10 運命の宴
湾岸にほど近い一角に、その夜だけは別世界のような灯りが浮かんでいた。
天城連合の迎賓館。
普段は外部の者が容易に足を踏み入れることのできないその建物へ、夕刻を過ぎた頃から黒塗りの車が途切れることなく滑り込んでくる。長い車列は正面玄関へ吸い込まれ、重い扉が開くたびに、各地から集まった直参組織の幹部や若頭、その随行員たちが姿を現した。
その日の昼に天城連合の本部では、厳粛な襲名の儀式が執り行われた。そして今夜、ここ天城の迎賓館では、新総裁への代替わりを内外へ示す襲名披露の祝宴が始まろうとしていた。
新総裁、東堂蓮司。
まだ三十にも届かない若さで連合の頂点へ上り詰めた男を祝うため、裏社会に名を持つ者たちが一堂に会していた。
迎賓館の内部には低くクラシック音楽が流れ、吹き抜けになった大広間では、幾重にも垂れ下がる巨大なシャンデリアが琥珀色の光を振りまいている。
華やかな宴である。だが、グラスが触れ合う涼やかな音の下では、どこが勢力を伸ばしたのか、誰が次の代で上へ行くのかといった思惑が、笑顔の裏で絶えず交わされていた。
「九条会、ご到着です」
入口近くで声が上がった。
ざわめきが、ごくわずかに形を変える。
最初に現れたのは九条雅臣だった。
黒の三つ揃いを隙なく着こなし、その横には黒留袖の環が並ぶ。二人の後ろへ樹と征士郎が続き、さらに数名の九条会構成員が一定の距離を置いて従った。
男たちは全員、黒。
ジャケットも、ベストも、ネクタイも、靴も。
祝宴という場においてさえ一切色を入れないその姿は、まるで喪服の一団が宴席へ迷い込んだようにも見えた。
「九条だ」
「相変わらずだな、あいつら……」
「あれが会長の倅か?」
「横のでかいのが若頭だろ。まだ高校生だって話だぞ」
声を潜めた囁きが、彼らの通った後ろへ残っていく。
樹はそれを無表情に聞き流した。
こういう視線には慣れている。九条会が嫌われていることも、恐れられていることも知っていた。
ただ学校にいる時とは違い、今日は顔を隠す必要がない。長く下ろしていた前髪は後ろへ流し、眼鏡も外している。細い鼻梁も、母譲りの整った輪郭も、光の下へすべて晒されていた。
「樹、大丈夫か」
隣を歩く征士郎が、ごく小さく呼ぶ。
「うん。平気」
樹がそう答えると、征士郎はそれ以上何も言わなかった。
大広間の奥では、東堂蓮司が次々と挨拶を受けていた。
雅臣が足を止め、環もそれに倣う。
「行くぞ」
低い声に、樹たちも背筋を伸ばした。
人垣を割るようにして前へ進むと、やがて蓮司がこちらへ顔を向けた。
第一印象だけなら、意外なほど柔和な男だった。
仕立てのよい濃紺のスーツを着て、髪は端正に撫でつけられている。口元には薄い笑みがあり、声も穏やかだった。街ですれ違えば、若手企業経営者か、育ちのいい政治家の秘書だと言われても違和感はないだろう。
ただその目だけが、異様だった。
人を見ているようで、見ていない。
笑みを浮かべていても、その奥には温度がなく、光の加減によっては爬虫類の瞳のような得体のしれない冷たさが見えた。
何を考えているのか分からない——というより、そもそも自分たちとは違う原理で物事を見ている。
そんな、生理的な隔たりを感じさせる目だった。
「東堂さん。このたびは、誠におめでとうございます」
雅臣が丁重に頭を下げる。
環も、征士郎も、樹も続いた。
「ありがとうございます、九条会長」
蓮司は穏やかに応じた。
「こうして皆さんに足を運んでいただけると、さすがに身の引き締まる思いがします」
「東堂さんほどの方でしたら、我々が申し上げるまでもないことでしょう。今後の天城連合を背負うお姿、我々も楽しみにしております」
「それは責任重大ですね」
蓮司は小さく笑った。雅臣も笑みを返す。
けれど、その場にある笑みのどれもが、樹にはごく上辺だけのものに見えた。
環も同じなのだろう。口元には会長夫人として申し分のない微笑を浮かべているものの、帯の前で重ねた指先にはわずかに力が入っている。
談笑する蓮司の視線が、樹へ移った。
途端、樹の背中に冷たいものが走る。
「君が、樹くんですか」
「……はい」
「噂は聞いていますよ」
蓮司はほんの少し首を傾け、樹を眺めた。
顔。
肩。
手。
視線がゆっくりと動く。
それは人を見るというより、出来のいい調度品を品定めするような目だった。
「お母上によく似ていますね。随分と綺麗な顔だ」
環の笑みが、一瞬だけ硬くなった。
樹は表情を崩さないまま答える。
「ありがとうございます」
「しかも、若いのに腕も立つとか。暗器を使わせれば、もう大人でも敵わないと聞きました」
蓮司が微笑む。
「将来が楽しみですね」
喉の奥が乾いた。
褒められているだけだ、言葉だけを取れば。それでも、自分の値段を勝手に決められているようで、樹は笑えなかった。
樹は得体のしれない怖気を覚えながら、静かに頭を下げた。
「……恐縮です」
「まだまだ未熟者です」
雅臣がすぐに言葉を差し込んだ。
