12 花の終わり
【原作『ロミオとジュリエット』第二幕】
舞踏会の夜、ロミオはキャピュレット家の庭に忍び込み、バルコニーに姿を現したジュリエットと互いの愛を確かめ合う。敵対する家の名を越えて結ばれることを誓った二人は、ロレンス修道士の助けを借り、家族には秘密のまま結婚する。
襲名披露の夜から、数日が過ぎた。
聖ゼノ学園の放課後は、一見何も変わることなく過ぎていく。
教室では生徒たちが笑い、廊下を運動部が走り抜け、遠くでは吹奏楽部の音が風に乗って途切れ途切れに聞こえてくる。聖堂の鐘もいつもと同じ時刻に鳴り、春の陽は校舎の壁を斜めに撫でながら、ゆっくりと西へ傾いていた。
樹はひとり、校舎裏の花壇にしゃがみ込んでいた。
咲き誇っていたチューリップは、もう盛りを越え始めている。
花弁の縁は褪せ、何輪かは首を傾けるように萎れていた。少し前まで玲央と並んで眺めた淡い紫の花も、今では花弁の一枚を落として、土の上に薄い影を作っている。
樹は考えないために、花がらを摘んでいた。指先で茎を支え、萎れた部分を丁寧に取り除く。花が終わっても、葉まで切り落としてはいけない。残った葉が陽を受け、作り出した養分を地中の球根に蓄え、来年のための養分に変えるからだ。
そんなことを、少し前に玲央へ説明した。
『また来年植えんの?』
『はい。秋になったら』
思い出しかけて、樹は指先へ力を込めた。
考えるな。
あの夜で終わったのだ。
黒崎玲央。
黒崎組組長の息子。
本来なら、自分と学校で笑い合っていていい相手ではなかった。
もう来るはずがない。
来ない方がいい。
そう何度も胸の中で言い聞かせながら、それでも放課後になると、樹は以前と同じ時間に花壇へ来ていた。
自分でも馬鹿だと思う。
数日前までなら、背後から急に声が降ってきた。
——何してんだ。
——今日も咲いてるな。
——水やり、俺やろうか。
そんな声はもう二度と聞けないと自分の胸に刻むために、ここへ来ているような気さえした。
春の風が吹いて、樹の前髪が揺れる。
その時だった。
花壇の土へ、大きな影が落ちた。
樹の手が止まり、心臓が大きな音を立てた。
まさか。
そう思うより先に、身体が振り返っていた。
そこに、玲央が立っていた。
「……」
樹は息を呑んだ。
いつもの制服姿で、竹刀袋を肩に掛けていて、一見何もかも、あの夜以前と同じ。
しかし、いつもなら樹を見つけた途端に明るくなる瞳が、今日はひどく迷っている。声を掛けるべきか、帰るべきか、本人にも決めきれないままここまで来てしまったような顔だった。
「……よう」
玲央が、ぎこちなく片手を上げた。
樹はしばらく玲央を見上げていた。
来た。
彼を目の前にすると、自分が思っている以上に待ち望んでいたことが分かってしまった。
会いたかった。ほんの少しでも、もう一度だけでも。
その感情を土の中へ無理やり埋めるように、樹は胸元にぎゅっと手を当てた。
「……また来たんですか」
どうにか出した声は、思ったよりは平静だった。
「うん」
玲央はそれだけ答え、しばらく立ったまま樹を見ていた。
いつものように勝手に隣へしゃがみ込むことはせず、少し離れた位置から樹を見つめている。
その距離が、かえって苦しい。
樹は視線を花壇へ戻した。
「もう、ここには来ない方がいいですよ」
玲央がわずかに眉を動かした。
樹は枯れた花弁を拾い上げながら、淡々と続けた。
「……聞いたでしょう。俺は九条の人間です。九条雅臣の息子で、九条会の一員。先輩が黒崎組組長の息子なら……俺たちは、敵同士です」
言葉にすれば、ひどく簡単だった。
たったそれだけのこと。
最初から名字を知っていれば、花壇で二人並んで土を触ることなどなかった。
玲央が眉を寄せる。
「それ、本気で言ってんの?」
「本気です」
「じゃあ、今まで花壇で話してたことも、全部なかったことにすんのかよ」
樹は答えなかった。
「花が咲いた時、お前笑ってただろ」
「……」
「俺が球根食うと思って笑ってた。あんな楽しそうに」
樹は顔を上げる。
玲央はまっすぐにこちらを見ていた。
「俺、あのパーティでお前見た時、びっくりした」
玲央は言葉を探すように、一度視線を逸らした。それからもう一度、樹を見る。
「なんか……別人みたいだった」
樹の手がわずかに強張る。
「髪上げて、眼鏡外して、あんな黒いスーツ着てさ。綺麗とかそういうのは置いといて……なんつーか、あそこにいたお前、ずっと息止めてるみたいだった」
「……」
「ここで花見てる時と全然違った」
