13 祈り
教室の窓から差し込む春の光が、少しずつ西へ傾いていた。
黒板の中央には、何度となく見た文字が白いチョークで記されている。
——マタイによる福音書、第五章四十四節。
「この箇所については、ここ数回の授業を使って考えてきましたね。今日は最後に、皆さん自身がどう受け取ったのかを聞かせてもらおうと思います」
教壇に立つ神父が、開いていた聖書を閉じた。
最初にこの言葉を取り上げた時、樹は馬鹿馬鹿しいと思った。
敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。
黒崎の人間へ毒針を放った翌日に聞かされた言葉だったから、なおさら滑稽に思えたのだ。敵とは倒すものであり、向こうもまたこちらを殺そうとしている。そんな世界しか知らない自分に、二千年も前に説かれた教えを聞かせて何になるのかと。
あれから、まだそれほど日は経っていない。
それなのに、今はその一節をまともに見ることさえ億劫だった。
「では、白石くん。お願いできますか」
「はい」
斜め前の席で、一人の生徒が立ち上がった。
白石奏。
樹と同じくらいの小柄な少年で、どちらかといえば童顔に近い顔立ちをしている。押しの強いタイプではないのに、なぜか人の話の中心にいることが多く、入学して間もないうちにクラス委員長へ推されたのも、誰か一人の強い推薦というより、皆がなんとなく「白石なら」と納得した結果だった。
揉め事があれば双方の話を聞き、忘れ物をした生徒には黙って予備の筆記具を差し出し、掃除をさぼっている者には怒るでもなく「そこだけ手伝って」と笑って箒を渡す。
善良という言葉が嫌味なく似合う人間を、樹は初めて見た気がしていた。
「僕は、この『敵を愛する』という言葉は、相手のしたことを何でも許したり、悪いことまで肯定したりするという意味ではないと思っています」
奏は手元のノートへほとんど目を落とさず、ゆっくりと話し始めた。
「自分を傷つけた人を憎むのは、たぶん自然なことです。でも、憎まれたから憎み返すことだけを続けたら、いつまでも終わりません。相手を自分と同じ人間として見るのを諦めないことも、『愛する』ということの一つなんじゃないかと思いました」
淀みのない言葉だった。
教師が喜びそうな模範解答にも聞こえるけれど、奏が言うと、不思議と借り物には聞こえなかった。
「ありがとうございます。白石くんらしい考えですね」
神父が穏やかに頷き、奏も軽く一礼して席につく。
樹は、机の上に開いた白紙のノートへ視線を落とした。
提出する課題ではないと聞いていたから、考えるふりさえしなかった。何を書いたところで、自分の生きる世界には関係がないと決めつけていた。
けれど、今は白い紙面が妙に目につく。
『俺は別に九条会のお嬢と話してたんじゃねえ。樹と話してたんだ』
数日前の玲央の声が蘇り、樹はすぐにその記憶を押し戻した。
「では——九条くん」
不意に名前を呼ばれ、顔を上げる。
「はい」
神父が微笑んでいた。
「九条くんはどうでしょう。何か考えたことはありますか」
一瞬、教室が静かになったように感じた。
樹は白紙のノートを見るが、何もない。
適当に言えばいい。
白石の発言を少し言い換えて、「憎しみを乗り越えることが大切だと思いました」とでも答えておけば、すぐに終わる。
樹は椅子を引いて立ち上がった。
それからしばらく、何も言わなかった。
五秒。
十秒。
周囲の生徒がちらちらとこちらを見る気配がするが、神父は急かさず待っていた。
樹は机の上の一点を見つめながら、自分でも何を口にするのか分からないまま、ようやく唇を開いた。
「……敵を愛したとして」
ぽつりと落ちた声は、思ったよりよく響いた。
「その敵も、自分を愛してくれるんでしょうか」
教室の空気が変わる。
「自分だけが憎むのをやめても、相手がやめなかったら……結局、何も変わらないんじゃないですか。こっちが手を伸ばしても、向こうがその手を払いのけたら、それまでです」
言いながら、胸の奥がざらついていく。
「それに、誰かを傷つけたことは、なかったことにはなりません。相手が自分を憎む理由がちゃんとあるなら……こっちが愛したからって、許してもらえるわけじゃない」
