↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/17

12 花の終わり

【原作『ロミオとジュリエット』第二幕】


舞踏会の夜、ロミオはキャピュレット家の庭に忍び込み、バルコニーに姿を現したジュリエットと互いの愛を確かめ合う。敵対する家の名を越えて結ばれることを誓った二人は、ロレンス修道士の助けを借り、家族には秘密のまま結婚する。


 襲名披露の夜から、数日が過ぎた。


 聖ゼノ学園の放課後は、一見何も変わることなく過ぎていく。

 教室では生徒たちが笑い、廊下を運動部が走り抜け、遠くでは吹奏楽部の音が風に乗って途切れ途切れに聞こえてくる。聖堂の鐘もいつもと同じ時刻に鳴り、春の陽は校舎の壁を斜めに撫でながら、ゆっくりと西へ傾いていた。


 樹はひとり、校舎裏の花壇にしゃがみ込んでいた。


 咲き誇っていたチューリップは、もう盛りを越え始めている。

 花弁の縁は褪せ、何輪かは首を傾けるように萎れていた。少し前まで玲央と並んで眺めた淡い紫の花も、今では花弁の一枚を落として、土の上に薄い影を作っている。


 樹は考えないために、花がらを摘んでいた。指先で茎を支え、萎れた部分を丁寧に取り除く。花が終わっても、葉まで切り落としてはいけない。残った葉が陽を受け、作り出した養分を地中の球根に蓄え、来年のための養分に変えるからだ。


 そんなことを、少し前に玲央へ説明した。


『また来年植えんの?』

『はい。秋になったら』


 思い出しかけて、樹は指先へ力を込めた。


 考えるな。

 あの夜で終わったのだ。


 黒崎玲央。

 黒崎組組長の息子。


 本来なら、自分と学校で笑い合っていていい相手ではなかった。


 もう来るはずがない。

 来ない方がいい。

 そう何度も胸の中で言い聞かせながら、それでも放課後になると、樹は以前と同じ時間に花壇へ来ていた。


 自分でも馬鹿だと思う。

 数日前までなら、背後から急に声が降ってきた。


 ——何してんだ。

 ——今日も咲いてるな。

 ——水やり、俺やろうか。


 そんな声はもう二度と聞けないと自分の胸に刻むために、ここへ来ているような気さえした。


 春の風が吹いて、樹の前髪が揺れる。

 その時だった。


 花壇の土へ、大きな影が落ちた。

 樹の手が止まり、心臓が大きな音を立てた。

 まさか。

 そう思うより先に、身体が振り返っていた。


 そこに、玲央が立っていた。


「……」


 樹は息を呑んだ。

 いつもの制服姿で、竹刀袋を肩に掛けていて、一見何もかも、あの夜以前と同じ。


 しかし、いつもなら樹を見つけた途端に明るくなる瞳が、今日はひどく迷っている。声を掛けるべきか、帰るべきか、本人にも決めきれないままここまで来てしまったような顔だった。


