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17 血の匂い


 夜半を過ぎた湾岸地区に、怒号と金属音が響き渡っていた。


 古びた物流倉庫が並ぶ一角。昼間なら運送用の大型車両が行き交う広い道路は、今や九条会と黒崎組、双方の構成員が入り乱れる乱闘の場と化している。


「押せっ! ビビってんじゃねえぞ!」


 征士郎の怒声が飛んだ。


 黒い三つ揃いの上着を脱ぎ捨て、白いシャツの袖を肘までまくっている。巨躯が人波の中へ踏み込むたび、拳を受けた男がよろめき、また一人が地面へ沈んでいく。


 今夜の発端は、もともとは小さな縄張りの揉め事だった。九条が手を出し、黒崎が取引を潰し、報復がまた報復を呼んだ。誰が最初だったのかを、もう誰も覚えていない。何度も油を注がれた火種は、双方の若い衆を何十人も巻き込む騒ぎになっていた。


 樹は乱闘の中心から離れた倉庫脇、高く積まれた資材の陰に身を置いていた。

 指の間には細い針、腰には数本の投げナイフ。


 正面から殴り合う征士郎とは違い、樹の役目はいつも通りだった。敵の動きを見て、味方を囲もうとする者を見つけ、戦況を崩しかねない相手を遠くから仕留める。


 視線の先で、黒崎の男が九条の構成員へ鉄パイプを振り上げた。


 樹の手が動く。

 放った針が、男の右肩へ刺さった。


「ぐっ……!」


 鉄パイプが地面に落ち、その隙に九条の男が相手を殴り倒した。


 次。

 征士郎の背後へ回ろうとしている男。


 樹は投げナイフを抜き、手首を返す。

 刃は男の腿を裂いた。


「ぐあっ!」


 男が膝をつく。

 征士郎が振り返ることすらなく、その顔面へ肘を叩き込んだ。


 いつもと同じだった。どこを狙えば動きを止められるか、どこを外せば生き残るか、そして殺すにはどこへ打ち込めばいいか。樹の身体は、考えるより先に知っている。


 それなのに。


「……」


 次の獲物を見つけた瞬間、指が止まった。


 九条の若い衆と揉み合いながら、必死の形相で拳を振るう、黒崎の男。

 年は二十代半ばくらいだろうか。


 全然似ていないはずのその背格好が、不意に玲央に重なって見えた。


『樹、好きだ』


 陽だまりの中で、何の屈託もなく笑う顔。温室で自分を抱きしめた腕。

 あの玲央と、目の前の黒崎組員とが、同じ「黒崎」という名前の下に繋がっている。


 ——もし、この人たちを傷つけたと、玲央が知ったら。


 それは、これまでの樹には存在しなかった一拍だった。


「お嬢!」


 声が飛び、我に返る。

 視界の端から、人影が迫っていた。


「——っ!」


 近い。


 いつの間にか一人、乱戦を抜けた黒崎の男が樹の位置まで肉迫している。

 樹は反射的に身体を捻った。


 銀色の刃が目の前に迫る。

 避けきれない。


「くっ……!」


 脇腹に熱が走った。


 遅れて痛みが来る。

 シャツの布が裂け、その下に細長い赤が滲んだ。


「お嬢っ!?」


 周囲の九条の者たちが叫ぶ。樹は傷を押さえる暇もなく後ろへ跳んだ。


 男が追いすがる。

 速い。


 樹は懐から針を抜き、相手の顔へ放つ。

 男が腕で庇い、一歩止まる。


 その隙に距離を取る。

 だが、狭い資材置き場では樹の得意とする間合いまで離れられない。


「九条のお嬢が、コソコソしやがって!」


 男が吠え、ナイフが再び閃く。


 樹は腕を上げてかわす。

 一撃。

 二撃。

 身体はまだ動く。

 けれど脇腹の痛みが判断を鈍らせる。


 そして何より、手がついてこない。


 刺せる。

 今なら首へ針を打ち込める。


 そう分かっているのに、指が躊躇する。


 この人も、黒崎だ。玲央の側にいる人間だ。

 その迷いが致命的だった。


「——もらった!」


 刃が腹部へ向かって突き出される。

 樹の身体が強張った。

 間に合わない。


 そう思った瞬間。


「お嬢!」


 横から誰かが飛び込む。

 鈍い音がした。


「……え」


 樹の目の前で、一人の九条会の男が身体を折った。

 樹もよく知っている若い衆だった。普段は屋敷の車回しにも立っていて、学校から帰れば「お帰りなさい、お嬢」と頭を下げる男。


 その腹へ、黒崎の男が握ったナイフが深く沈んでいる。


「……っ、ぐ」


 男の口から声にならない息が漏れた。

 刃が引き抜かれる。


 白いシャツに、一気に赤が広がった。


「おい……!」


 樹が手を伸ばす。


 だが、その前に。


「てめええぇ!!」


 凄まじい怒声が響く。

 征士郎だった。

 背後から黒崎の男へ迫り、その身体を乱暴に引き寄せる。


 そして懐から短刀を抜くと、一切の躊躇なく、男の脇腹へ深く突き込んだ。


「——がはっ」


 男の身体が跳ねる。


 征士郎は刃を引き抜き、崩れかけた男を地面へ突き倒した。そこには、ためらいの影すらなかった。


「征士郎……」