誰も物音を立てなかった。
樹はそこでようやく我に返った。
しまった、と思う。
神学の授業で議論を吹っかけるつもりなどなかったのに。
「……だから」
最後だけ、少し声が小さくなった。
「憎しみは、結局ずっと続いていくんじゃないかと思います」
樹は静かに着席し、前を向いたまま、机の下で指を握り込む。
——何やってるんだ、俺は。
案の定、教室のあちこちから小さなざわめきが起きていた。だが神父は困った顔もせず、しばらく樹を見たあと、静かに頷いた。
「ありがとう、九条くん。とても大切な問いだと思います」
否定されなかったことが、かえって居心地を悪くした。
「愛することと、愛されることは交換条件ではありません。そして、愛することは罪を消してくれる魔法でもない。だから難しいのでしょうね」
神父はそれ以上、樹だけに語りかけることはせず、次の生徒を指名した。
授業は進んでいく。
けれど樹の耳には、もうほとんど入らなかった。
+ + +
放課後になっても、花壇へ向かう気にはなれなかった。
玲央と別れてからも、何度か園芸部には顔を出している。植物の世話をしている間だけは気持ちが落ち着く気がして、なるべく普段通りにしてきた。
けれど今日は、足が動かなかった。
校舎を出てから目的もなく歩いて、気がつけば、敷地の中央にある聖堂の前まで来ていた。
聖ゼノ学園の聖堂は、決して大きなものではない。尖塔を持つ薄灰色の石造りで、授業や学校行事の時には生徒が集うこともあるが、放課後のこの時間はほとんど人がいなかった。
重い木の扉が、少しだけ開いている。樹は何となく、その隙間から中へ入った。
外の音が遠ざかる。
高い天井の空間に、静けさが満ちている。
祭壇の奥には十字架が掲げられ、その上から午後の光が細長い窓を通って差し込んでいる。空気には蝋と古い木材が混ざった、独特の匂いがあった。
そして前方に、一人だけ人がいた。
奏だった。
祭壇に近い席に座り、両手を組んで頭を垂れている彼を見つけて、樹は足を止めた。
そういえば、と聞いたことを思い出す。
白石家は代々敬虔なカトリックの家庭で、奏自身も宗教に強い関心を持ち、将来はさらに専門的に学ぶ道を考えているらしい。同級生たちが進学先や将来の職業をまだ漠然としか考えていない中で、随分と早くから自分の行く先を定めている。
こういう生徒も本当にいるのかとぼんやり考えながら、樹は少し離れた後方のベンチへ腰を下ろした。
祈るつもりはなかった。
そもそも祈り方も知らない。
ただ、ここなら誰にも話しかけられずに済むと思った。
しばらくして、奏が顔を上げた。
立ち上がり、振り返ったところで樹に気づく。
「あれ。九条くん」
「……こんにちは」
「珍しいね」
奏は驚いた様子を見せたが、詮索するような声音ではなかった。
「お祈りに来たの?」
「ううん。なんとなく来ただけ」
「そっか」
それだけで納得すると、奏は樹の座るベンチの端を指した。
「隣、いい?」
「うん」
広い聖堂の中、奏は一人分ほどの間を空けて、樹の隣に腰掛けた。
しばらく祭壇を眺めていた奏は、やがて、思い出したように言った。
「今日の授業、ちょっと驚いた」
「……ごめん」
「なんで謝るの?」
奏が微笑む。
「神父さまも言ってたでしょう。大切な問いだって。僕もそう思ったよ」
「白石くんとは、真逆のことを言った気がする」
「そうかな。僕も、敵を愛せば相手も愛してくれるなんて思ってないよ」
樹は横を見る。
奏は相変わらず穏やかな顔をしていた。
「愛したから報われるとか、許したから許してもらえるとか、それならもっと簡単だよね。でも現実は、きっとそうじゃない」
「……それでも愛せって言うの」
「うん」
「どうして?」
思わず問い返した。
奏はすぐには答えなかった。膝の上で組んでいた指を、一度ほどく。
「憎んでいる相手のためというより、自分まで憎しみだけの人間にならないためなのかもしれない」
樹は黙った。
また綺麗事だ。
いつもなら、そう思って終わるはずだった。
なのに今日は、その言葉が胸の奥の柔らかい場所へ触れた。
