15 秘密の口づけ
どくん、どくんと、鼓動の音がうるさかった。
遠くから、見回りの組員たちの声がしている。
風が吹いて、枝葉がさわさわと揺れている。
そんな夜の気配から切り取られたように、玲央の一言が鮮明に胸へ届いて、さっきから樹の心臓を鳴らしている。
「……何で」
樹の声が掠れる。
「何で玲央は、そんな風にまっすぐなの」
「俺だって、頭ん中ぐちゃぐちゃになるまで何日も考えたよ」
樹は唇を噛んだ。
「……俺は、九条だ」
「知ってる」
「お前は黒崎だ」
「うん」
「俺はお前の組の人間を傷つけてる」
「分かってる」
「だったら!」
声が大きくなりかけ、樹は慌てて口元を押さえた。
しばらくして、苦しげに細く息を絞り出す。
「……だったら、どうして」
玲央に問いかけた言葉は、そのまま自分にも返ってきた。
どうして、この人を好きになってしまったのだろう。
黒崎じゃなければよかった。
自分が九条でなければよかった。
もっと普通の家に生まれて、普通の学校生活をして、花壇で知り合った先輩に恋をしただけなら、どれほど簡単だっただろう。
けれど。
その一方で、樹には分かっていた。
黒崎でなかったらと願いながら、それでも玲央に惹かれる自分をもう止められなかった。
いつも自分を太陽みたいに明るく照らして、こちらが高く張り巡らせた壁を何でもない顔で越えてくる。
樹が言葉にしなかったものを、誰よりも先に見つけた。
孤独だと認めることさえできなかった自分の中へ、まっすぐ手を差し伸べてきた。
誰よりもこの人が、自分の孤独を分かってくれた。
「……俺だって」
樹が呟いた。
「えっ?」
目を瞬かせる玲央の前で、樹は息を止める。
もう駄目だった。
押し込めていたものが、次々と溢れてくる。
「俺だって、会いたかった」
「樹」
「花壇に来なくなって、寂しかった。もう来るなって言ったのは俺なのに、それでも毎日、また来てくれるんじゃないかって期待してた」
声が震える。
「パーティで黒崎だって分かった時も……嫌いにならなきゃって思った。でも全然できなかった」
玲央の目が大きくなる。
「俺……」
樹は息を吸った。
言葉が、喉につかえる。
好き。
ただその一言を言うだけなのに、これまで生き抜いてきた人生の中で、今が一番怖い。
でも、奏の言葉が、ふと胸をよぎった。
愛することまで、諦めなくていい。
樹は顔を上げた。
「俺も……玲央が、好き」
言った瞬間、想いごとあふれ出すように、樹の瞳から涙がこぼれ落ちた。
自分でも驚くほど、静かな涙だった。
好きだと認めただけで、凍てついた胸の奥が痛いほど震える。
嬉しいのに苦しくて、怖いのに、ここから離れたくない。頬を伝う涙は止まらなかったが、それを隠そうという気にもなれなかった。
玲央はしばらく何も言わなかった。
ただ、ぽかんと樹を見ている。
白い頬を伝う一滴が、月明かりを受けて淡く光った。
「……泣くほど?」
樹が涙を拭おうと手を上げるより先に、玲央の指が頬へ触れ、こぼれた涙をそっと拭う。
「うるさい」
気恥ずかしさのあまり、樹は顔を背けようとした。
けれど玲央は満ち足りた表情で、樹の濡れた頬を包む。
「すげえ嬉しい」
「……馬鹿。今ここがどこか忘れてるだろ」
「忘れてねえって」
「そんな緩みまくった顔して、絶対忘れてる」
玲央は笑った。
その笑顔を見た瞬間、樹の胸にまた熱いものが込み上げる。
玲央の親指が、もう一度、樹の頬を撫でた。
ごつごつした指なのに、ひどく優しい仕草だった。
そのままゆっくりと身を屈めて、樹と額が触れそうな間合いまで顔を近づける。
「……キスしたい」
掠れる声が、許しを乞う。
いっそひと思いに唇を重ねてくれれば、ここまで心臓が暴れなかったかもしれないのに。
互いの息遣いさえ感じられそうな距離で、玲央はじっと樹の反応を待っている。
樹は白い頬を真っ赤に染めたまましばらく視線を泳がせていたが、やがて、こくんと小さく頷いた。
玲央の瞳が愛おしさに揺れる。
次の瞬間、唇が重なった。
触れるだけの短いキス。
ただそれだけで樹には、世界のすべてが塗り変わったように感じられた。
玲央の唇は温かく、触れた唇から全身へ熱が広がっていく。
離れたあとも、樹は目を開けられなかった。
これほど近くで誰かと思いを伝え合うことが、こんなにも怖くて、嬉しいなんて。
玲央は鼻先が触れ合いそうな距離のまま、小声で訊ねる。
「……嫌だった?」
玲央が首を傾げた拍子に、触れ合った前髪がくしゃりと乱れる。
樹は目を伏せたまま、小さく首を振った。
「じゃあ、もう一度」
玲央の手が頬から後頭部へ回り、樹を優しく引き寄せる。樹も目を閉じ、玲央のパーカーの裾をきゅっと掴んだ。
二度目のキスは、さっきより長かった。
離れた時、二人の息がわずかに乱れていた。
樹は恥ずかしさに耐えきれず、玲央の胸を押す。
「……もういい」
「え、何で?」
「だって……もうっ、知らない」
玲央が目を丸くする。
その顔がおかしくて、眉をハの字にして赤くなっていた樹は、ふいに吹き出した。
声を抑えようとしても、喉の奥からくっくっと笑みがこぼれる。
まだほんのりと上気した頬に、今度は柔らかな笑顔が浮かんだ。
「……それ」
玲央が呆然と呟く。
「え?」
玲央の顔に、ゆっくりと笑みが広がった。
「その顔。俺、そうやって笑う樹が好きだ」
樹が目を見開いたまま止まる。
「……急に何」
「だって、今までで一番好き。もっと見せて」
大切な宝物を愛おしむように、玲央は再び樹の頬を両手で包み込む。その仕草に、また樹の心臓がどくんと跳ねる。
その時、遠くで砂利を踏む音がした。
二人が同時に息を止める。
「……誰か来る」
樹が囁いた。
現実が、一瞬で戻ってきた。
「玲央、もう行って」
「うん」
「こっち」
二人は手を離し、木陰から通用門へ急ぐ。
樹は鍵を開けると扉を細く押し開け、玲央を外へ出した。
玲央が振り返る。
「また会える?」
樹は迷った。
ついさっきまでなら、拒絶するしかないと諦めかけていた問い。
けれど今は。
「……学校で」
小さく答える。
「花壇?」
「うん」
玲央が嬉しそうに笑った。
「じゃあ、またな」
「早く行けよ」
「分かったって」
数歩離れてから、玲央がもう一度振り向いた。
「樹」
「何」
「好きだ」
「……っ」
かあっと顔に血が上り、樹は反射的に扉を閉めた。
最後に見えた玲央の顔は、ひどく楽しそうだった。
樹は内側から鍵を掛けると扉へ背を預け、そのままずるずるとしゃがみ込んだ。
心臓が、まだ狂ったように鳴っている。
「……馬鹿」
もう何度目か分からない言葉を呟く。
けれど今度は、その口元は緩んでいた。