「父親としても、もう少し鍛えてやらねばと思っています」
「九条会長は厳しい」
蓮司が愉快そうに笑う。
「けれど、原石は早いうちから磨いた方がいい。そういうものですよね」
「仰る通りです」
雅臣は一片の乱れもなく答えた。
樹は黙っていた。
原石。
磨く。
まるで自分が、何かの道具にでもなったようだった。もっとも、それは今に始まったことではない。
やがて挨拶を終えると、雅臣と環はすぐに別の幹部たちから声をかけられた。
「九条会長、少々よろしいですか」
「姐さん、ご無沙汰しております」
組同士の力関係、天城連合の今後、代替わり後の配置。話すことはいくらでもあるらしい。
樹と征士郎は自然にその輪から外れ、少し離れた柱のそばへ移った。
「すごい人だな、東堂さん」
征士郎が珍しく年相応に、遠くの蓮司へ憧れの混じった視線を向ける。
「若いのに、完全に場を握ってる。あれだけの連中に囲まれても一歩も引かない」
「……うん」
「樹のことも覚えてたな。よかったじゃないか」
黙ったままの樹をいぶかって、征士郎は隣を見る。
「どうした?」
樹は少しだけ視線を落とした。
「……苦手だ」
「東堂さんが?」
「理由は分からないけど」
言葉を選ぶ。
「見られてると、なんだか……皮膚の内側まで覗かれてるみたいで」
征士郎はしばらく黙り、もう一度蓮司の姿を見た。
「有能な人間は、人を見る目も鋭いんだろ」
「そういうのとは、少し違う気がする」
樹はグラスを手にしたまま、小さく息を吐く。
征士郎は何も言わず、たださりげなく、半歩だけ樹の近くへ立った。
+ + +
その頃。
迎賓館の正面へ、もう一台の黒塗りの車が滑り込んでいた。
「うっわー」
車から降りるなり、真樹が首を反らした。
「でっか。何ここ、ホテル?」
「天城の迎賓館だ」
「蒼介さん、それさっき聞いた」
「じゃあ同じことを聞くな」
「今日の蒼介さん、いつもより三割くらい怖いな……」
蒼介は答えず、玲央のネクタイへ目をやった。
「若。少し曲がってます。直しますからじっとしていてください」
「自分でやるって」
「やれてないから言ってるんです」
「母ちゃんかよ」
蒼介が無言で玲央のネクタイを整える横で、真樹は自分のスーツの袖を落ち着かなげに引っ張っていた。
「俺、この格好似合ってる? なんか急に親戚の結婚式へ連れてこられた中学生みたいになってねえ?」
「むしろ七五三だろ」
「玲央、それ褒めてないよな?」
「うん、褒めてない」
「ひどっ」
玲央も今日はフォーマルなスーツに濃色のネクタイ姿だ。普段の剣道着や制服と違ってどうにも肩がこるらしく、さっきから何度も襟元を引っ張っていた。
「真樹も、中で『すげー』とか『でけー』とか大声で言うなよ」
蒼介が横目で真樹を見る。
「分かってますって。俺だって空気くらい読むし」
「それが一番信用できないんだ」
「ひどくね?」
口をとがらせる真樹に、玲央が笑った。
そんな応酬を小声で続けながら、三人は会場の入口へ向かった。随行の組員たちが後ろへ続く。
「若」
蒼介が低く呼ぶ。
「中へ入ったら、もう少ししゃんとしてください。最初に東堂さんへご挨拶して、その後、各直系の親分衆へ順番に——」
「覚えてるって。細かいなあ」
「会場に入れば、若も黒崎の倅として見られるんです。少なくとも、黒崎組が笑われるような真似だけはしないでください」
蒼介の声が少しだけ固くなる。
「分かったよ」
玲央はため息をついた。
正直、気が重い。
普段なら修吾や蒼介に任せるような場面だ。自分が組の看板を背負って出ることなど、これまでなかった。
それでも。
入口の向こうへ目をやり、玲央は一度だけ深く息を吸った。
「……じゃ、行くか」
その瞬間、姿勢が変わった。
さっきまで襟元をいじりながら面倒くさそうにしていた少年が、背筋を伸ばす。
肩の力は抜け、足取りには迷いがない。
浅黒い肌と伸びやかな身体は、ますます父親に似て見えた。
蒼介はその横顔を眺めながら、小さく息を呑む。
扉が開く。
館内から、クラシック音楽と人々のざわめきが流れ出した。
「黒崎組、ご到着!」
口上が響く。
玲央は一瞬だけ目を細めた。
そして堂々と、宴の中へ足を踏み入れる。
いくつもの視線がこちらを向く。
直参組織の幹部たち。
若頭。
重鎮。
見知らぬ顔ばかりだった。
玲央は蒼介から教え込まれた通り、まず広間の奥へ視線を向けようとして——
途中で、止まった。
人の波の向こう。
シャンデリアの光が降り注ぐ柱のそばに、黒い三つ揃いの男が二人立っている。
一人は、背が高く、がっしりとした体格の青年。
その隣に、細身の身体を、同じ黒の三つ揃いに包んだ少年。
眼鏡を外し、いつも重たく額へ落としていた前髪も、今夜は綺麗に上げられている。
だから、隠れていた顔が、すべて見えた。
白い頬。
細い輪郭。
そして。
玲央が何度もあの花壇で覗き込んだ、澄んだ、静かな瞳。
「……え」
玲央の足が止まる。
そこにいたのは、九条会の黒い正装に身を包んだ——
樹だった。