「九条くん。何か、悩んでる?」
奏の声が少しだけ柔らかくなる。
「別に」
反射的に返した答えに、奏は「そっか」とだけ言った。
それ以上聞かない。
そのことが、かえって樹を落ち着かなくさせた。
もし無理に問い詰められていたら、すぐに席を立っただろう。けれど奏はただそこにいる。
静かな聖堂に、外を渡る風の音だけがかすかに聞こえていた。
「白石くん」
「うん?」
「……たとえば」
樹は自分の手を見た。
「たとえば、人を傷つけてきた人間がいたとして」
奏の表情が、ほんの少し変わった。
樹は気づきながらも、もう言葉を止められなかった。
「誰かに傷つけられて、自分も同じように誰かを傷つけて、その相手から恨まれているなら。それでも、その人は誰かを愛していいんだろうか」
質問の形を取っている。
けれど、もう自分の話だと悟られても構わなかった。
「俺は……」
声が小さくなる。
樹は視線を落としたまま続けた。
「人を傷つけてる」
奏は黙っている。
「一度じゃない。何度も。俺の家は……そういう家だから。言われれば戦うし、相手に怪我をさせるし……死んだ人もいる」
最後の言葉は、石造りの床へ落ちて消えた。
聖堂で口にするには、あまりにも似つかわしくない告白だった。十字架の下で、聖人でも神父でもない、同い年の少年を前に。
まるで告解でもしているようだと樹は思った。
「ずっと、そういうものだと思ってた」
声を絞り出す。
「俺の家と相手の家は憎み合ってて、向こうがやるからこっちもやる。それでまた向こうがやり返す。誰かが死んで、また誰かが憎しみをぶつけて……ずっと、ただそれだけだった」
奏は一言も挟まない。
だから樹は、とうとう一番言いたくなかったことまで口にしてしまった。
「なのに俺……そんな相手の側の人を、好きになりかけてる」
喉が詰まった。
好き。
初めて自分でその言葉を使った。
胸の奥が、遅れて痛む。
「相手は、俺がしてきたことを知ってからも、俺は俺だって言ってくれた。でも……そんなわけない」
樹は首を振った。
「俺が傷つけた人たちがいるのに。俺があの人の家の人間を殺してるのに。そんな俺だけが、何もなかったみたいに誰かを好きになって……救われようとするなんて」
言葉の最後が震えた。
「そんなの、都合がよすぎる」
長い沈黙があった。
奏は、驚いているはずだった。
怖がられて、席を立たれても当然だと思った。
けれど。
「九条くん」
呼ばれて、樹は顔を上げた。
奏はまだ隣にいた。先ほどまでの穏やかな微笑は消え、聞かされた話の重みを受け止めているのか、震えを押し殺すように、膝の上でぎゅっと手を握っていた。それでも、樹から目を逸らすことはなかった。
「僕は、君がしたことを『いいよ』って言える立場じゃない」
樹は目を瞬いた。
「傷つけられた人の痛みはなくならないし、責任だって消えないと思う。神さまを信じれば全部帳消しになる、なんて僕は言いたくない」
「……うん」
「でも」
奏はもう一度微笑んだ。
「だからって、君はもう誰にも愛されちゃいけないとか、誰かを愛しちゃいけない人間になったわけじゃないと思う」
胸の奥で、何かが揺れた。
「人は誰でも、やり直す道を探していい存在なんだって。僕はそう教わってきたよ」
「……誰でも?」
「うん」
「人を殺した人でも?」
奏の喉が、わずかに動いた。それでも目を逸らさなかった。
「罪が消えるって意味じゃない。でも、罪を犯した人が永遠に赦されちゃいけないわけじゃないでしょう」
奏は祭壇の十字架へ視線を向ける。
高い窓から射す細い光の中を、小さな埃がゆっくり漂っている。
樹も、その光を見つめた。
今までの自分なら、心の底まで響きはしなかっただろう。
けれど花壇でまっすぐにこちらを見つめる玲央の姿が、脳裏に浮かんだ。
胸が痛む。
そして今はなぜか、その痛みの奥に、ごくわずかな温度がある。
「……白石くん」
「うん?」
「神様って」
樹は少しだけ迷ってから言った。
「随分、甘いんだね」
奏は目を丸くしたあと、ふっと笑った。
「そうかもしれないね」
樹もほんのわずかに、口元を緩めた。




