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11 仇敵

 ——黒崎組、ご到着。


 確かに、そう聞こえた。

 樹はその言葉の意味を理解できないまま、広間の入口へ目を向けていた。


 普段とは違うダークスーツに身を包み、いつもより少しだけ緊張した面持ちで立っている青年。それでも日焼けしたその顔は、見間違えようもない。樹が何度も花壇の脇で見た、その人だった。


 つい数時間前にも、会っていた。

 チューリップの前で、くだらないことで笑った。


『またな、樹』


 そう言って、手を振って走っていった。

 なのに今、その人は——黒崎組の名とともに、この場へ足を踏み入れている。


 頭の中で、何かが噛み合わない。

 いや、噛み合わせてはいけないと、脳のどこかが必死に拒んでいる。


 黒崎。

 それは、父や組員たちが苛立ちと憎悪を込めて口にしてきた、敵だと教えられてきた相手の名だった。その名と、今日も花壇で笑っていた玲央の顔が、どうしてもひとつにならない。


「……嘘」


 小さく声が漏れた。

 隣にいた征士郎が、怪訝そうに樹を見る。


「樹?」


 返事はできなかった。

 樹の視線は、玲央から動かなかった。


 + + +


 玲央もまた、動けずにいた。


 目の前にいる少年は、いつもとはまるで違っていた。

 厚く下ろしていた前髪はきれいに上げられ、眼鏡もない。花壇で断片的にしか見えなかった顔が、シャンデリアの光の下へすべて晒されている。


 思っていたよりずっと綺麗だった。いや、そんなことはどうでもいい。問題は、その格好だった。


 黒の三つ揃い。

 しかも隣には、見るからに尋常ではない男が立っている。

 大柄で、肩幅が広く、同じ黒の正装。玲央が会場に入った瞬間から、こちらを刺すような目で見ている。

 そして周囲の男たちが、樹たちに向ける視線。あれは単なる高校生の一般人を見る目ではない。

 玲央の胸の奥で、嫌な予感が形を取り始める。


「……樹?」


 思わず名前が口からこぼれた。声は会場のざわめきに紛れたはずなのに、樹は何かに引き寄せられるように、征士郎の隣から一歩踏み出した。

 玲央も、そこから目を逸らせなかった。


 足元がおぼつかない。まるで夢の中を歩いているように、ゆっくりと玲央のほうへ近づいてくる。

 玲央も、動けなかった。


 周囲のざわめきが遠くなる。

 クラシックの旋律も、グラスの触れ合う音も、どこか別の場所で鳴っているようだった。

 樹が、玲央のすぐ前まで来る。


「……どうして?」


 樹の声が震えていた。

 学校ではいつも、穏やかで、どこか淡々としていた声。それが今は、細く掠れている。


「いま……黒崎って」


 樹は玲央の顔を見上げた。


「先輩、名前は……玲央、ですよね」


「……ああ」


 それしか返せなかった。

 樹は何かを確かめるように、玲央の顔をじっと見つめる。


「黒崎……玲央?」


 玲央の胸の奥が、重く沈んだ。


「そうだ」


 答えるしかなかった。

 そして今度は、玲央が問う番だった。


「お前こそ……樹、その格好、まさか」


 言葉が続かない。

 聞きたくない。でも、もう分かっている。

 その時だった。


「おい、黒崎のもんがうちの『お嬢』に何の用だ!」


 怒号が、広間を切り裂いた。


 征士郎だった。


 血相を変え、樹と玲央の間へ割って入る。

 大きな身体で樹を庇うように立ち、玲央を真正面から睨みつける。その目には、隠す気もない敵意が満ちていた。


「征士郎!」


 樹が小さく叫ぶ。

 玲央は、まだ状況を理解しきれないまま立ち尽くしていた。だが、その前へ今度は蒼介が出る。


 何も言わず、ただ一歩。

 玲央と征士郎の間へ、静かに身体を滑り込ませる。

 細身の長身が、わずかに重心を落とした。

 それだけで、空気が変わった。

 蒼介の目は冷えている。征士郎も、それに気づいた。


 二人の視線が正面からぶつかる。

 周囲のざわめきが、さらに広がった。


「九条の若頭だ」


「黒崎の若頭まで出たぞ」


「おい、ここでやる気じゃねえだろうな」


 誰かが囁く。

 近くにいた組員たちも、いつでも動けるように足を止めている。


 樹の喉が詰まった。

 このままではまずい。

 こんな場所で。こんな形で。


「征士郎、やめて」


 樹は必死に声を出したが、征士郎は振り向かない。


「樹、下がってろ」


 樹は征士郎の袖を強く握り締める。


「話しかけに行ったのは俺の方だから」


 今はただ、玲央に敵意が向くのを止めたかった。


「俺が悪い。……だから、やめて」


 征士郎の顔に驚きが走り、樹の方へと振り返る。樹がここまで必死に誰かを庇うことなど、ほとんどない。ましてや、黒崎の人間を。


 征士郎は数秒、何も言わなかった。

 自分のスーツの袖を必死に掴む樹の指を見て、ほんのわずかに表情を緩める。

 それでも玲央へ向き直った時には、目はまた冷たくなっていた。


「……『お嬢』に近づいたら、どうなるか分かってんだろうな?」


 ドスの効いた声だった。

 玲央が眉を寄せる。

 征士郎は一歩だけ近づき、吐き捨てるように続けた。


「なあ、おい。黒崎の若さんよ」


