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16 マリーゴールド


 昼休みの鐘が鳴ってしばらくすると、教室のあちこちで弁当の蓋が開き始める。

 向かいに座る奏が卵焼きを箸で摘みながら、不意に樹の顔を眺めた。


「樹くん、最近なんだか明るくなった?」


「……俺が?」


 樹は思わず目を丸くした。


 聖堂で話したあの日以来、二人は教室でも言葉を交わすようになっていた。


 もともと奏は誰とでも分け隔てなく接する性格だったし、樹も彼といる時には、不思議と身構えなくて済んだ。こうして教室で昼食を一緒に取ることも、いつの間にか珍しくなくなっている。


「うん。あ、明るいは言い過ぎかな。でも、前より表情が穏やかになった気がする」


 奏は少し考えて、にこりと笑う。


 ——言い過ぎなのかよ。

 樹は内心でそう思ったものの、口には出さなかった。


「自分では、分からないけど」


「本人は案外そんなものかもね」


 奏が笑う。

 樹の口元も、ごく自然に緩んだ。


 何かが変わったとすれば、きっかけはもう分かっている。

 九条邸の裏庭で誰にも見つからないよう息を潜めながら、玲央と気持ちを伝え合った、あの夜。


『俺も……玲央が、好き』


 思い出しただけで、胸の奥に火がともる。


 今まで自分の人生には、何の意味もないと思っていた。

 父に命じられれば戦い、学校へ行けと言われれば学校へ行く。家に戻れば九条の人間として振る舞い、また次の日が来る。

 そこに救いも安らぎもなかった。


 だけど今は、その毎日の中に待ち遠しいものがある。ただそれだけのことが、これほど世界を違って見せるとは思わなかった。

 乾き切っていた心の底に生まれたそれは、まるでそっと顔をのぞかせた、小さな芽のようだった。


「……やっぱり。今、ちょっといい顔してた」


 奏が言った。


「見間違いじゃないの」


「じゃあ、そういうことにしておくね」


 奏はそれ以上追及せず、また弁当へ箸を伸ばした。

 樹も小さく息を吐いて、ご飯を口へ運ぶ。


 窓の外には、雲一つない空が広がっていた。


 + + +


 放課後。


 校舎裏の花壇では、華やかに咲いていたチューリップもすっかり花を終え、茎と葉だけが残っていた。少し前まで淡い色で満ちていた一角が、どこか寂しく見える。


 その代わり、隣の区画には新しい苗が並び始めていた。


「そこ、もうちょっと離して」


「これくらい?」


「……玲央、極端なんだよ。今度は離しすぎ」


「難しくねえ?」


 花壇の前にしゃがみ込みながら、玲央が本気で困った顔をした。

 樹は隣で小さく笑う。


「剣はあんなに上手いのに、どうして苗を等間隔に植えるくらいで苦戦するの」


「細けえのは得意じゃないんだよ」


 二人の前には、まだ小さなマリーゴールドの苗が並んでいた。


 チューリップの次に何を育てようかと考え、樹が園芸部の先輩と相談して選んだものだ。丈夫で育てやすく、これから気温が上がれば次々と花をつける。


「で、これ何色の花?」


「黄色とか橙色。苗によって違うと思う」


「今度は分かってんだ」


「これは俺が選んだからね」


「へえ」


 玲央は嬉しそうに苗を見た。


「じゃあ、樹が育てる花なんだな」


「玲央も一緒にだろ」


 言ってから、樹は自分の言葉に少しだけ照れた。

 玲央も一瞬きょとんとして、それから大きく笑う。


「そっか。俺もか」


「まあ、剣道部に行くついでにね」


「剣道部が本業だからな」


「こっちは副業?」


「いや、樹に会うのも本業」


 あまりにさらりと言われて、樹の手が止まった。


「……そういうこと、学校で言うなよ」