「……よう」


 玲央が、ぎこちなく片手を上げた。


 樹はしばらく玲央を見上げていた。


 来た。

 彼を目の前にすると、自分が思っている以上に待ち望んでいたことが分かってしまった。


 会いたかった。ほんの少しでも、もう一度だけでも。


 その感情を土の中へ無理やり埋めるように、樹は胸元にぎゅっと手を当てた。


「……また来たんですか」


 どうにか出した声は、思ったよりは平静だった。


「うん」


 玲央はそれだけ答え、しばらく立ったまま樹を見ていた。


 いつものように勝手に隣へしゃがみ込むことはせず、少し離れた位置から樹を見つめている。

 その距離が、かえって苦しい。


 樹は視線を花壇へ戻した。


「もう、ここには来ない方がいいですよ」


 玲央がわずかに眉を動かした。

 樹は枯れた花弁を拾い上げながら、淡々と続けた。


「……聞いたでしょう。俺は九条の人間です。九条雅臣の息子で、九条会の一員。先輩が黒崎組組長の息子なら……俺たちは、敵同士です」


 言葉にすれば、ひどく簡単だった。

 たったそれだけのこと。


 最初から名字を知っていれば、花壇で二人並んで土を触ることなどなかった。


 玲央が眉を寄せる。


「それ、本気で言ってんの?」


「本気です」


「じゃあ、今まで花壇で話してたことも、全部なかったことにすんのかよ」


 樹は答えなかった。


「花が咲いた時、お前笑ってただろ」


「……」


「俺が球根食うと思って笑ってた。あんな楽しそうに」


 樹は顔を上げる。

 玲央はまっすぐにこちらを見ていた。


「俺、あのパーティでお前見た時、びっくりした」


 玲央は言葉を探すように、一度視線を逸らした。それからもう一度、樹を見る。


「なんか……別人みたいだった」


 樹の手がわずかに強張る。


「髪上げて、眼鏡外して、あんな黒いスーツ着てさ。綺麗とかそういうのは置いといて……なんつーか、あそこにいたお前、ずっと息止めてるみたいだった」


「……」


「ここで花見てる時と全然違った」


 玲央は一歩、近づいた。


「俺には、こないだここで笑ってたお前の方が、本当のお前に見える」


 玲央はそこで一度、言葉を切った。いつものように、思いついたことを勢いのまま口に出すことはせず、精一杯言葉を選ぼうとしている顔だった。


「……正直、びっくりしてる。頭の中で、まだうまく繋がってない」


 樹の指が、土の上で止まる。


「でも、花壇で土いじって、球根の話して、俺が変なこと言って笑ってたお前まで全部嘘だなんて、俺には信じられねえ」


 樹は顔を上げなかった。


 やめてほしい。

 そんなふうに言われたくない。

 自分でも見ないようにしてきた場所を、何も知らないくせに勝手に覗き込んでくる。


「家同士が仲悪いからって、それがそんなに駄目なことか?」


 玲央は続ける。


「お前はお前だろ。俺は別に九条会の『お嬢』と話してたんじゃねえ。樹と話してたんだ」


「……やめてください」


「俺んちだって九条を嫌ってる。でも、それとお前は別じゃねえの?」


「やめてください」


「俺は——」


「俺はお前とは違う!」


 声が、弾けた。


 樹は思わず立ち上がっていた。

 玲央が息を止める。

 樹自身も驚いていた。


 敬語が消えていた。


 いつもなら無意識に挟んでいる薄い壁が、感情に押し破られている。

 けれど、もう戻せなかった。


「何も知らないくせに、簡単に言うなよ」


 喉がひりつく。

 それでも言葉が止まらない。


「家同士が仲悪いだけとか、俺たちには関係ないなんて……そんな綺麗な話じゃないんだよ」


「樹」


「俺はもう、黒崎の人間を何人も手にかけてる」


 玲央の顔から、表情が消えた。

 そんな顔を見たくなかったのに、言わないわけにいかなかった。


「この間だってそうだ」


 声が震える。


「湾岸で、お前のところの人間に毒針を突き刺した。何人も倒した。あれだけじゃない。今までだって、父さんに言われて何度も——」


「……」


「——死んだやつだっている」


 玲央は何も言わない。

 それが何より痛かった。


「ほら、結局そういう顔するんだろ」


 皮肉めいた笑いが、口元を歪める。


「いや、俺は——」


「お前がよくても!」


 また声が跳ねた。


 遠くで部活動をしていた誰かが振り向いたような気がしたけれど、もうどうでもよかった。


「お前が俺を許すって言っても、黒崎の家のやつらはどうなんだよ。俺が殺した人間の仲間は? 家族は? みんな、俺のことを敵だって言ってるんだろ?」


「……」


「俺のところだって同じだ。征士郎も、父さんも、組の連中も、お前を黒崎の息子としてしか見ない! 俺だけ『玲央は違う』なんて言ったって、それで……それでっ、何が変わるんだよ!!」


 言い終えた樹は、肩で息をしていた。

 最後の方は、ほとんど叫びだった。


 玲央は何も言い返さなかった。言葉を失ったというより、今ここで自分の気持ちをぶつけても、樹を動かせないと悟ったような顔に見えた。


 それでいい。これで終わる。

 終わらせなければいけない。


「……だから」


 今度の声は、ひどく静かだった。


 玲央を見上げる。

 あの明るい目が、今は困ったように、苦しそうに揺れている。


 数日前までなら、それを見るだけで少し心が温かくなった。


 だからこそ、もう見てはいけない。


「さよなら」


 玲央の目が見開かれた。


「樹」


 呼ばれた声の切実さに、足が止まりそうになる。

 それでも樹は振り返らなかった。


 園芸用の手袋を外し、道具を手早くまとめると、そのまま校舎へ向かって歩き出す。


「樹!」


 もう一度、声が追ってきた。

 返事をしない。

 前だけを見る。


 一歩。


 また一歩。


 胸の奥が、ぎりぎりと枷をはめられているように痛んだ。

 だけど、何でもないかのように顔を上げる。

 痛いなら痛くないふりをする。欲しいものが手に入らないなら、最初から欲しくなかったことにする。樹は昔から、そうしてきた。


 校舎裏を立ち去るまで、樹は一度も振り返らなかった。


 + + +


 あとに残された玲央は、しばらくその場から動けなかった。


 追いかけたとして、何を言っても届かない気がした。


 自分は抗争に出ない。

 父親もそれを望んでいない。

 だから、九条という名前も、血の臭いも、自分の日常からは少し離れたところにあった。


 その九条が、樹だった。


「……何だよ、それ」


 玲央は小さく呟いた。


 風が吹き、花壇の隅で、盛りを過ぎたチューリップが揺れる。

 一枚、薄い花弁が外れた。


 乾き始めた花弁は、地面へ落ちる途中でかすかに擦れ、かさり、と頼りない音を立てた。


 玲央は何も言わず、いつまでもその花壇の前に立っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。