玲央は一歩、近づいた。
「俺には、こないだここで笑ってたお前の方が、本当のお前に見える」
玲央はそこで一度、言葉を切った。いつものように、思いついたことを勢いのまま口に出すことはせず、精一杯言葉を選ぼうとしている顔だった。
「……正直、びっくりしてる。頭の中で、まだうまく繋がってない」
樹の指が、土の上で止まる。
「でも、花壇で土いじって、球根の話して、俺が変なこと言って笑ってたお前まで全部嘘だなんて、俺には信じられねえ」
樹は顔を上げなかった。
やめてほしい。
そんなふうに言われたくない。
自分でも見ないようにしてきた場所を、何も知らないくせに勝手に覗き込んでくる。
「家同士が仲悪いからって、それがそんなに駄目なことか?」
玲央は続ける。
「お前はお前だろ。俺は別に九条会の『お嬢』と話してたんじゃねえ。樹と話してたんだ」
「……やめてください」
「俺んちだって九条を嫌ってる。でも、それとお前は別じゃねえの?」
「やめてください」
「俺は——」
「俺はお前とは違う!」
声が、弾けた。
樹は思わず立ち上がっていた。
玲央が息を止める。
樹自身も驚いていた。
敬語が消えていた。
いつもなら無意識に挟んでいる薄い壁が、感情に押し破られている。
けれど、もう戻せなかった。
「何も知らないくせに、簡単に言うなよ」
喉がひりつく。
それでも言葉が止まらない。
「家同士が仲悪いだけとか、俺たちには関係ないなんて……そんな綺麗な話じゃないんだよ」
「樹」
「俺はもう、黒崎の人間を何人も手にかけてる」
玲央の顔から、表情が消えた。
そんな顔を見たくなかったのに、言わないわけにいかなかった。
「この間だってそうだ」
声が震える。
「湾岸で、お前のところの人間に毒針を突き刺した。何人も倒した。あれだけじゃない。今までだって、父さんに言われて何度も——」
「……」
「——死んだやつだっている」
玲央は何も言わない。
それが何より痛かった。
「ほら、結局そういう顔するんだろ」
皮肉めいた笑いが、口元を歪める。
「いや、俺は——」
「お前がよくても!」
また声が跳ねた。
遠くで部活動をしていた誰かが振り向いたような気がしたけれど、もうどうでもよかった。
「お前が俺を許すって言っても、黒崎の家のやつらはどうなんだよ。俺が殺した人間の仲間は? 家族は? みんな、俺のことを敵だって言ってるんだろ?」
「……」
「俺のところだって同じだ。征士郎も、父さんも、組の連中も、お前を黒崎の息子としてしか見ない! 俺だけ『玲央は違う』なんて言ったって、それで……それでっ、何が変わるんだよ!!」
言い終えた樹は、肩で息をしていた。
最後の方は、ほとんど叫びだった。
玲央は何も言い返さなかった。言葉を失ったというより、今ここで自分の気持ちをぶつけても、樹を動かせないと悟ったような顔に見えた。
それでいい。これで終わる。
終わらせなければいけない。
「……だから」
今度の声は、ひどく静かだった。
玲央を見上げる。
あの明るい目が、今は困ったように、苦しそうに揺れている。
数日前までなら、それを見るだけで少し心が温かくなった。
だからこそ、もう見てはいけない。
「さよなら」
玲央の目が見開かれた。
「樹」
呼ばれた声の切実さに、足が止まりそうになる。
それでも樹は振り返らなかった。
園芸用の手袋を外し、道具を手早くまとめると、そのまま校舎へ向かって歩き出す。
「樹!」
もう一度、声が追ってきた。
返事をしない。
前だけを見る。
一歩。
また一歩。
胸の奥が、ぎりぎりと枷をはめられているように痛んだ。
だけど、何でもないかのように顔を上げる。
痛いなら痛くないふりをする。欲しいものが手に入らないなら、最初から欲しくなかったことにする。樹は昔から、そうしてきた。
校舎裏を立ち去るまで、樹は一度も振り返らなかった。
+ + +
あとに残された玲央は、しばらくその場から動けなかった。
追いかけたとして、何を言っても届かない気がした。
自分は抗争に出ない。
父親もそれを望んでいない。
だから、九条という名前も、血の臭いも、自分の日常からは少し離れたところにあった。
その九条が、樹だった。
「……何だよ、それ」
玲央は小さく呟いた。
風が吹き、花壇の隅で、盛りを過ぎたチューリップが揺れる。
一枚、薄い花弁が外れた。
乾き始めた花弁は、地面へ落ちる途中でかすかに擦れ、かさり、と頼りない音を立てた。
玲央は何も言わず、いつまでもその花壇の前に立っていた。