 樹は呆れたように言いながらも、口の端がむずむずと緩んでいるのを自覚していた。

 玲央もそんな樹を見て、さらに楽しそうに笑った。


 付き合い始めたからといって、二人の関係が劇的に変わったわけではない。

 学校では相変わらず、花壇の手入れをする園芸部の一年生と、時々そこへ立ち寄る剣道部の三年生。廊下ですれ違っても、周囲に人がいれば話すのを避けていた。


 けれど二人きりになれば、以前よりずっと距離が近づいている。

 目が合えば、玲央はそのままじっと見つめてくる。見つめ合ううちにあの夜のキスを思い出してしまって、また耳の奥でとくん、とくんと鼓動が響く。


 その時だった。


「おーい、玲央ー!」


 ある意味聞き慣れた大声が、校舎の方から飛んできた。


 玲央が「あ」と顔を上げる。


「いい加減部活出ないと、先生に殺されっぞー! 俺まで『黒崎はどこ行った』って聞かれるんだけど——」


 声の主が、花壇へ姿を現す。

 剣道着姿の真樹だった。


 肩に竹刀を担ぎ、いかにも面倒そうな顔をしてどすどすと歩いてくると、玲央の隣にしゃがんでいる樹を見るなり固まった。


「……あ」


 樹も止まる。


 玲央だけが、普段通りに呑気に構えていた。


「えーっと……」


 真樹の視線が、忙しなく玲央と樹の間を往復する。襲名披露の夜の光景が、露骨に頭の中を駆け抜けている顔だった。


 真樹は竹刀で自分の肩をとんとん叩きながら、目を泳がせた。


「玲央、その子……この前のパーティで会った、九条の……?」


 たちまち樹の表情が硬くなるのを見た真樹は、すぐに両手を振った。


「あ、いやいや、別に責めてるわけじゃなくて! 俺は一般市民なんで、そちら様同士の歴史とか抗争とか一切関知したくないというか、できれば平和に高校卒業したいというか」


「……真樹、何言いたいんだ?」


「だからぁ!」


 真樹は両手を広げかけ、慌ててまた声を潜めた。困ったように眉を寄せた末、玲央と樹を交互に見る。


「……まあ、いろいろあるだろうけどさ」


 さっきまでのふざけた調子が、少しだけ薄れた。


「俺は黙っといてやるから。程々にしとけよ?」


 玲央が真樹を見る。


「……ありがとな」


「いやだって、こっちも困るんだよ。蒼介さんに『真樹、知ってたのか』とかあの冷たーい目で聞かれたら、俺たぶん三秒で全部吐くぞ」


「黙っててくれるんじゃなかったのかよ!」


「努力はする!」


 胸を張る真樹に、玲央が呆れた顔をする。

 二人の様子に、樹は口元を緩めた。

 それに気づいた真樹が一瞬だけ目を丸くしたあと、何かを納得したように小さく笑う。


「ま、そういうことで。先生には『きょう玲央は腹壊して帰りました』って言っといてやるから」


「もっと別の理由にしろよ!」


 感謝するどころか悪態をつく玲央に、樹は思わず吹き出した。

 真樹は背を向けると二、三歩進んでから振り返り、樹へ軽く手を上げた。


「じゃ、九条くんも。そのサボり魔、あんまり甘やかさないでね」


「……気をつけます」


「おい、俺の保護者増やすな」


 真樹は笑いながら剣道場へ走っていった。

 遠ざかる背中を見ながら、樹はしばらく黙っていた。


「……真樹先輩、いい人だね」


「ああ。うるせえけどな」


「それは思った」


「あはは、ひでえ」


 玲央につられて、樹も小さく笑った。


 + + +


 作業を終えた二人は、使った移植ごてやジョウロを抱えて、校舎のさらに奥へ向かった。


 聖ゼノ学園の敷地の端には、園芸部が使う小さな温室がある。

 金属の骨組みに曇ったガラス板がはめ込まれ、中へ入れば、湿った暖かな空気が肌を包む。左右には鉢植えや育苗箱が並び、奥には肥料や道具を置く棚と、年季の入った木製の作業台があった。