 その瞬間、蒼介の顔色が変わった。


「貴様——」


 前へ出ようとした身体を、玲央が咄嗟に腕で制した。


「蒼介」


 短く呼ぶと、蒼介は目線だけ玲央に向ける。


「しかし、若」


「いい」


 玲央自身、何が「いい」のか分からなかった。

 ただ、ここで揉めるわけにはいかない。それだけは分かる。

 征士郎はもう玲央を見なかった。


「行くぞ、樹」


「……うん」


 樹は玲央を見た。

 ほんの一瞬、何か言いたそうに唇が動いたまま、声にはならなかった。

 そのまま征士郎に促され、会場の隅へ向かって歩み去っていく。


 玲央は、その背中を追うことができなかった。

 ただ立ち尽くし、遠ざかる黒い背中を見送る。


 花壇で柔らかく笑っていた少年。

 淡い紫のチューリップを眺めながら、毒があると教えてくれた少年。

 その少年が今、九条会の黒い正装に身を包み、周囲の男たちから畏れるように「お嬢」と呼ばれている。


 胸の奥が激しくざわついて、意味が分からない。分かりたくない。


 だが、周囲の視線は容赦がなかった。

 黒崎の倅と九条会長の息子が、知り合いのように言葉を交わしていた。

 その事実だけで、会場中の空気が張り詰めたものに変わっている。

 真樹だけが、完全に状況についていけず、玲央と樹の消えた方向を交互に見ていた。


「……なにこれ」


 誰も答えなかった。


 + + +


「……若」


 しばらくして、蒼介が言った。

 玲央は嫌な予感がして、蒼介の方を向く。


「一体、どういうことですか」


 地の底から響くような声だった。


「いや、その……」


「いつ知り合ったんです」


 蒼介が一歩近づく。

 真樹もさすがに神妙な顔で黙っている。


「学校で会っただけだって」


 玲央は目を逸らした。


「花壇でちょっと話しただけなんだよ」


「花壇?」


 蒼介の眉間に深い皺が刻まれる。

 玲央は説明すればするほど妙なことになっている気がした。


「園芸部なんだよ、あいつ。そこで何度か——」


 蒼介の手が、玲央の肩を掴んだ。護衛としての節度を越えた強さに玲央が目を見開くと、蒼介もすぐに我に返ったように指をわずかに緩めたが、真剣な表情は崩さなかった。


「いいですか、若」


 蒼介は玲央の目を正面から見た。


「あれは黒崎の仇敵、九条会。その会長の実子です」


 玲央の喉が鳴った。


「九条……」


「九条樹」


 蒼介ははっきりと言った。


「九条会の者が『お嬢』と呼ぶ、あの九条樹です」


 数日前の会話が甦る。


『九条には、今「お嬢」と「狂犬」って呼ばれてる二人がいる』


 玲央はその時、半分笑いながら聞いていた。

 男なのにお嬢。

 暗器を使う、妙な会長の息子。


 自分とは関係のない話だと思っていた。

 それが。


「……あいつが?」


「そうです」


 玲央は答えられなかった。


 放課後に見た樹の笑顔と、蒼介の言葉がどうしても重ならなかった。


 + + +


 一方、会場の反対側。

 征士郎は人目の少ない壁際まで樹を連れていくと、ようやく足を止めた。


「樹」


 低い声。

 樹は目を伏せた。


「いつ、どこであいつと接触した」


「……学校」


「何で」


「たまたまだよ」


「たまたま?」


「園芸部の花壇で、向こうから話しかけられて。……それだけ」


「それだけの関係で、あんな顔するのか」


 樹が黙る。

 征士郎は、その沈黙に一度だけ強く息を吐いた。ずっと守ってきたはずの樹が黒崎と接触していたことに、混乱がにじむような荒い呼吸だった。


「樹」


「本当に、知らなかったんだ」


 樹はようやく顔を上げた。


「名前も、玲央としか聞いてなかったし。黒崎だなんて、一度も」


 声は静かだった。けれど、いつもの落ち着きはない。


「ただ偶然会って、花壇で少し話して……ほんとに、知らなかったんだ」


 征士郎はしばらく樹を見ていた。

 やがて、言い聞かせるようにその手首を掴む。


「やつは黒崎玲央だ」


 樹の指先が強張る。


「黒崎組組長、黒崎修吾の息子。俺らの天敵だ」


「……」


「分かってるな」


 分かっている。

 そう答えなければならない。


 九条と黒崎。

 敵同士。

 そんなことは、幼い頃から教え込まれてきた。

 なのに頭に浮かぶのは、花壇で笑う玲央ばかりだった。


『樹、これ水やりすぎかな?』


『綺麗だなあ』


 樹は目を伏せたまま、小さくつぶやく。


「……分かってる」


 + + +


「若」


 蒼介の手は、玲央の肩に置かれたままだった。先ほどより力は抜けて、今度は玲央を守ろうとする重さがあった。

 玲央は遠く、人混みの向こうを見た。樹の姿はもう見えない。


「……あの少年は、九条の人間です」


 蒼介が静かに言う。

 同じ頃、征士郎も、樹の手首を掴んだまま低く告げていた。


「忘れるなよ。あいつは黒崎だ」


 玲央は唇を噛む。

 樹は何も言わず、視線を落とす。

 そして。

 二つの場所で二人の男が、まるで示し合わせたように同じ言葉を口にした。


「……絶対、あいつには近づくな」


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