強い。
しかも、かなり。
相手が一歩出れば、その一歩より先へ入る。竹刀が交差しても慌てず、押し合うこともない。隙を探しながら正面に立ち続け、機が来れば迷わず踏み込む。
その姿を、樹はじっと見ていた。
人を倒すための動きなら、これまでいくらでも見てきた。
殴る。刺す。斬る。撃つ。
相手より先に動き、相手がもう動けなくなるまで傷つける。それが樹の知っている戦いだった。
けれど、ここでは一撃が決まるたび、互いに距離を取り、また正面から向き合う。
終われば竹刀を下ろし、礼をする。
同じように人へ向けられる技なのに、樹の知っているものとはまるで違った。
玲央が再び構える。
面の奥にある表情までは見えない。
それなのに、不思議だった。
いつもよりずっと遠くにいるのに、花壇で話している時よりも、玲央という人間がはっきり見える気がした。
竹刀の先が揺れる。
踏み込む。
一閃。
樹は息をするのも忘れて、玲央を見つめていた。
見とれてしまう。
そんなことを思う自分に驚き、たちまち顔を赤くする。
慌てて周囲を見る。
さすがに口には出していなかったはずだ。幸い、剣道場を覗き込む一年生の姿には、誰も気づいていない。
「……何考えてるんだ、俺」
熱くなった頬を誤魔化すように眼鏡の位置を直した、その時だった。
稽古が一区切りついたらしい。
玲央が面を外した。
汗に濡れた黒髪が額へ張りつき、頬も普段より赤い。息を弾ませながら手ぬぐいで額を拭う姿には、つい数秒前まで感じていた鋭さが嘘のように消えている。
樹はなぜか、ほっとした。
やっぱり玲央だ。
そう思った直後、玲央がこちらを向いた。
「……あ」
目が合う。
玲央が一度、目を丸くした。
樹も固まった。
見つかった。
別に悪いことをしていたわけではないのに、なぜか咄嗟に逃げたくなる。
けれど樹が動くより早く、玲央の顔がぱっと明るくなった。声こそ出さなかったものの、明らかに嬉しそうに笑って、大きく手を振る。
さっきまで竹刀を構えていた凛々しい剣士の姿は、一瞬でどこかへ行ってしまった。
樹はしばらくその顔を見つめ、それから小さく息を吐いた。
なんだ。
いつもの玲央先輩だ。
けれど胸の奥では、先ほど見た一閃がまだ消えていなかった。
玲央が部員へ何か断り、こちらへ来ようとする気配を見せたので、樹は慌てて片手を上げて制した。
口の動きだけで「頑張ってください」と伝える。
通じたのか、玲央が大きく頷いた。
その笑顔を見届けて、樹は踵を返した。
廊下を歩き始めても、竹刀の音は背後から追いかけてくる。
つい先ほどまで、自分が玲央の稽古を見に行くなど想像もしていなかった。
花壇へ来るのは、いつも玲央だった。土に触れ、花の話を聞き、樹がいる場所へ勝手に入り込んでくるのも玲央だった。
けれど今日は、自分から玲央のいる場所へ来た。
そのことに気づいた途端、自分はどうしてしまったんだろうと胸の内側がむず痒くなる。
「……ちょっと見にきただけだし」
昇降口へ向かう途中の誰も聞いていない廊下で、小さく言い訳をした。
でも明日からは、帰り道に少しくらい剣道場へ立ち寄っても、たぶん誰も咎めたりはしないだろう。そう思った理由については、まだ考えないことにした。
その時、スマートフォンが振動した。
征士郎からのメッセージだった。
「……あ」
今夜は天城連合の新総裁の襲名披露に出席することになっている。帰宅したら支度をするようにとの連絡を読み、樹はわずかに表情を固くした。
ついさっきまで聞こえていた竹刀の音が、急に遠く感じられた。