 樹は道具を棚へ戻し、花壇へ植える予定の苗を確認する。


「この小さいの、これから植える分か?」


 玲央が育苗トレーを指した。


「そう。また明日に」


「そっか」


 温室の中は、他には誰もいなかった。

 ガラス越しの日差しが柔らかく広がり、植物の葉が床へ幾重もの影を落としている。

 降り注ぐ暖かな陽光のもと、樹は玲央の横顔を見つめながら、今この時が永遠に続けばいいのにと思った。


「……この先、どうなるんだろう」


 幸せな時ほど、不安が忍び寄る。

 今は一緒にいられても、玲央が卒業したら。

 それ以前に、九条と黒崎の関係がどうなるのかさえ、分からない。


「俺にも分かんねえ」


 玲央は率直に言った。


「……後悔してる?」


 思わず口にしてから、樹は玲央を見る。

 玲央はきょとんとした。


「何を?」


「俺と……こうなったこと」


「全然してない」


 あまりにも早い返答に、樹が目を瞬く。


「先のことは分かんねえけど、お前のこと好きなのは変わんないし」


「……」


「樹は?」


 胸の奥が、ゆっくりと温かくなる。


 以前なら、この問いに答えること自体が怖かったかもしれない。

 好きだと言えば、その分だけ失うものが増える。誰かを大切にすれば、その人が自分の弱点になる。

 そういう世界で生きてきた。


 けれど、玲央の前では。


「俺も、好きだよ」


 樹はほのかに頬を染めた。

 玲央の表情が、ぱあっと明るくなる。


「やっぱ直接言われるといいな。なあ、もう一回言って?」


「調子に乗るなよ」


「俺なんか何回でも言えるぞ」


 玲央が一歩近づく。


「樹、好きだ」


「……」


「めちゃくちゃ好きだ」


「うるさいな」


 樹はとうとう笑ってしまった。

 玲央も笑う。

 そのまま、二人の間の距離が自然に狭まった。


 玲央の大きな手が、樹の前髪をすくい上げるように撫でる。


「あー……すっげー抱きしめたい」


 玲央の腕は、そこで止まった。こんなに想いを隠しもせずに溢れさせながら、無理に距離を詰めることはしない。樹はほんの少しだけ迷ってから、頷いた。


「うん」


 とたんに玲央の腕が背中へ回り、身体が引き寄せられる。

 樹は包み込まれるような体温に、力を抜いた。

 玲央の胸へ額が触れる。

 心臓の音が聞こえる。自分より少し速い、鼓動の音。


「玲央、どきどきしてる?」


「好きなやつ抱いてんだから、するだろ」


「……ほんと、そういうこと平気で言うよね」


「樹ももっと言えよ」


 玲央の温かい腕の中で、樹は小さく息を吐いた。


 これまで誰かの腕に囲まれれば、身体は反射的に次の動きを考えた。どちらへ抜け、距離を取り、どうすれば相手を無力化できるか。

 そういうことばかりを覚えてきた自分が、今は何も考えなくていい。

 ただ、玲央の腕の中にいる時だけは。


「……もう少し、このままでいて」


 小さな呟きを聞いた玲央は、樹を抱きしめる腕の力をわずかに強め、柔らかな髪に顔をすり寄せた。


 温室の中には、葉の匂いと湿った土の匂いが満ちている。

 ガラス越しの午後の日差しは柔らかく、二人を包むように降り注いでいた。


 やがて樹が顔を上げると、玲央と目が合った。

 近い。

 今でも恥ずかしいことには変わりないけれど、少しだけ、踏み出してみたくなった。


 玲央が笑う。


「なんか、キスしそうな——」


 最後まで言わせず、樹は玲央のネクタイを掴んで軽く引いた。


「え」


 驚いて身を屈めた玲央の顔へ、自分から顔を寄せると、唇を重ねた。


 ほんの短いキス。


 今度は、自分が選んだ。

 自分から、この人へ触れたいと思った。


 唇を離すと、玲央は固まっていた。樹は少し頬を膨らませる。


「……何、その顔。嫌だった?」


「嫌じゃない!」


 玲央が勢いよく否定する。


「その、びっくりして。樹から来ると思わなかったから」


「じゃあ、もうやめとく」


「何でそうなるんだよ! なあ、もう一度! さっきのもう一度して?」


 玲央が慌てて樹の手を取る。


「調子に乗らないの」


 樹が笑う。

 その笑顔を見た玲央もつられて笑った。


 少し前までの樹なら、こんなふうに誰かとくだらないことで笑う自分など想像もしなかっただろう。


 けれど今は、その時間がこれからも続いてほしいと思う。


 明日も。

 その次の日も。

 できることなら、ずっと。


「なあ、樹。今日植えた、マリーゴールドだっけ? いつ頃咲く?」


「もう少し暖かくなれば。順調なら、そんなにかからないと思う」


「じゃあさ」


 玲央は樹の手を握ったまま言った。


「咲いたら、一緒に見ような」


 樹は一瞬、答えを止めた。


 先のことなんて分からないと、さっき自分たちでそう言ったばかりだった。それでも、花が咲く頃の約束くらいは、してもいいのかもしれない。


「……うん」


 樹は微笑んだ。


「一緒に見よう」


 温室の外では、夕方を告げる鐘が鳴り始めていた。

 ガラス越しの陽だまりの中、瑞々しい葉を広げる植物たちが、寄り添う二人を静かに見守っていた。


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