14 月夜の訪問者
その夜、樹はなかなか眠れなかった。
机の上には開いたままの教科書があり、窓の外には、雲ひとつない夜空が広がっている。
聖堂で奏と話したことが、何度も胸の内に浮かんでは消えた。
『だからって、君はもう誰にも愛されちゃいけないとか、誰かを愛しちゃいけない人間になったわけじゃないと思う』
綺麗事だ。
これまでなら、そう切り捨てていた。
神様がどれほど寛大だろうと、すべての人間を同じように許してくれるわけがない。黒崎の人間を傷つけてきた自分を、黒崎組の誰もが笑って受け入れてくれるはずがないように。
それなのに。
『俺は別に九条会のお嬢と話してたんじゃねえ。樹と話してたんだ』
思い出すのは、いつも玲央の声だった。
「……ふう」
樹は小さく吐息を落とし、椅子から立ち上がった。
少し風に当たろうと自室の窓を開け、月の白さが溜まるバルコニーへ出た。
九条邸の夜は静かだった。
広い敷地の奥には庭木が連なり、その向こうを高い塀が囲んでいる。表側にはまだ組員たちの出入りがあるが、家族の住む一角が面した裏庭まで来れば、人声もほとんど届かない。
月が明るかった。
庭の木々が落とす影まで、輪郭が分かるほどに。
樹は手すりへ軽く腕を置き、ぼんやりと塀の向こうへ視線をやった。
そこで、妙なものが見えた。
「……?」
塀の外、道路から少し引っ込んだ植え込みの陰。
誰かいる。
樹は眉を寄せた。
組の人間なら、あんなところに隠れる必要はない。だけど通行人にしては、いつまでも動かない。
まさか、と胸の奥で何かが跳ねた。
人影がこちらを見上げた瞬間、月明かりが顔を照らす。
「……っ」
樹は思わず手すりを掴んだ。
玲央だった。
いつもの制服とは違い、黒っぽいパーカーを羽織って、塀際の暗がりへ身を潜めている。それでも、見間違えるはずがない。
樹の顔から血の気が引いた。
「な……」
声を出しかけ、慌てて口を閉じる。
玲央も樹に気づいたらしく、ぱっと顔を明るくする。
さらに最悪なことに、こちらへ向かって手を振り始めた。
樹は両手で必死に制した。
やめろ。
動くな。
玲央は叱られた理由がわからない大型犬のように、きょとんとしている。
樹は辺りを見回し、誰もいないことを確かめると、身を乗り出して声を極限まで落とした。
「そこで待ってて」
果たして声が届いたのか、玲央は小さく頷いた。
樹は冷や汗をかきながら、部屋へ飛び込んだ。
何をしているんだ、あの人は。
ここがどこなのか分かっているのか。
黒崎組の一人息子が、よりによって九条会本拠の塀際に立っている。
もし巡回中の組員に見つかったら。
もし征士郎に見つかったら。
父に知られたら。
考えるだけで手が冷たくなる。
樹は部屋の扉を開け、廊下へ出た。走りたい衝動を抑え、できる限りいつも通りに歩く。
階段を下りたところで、廊下の向こうから若い組員が一人やってきた。
「お嬢。まだ起きてたんですか」
樹の心臓が跳ねた。
だが顔には出さない。
「ちょっと庭に出るだけ」
「こんな時間に?」
「昼間、見ておきたかった鉢があるの忘れてたから」
「ああ、なるほど」
樹が植物の世話を好むことは、屋敷の者も知っている。組員は何の疑いも持たず頭を下げた。
「冷えますから、あんまり長居しないでくださいよ」
「うん」
表情を変えず、通り過ぎる。
曲がり角を一つ抜けたところで、樹はようやく息を吐いた。
裏庭へ続くガラス戸を開けると、夜気が頬へ触れた。広い庭を、月明かりだけを頼りに横切る。
生け垣の向こうには、家族や庭師が使う小さな通用門がある。普段は施錠され、外側から開けることはできない。
樹は鍵へ手を掛け、一瞬だけ動きを止めた。
一体何をしているのだろう、と思う。玲央にさよならと言ったのは自分で、もう二度と近づくなと言ったのも自分だ。このまま引き返せば、いつか玲央も諦めて帰る。それが正しい。
それなのに、手は鍵を回していた。小さな金属音が、夜の庭へ薄く滲む。
扉をわずかに開くと、外側に玲央が立っていた。
「樹!」
「声、落として」
この場で話していたら、いずれ組員が外周を巡回に来る。
一瞬の逡巡の後、樹は玲央の腕を掴み、そのまま内側へ引っ張った。
扉を閉める。
施錠する。
そこまでしてから、ようやく玲央を振り返った。
「何考えてるんだ!」
囁き声で咎める。
玲央が目を丸くしながらも、平然と返す。
「お前こそ、声落とした方がよくね?」
「誰のせいだと思ってるんだよ!」
樹は珍しく取り乱していた。
「ここがどこか分かってるのか。見つかったら、本当にただじゃ済まない。お前が黒崎の人間だって分かったら——」
「分かってるよ」
「分かってない!」
樹は玲央の胸元を掴みそうになり、寸前で手を止めた。
「殺されるかもしれないんだぞ」
声が震えた。
玲央の表情がわずかに変わる。
「……心配してくれてんじゃん」
「茶化すんじゃない」
「茶化してねえよ」
「玲央!」
思わず名前を呼んでから、樹は息を呑んだ。
玲央も黙った。
学校ではずっと「先輩」と呼んできた。あの夜も、別れを告げた日も、呼び捨てにしたことはなかった。
なのに今、あまりにも自然に、その名前が口から零れた。
樹は逃げるように顔を背ける。
「……こっち」
裏庭の奥へ向かう。
「ここにいたら、家の中から見える」
玲央は何も言わず後についてきた。
大きな木の陰まで来ると、九条邸の家屋からは枝葉が視線を遮ってくれる。月の光だけが、その隙間から細く地面へ落ちていた。
二人はそこで立ち止まった。
近い。
学校の花壇でも何度も隣に座ったのに、今はその距離がひどく意識される。
樹は玲央を見ないまま言った。
「……用が済んだら、すぐ帰って。本当に危ないから」
「おう」
「で、何しに来たんだよ」
玲央が少し黙った。
先ほどまでの無鉄砲な顔から、笑みが消える。
「お前にさよならって言われてから、ずっと考えてた」
樹の肩がわずかに強張った。
「お前が言ったことも考えた。九条が黒崎の人間を殺してることも、お前がその中にいることも。俺んとこの人間が九条を憎んでることも」
「……」
「俺も、お前が人を傷つけてるって聞いて、何とも思わなかったわけじゃない」
樹は唇を噛む。
そうだ、それでいい。
それが普通だ。
「……怖いと思った?」
「びっくりはした」
玲央は正直に答えた。
「俺が知ってた樹と、うまく繋がらなかった。でも、それで考えたんだよ。じゃあ俺が知ってた樹は嘘だったのかって」
樹は顔を上げる。
「花壇で土いじってたお前も、チューリップが咲いて嬉しそうにしてたお前も、俺のこと笑ったお前も。全部、嘘だったのかって」
「それは……」
「違うだろ」
玲央の声は夜の庭へ吸い込まれるほど低く、引き返す気はないと分かる強さがあった。
「パーティで会った時より、俺にはあっちのお前の方が本物に見えた」
樹の胸が締めつけられる。
「なあ、お前に初めて会った時から、ずっと気になってたんだ」
玲央が一歩だけ近づく。
「前髪の隙間から目が見えてさ。冷たい目してんのに、その奥に、なんかすげえ寂しいものとか、辛いものとか、ぎゅっと押し込めてるみたいに見えた」
「……お前に、何が分かる」
樹の言葉にも、玲央は退かなかった。
「だから気になった。何でそんな顔してんだろって。そんで話したら、お前、思ってたより普通に毒舌だし、たまに変なこと言うし」
「……」
「でもあの日、チューリップの前で笑っただろ」
玲央の声が柔らかくなった。
樹の目の奥が熱くなる。
「俺、あの顔見た時、もっと見たいって思った」
玲央は樹を見つめた。
「もっと笑ってるお前が見たい。あの時、俺が変なこと言って笑ったみたいに。そういう顔を、これからも見たいって思ってる」
月光が、葉の隙間から玲央の頬へ落ちている。
樹は動けなかった。
「……そんなこと言われても……俺が何してきたか、もう知ってるだろ」
「正直、驚いた」
取り繕わない答えだった。
「俺が知ってた樹と、うまく繋がらなかった。……今だって、全部は分かってないと思う」
樹は顔を上げる。
「でも、何日考えても、どっちかが嘘だなんて思えなかったんだよ」
「……どういう意味?」
「お前がしてきたことを、俺なんかが許したりチャラにはできねえ。でも、花壇で俺と一緒に笑ったお前だって、確かにいたんだ」
まっすぐに見つめられて、樹は知らず知らずのうちに胸元に手を当てる。
「俺はその樹に会いたくて、会えない間もずっとずっと頭の中にいた。だから、もう誤魔化せねえ」
玲央は一度だけ息を吸った。張りつめた顔のまま、それでも視線を外さずに言う。
「俺は、お前が好きだ」
世界から音が消えたような気がした。