「樹! 怪我は!」


 征士郎は倒れた敵にはもう目もくれず、樹へ駆け寄った。


「大丈夫。俺より——」


 樹は足元を見る。

 自分を庇った男が、腹を押さえて倒れていた。

 指の隙間から血が溢れ続けている。


「おい」


 樹はその場へ膝をついた。


「しっかりして。今、止血を——」


「お嬢……」


 男が苦しそうに目を開ける。


「よかった……無事で」


「喋るな」


 樹の声が震えた。


「誰か! 車を回せ! 早く!」


 周囲の者が動く。

 樹は自分のシャツが血で汚れるのも構わず、傷口へ手を押し当てた。


 手のひらが熱い。

 赤い。

 また血だ。

 自分が迷ったから、この人は刺された。


 鼻先に、鉄錆に似た生々しい匂いが立ちのぼった。

 押さえた手のひらへ、まだ熱いものが溢れてくる。


「……俺の、せいで」


 気づけば、声が漏れていた。


「樹」


 征士郎の手が肩に触れる。


「今はそいつを運ぶ。立て」


 樹は動けなかった。


「樹!」


 強い声で呼ばれ、ようやく顔を上げる。


 征士郎も返り血を浴びていた。頬の赤い筋も、シャツの汚れも、闇の中ではすべて赤黒く染まって見える。その姿を見た瞬間、胃の底がひっくり返るような吐き気がした。


 自分も同じだ。手も、服も。


 全部が血にまみれている。


 + + +


 負傷者の搬送や後始末に追われ、九条会がその場を引き払う頃には夜明けが近づいていた。


 九条会の車列の一台、その後部座席に樹と征士郎は並んで座っていた。

 窓の外では、倉庫街の街灯が一定の間隔で後方へ流れていく。


 樹の脇腹には応急処置が施されていた。帰ったら、九条が抱える医師に診せることになるだろう。

 けれど、その程度の怪我など今はどうでもよかった。


 自分を庇った男は、別の車で病院へ向かった。

 意識はなかった。助かるかどうかも、まだ分からない。


 樹は膝の上に置いた自分の手を見ていた。

 拭いた後も、爪の際に乾いた血が残っている。


「樹」


 隣から征士郎が呼んだ。


「……何」


「最近、動きが悪いぞ」


 樹の指がわずかに動く。


 征士郎は前を向いたまま続けた。


「今日だけじゃない。ここ何回か、狙いが甘い。前なら迷わなかったところで手を止めてる」


「……」


「何かあるのか」


 樹は答えなかった。


 車のエンジン音だけが低く続く。


「今日のは、お前らしくなかった」


「分かってる」


「分かってるなら——」


「怖いんだ」


 征士郎は、樹の言葉に動きを止めた。


 樹は窓の外を見たままだった。


「俺、本当は……ずっと怖かったんだと思う。人を傷つけるのが」


 樹は自嘲するように、ほんの少し口元を歪めた。


「おかしいよね。何人も傷つけて、殺したことだってあるのに。今さらそんなこと言っても」


「知ってたよ」


 征士郎は即座に答えた。


 樹がはっと顔を向けると、征士郎は苦さの混じった色を顔に浮かべていた。


「……え?」


「お前が人を傷つけるの嫌いなのくらい、昔から知ってる」


 樹は言葉を失った。


「初めて会長に刃物持たされた頃、お前、終わった後いつも隠れて吐いてただろ」


 遠い記憶が蘇る。


 小さな手。

 重すぎる刃。

 父の冷たい声。


 失敗すれば叱責される。

 泣けば弱いと言われる。


 だから、泣かなくなった。

 怖くないふりをするようになった。


「……覚えてたの」


「忘れるかよ」


 征士郎は低く言った。


「あの頃のお前、夜になると俺の部屋に来てたじゃねえか。何も言わずに隅で座って、そのうち勝手に寝てた」


「……そんなことしてたっけ」


「してた」


 征士郎の口元に、ごく微かな笑いが浮かんだ。

 だが、それはすぐに消える。


「お前は、昔からそういうやつだ」


 樹は俯いた。


「じゃあ……何で」


「何で止めなかったって?」


 樹は答えない。


 征士郎も少し黙った。


「止められるなら、止めてたよ」


 その声には、静かな痛みがあった。


「俺だって、お前にこんなことさせたくなかった」


 窓の外へ、暗い海が一瞬だけ見えた。


「だけどお前は九条に生まれたし、俺は九条に引き取られた。嫌だからって、全部放り出して簡単に抜けられる世界なら……とっくにそうしてる」


 樹は唇を噛んだ。


「……うん」


「怖くたって、やるしかない時がある。今日みたいに迷ったら、死ぬぞ」


「分かってる」


 少し強く言うと、征士郎はそれ以上責めなかった。

 そして、車内にまた沈黙が落ちる。


 樹は膝の上で、拳を握った。

 本当のことは言えなかった。


 人を傷つけるのが怖い——それは嘘ではない。

 けれど今日、自分の指を止めた一番の理由は別にある。


 黒崎だったから。

 玲央の側の人間だったから。

 もしそのことを征士郎に言えば。もし、玲央と今も会っていることまで知られれば。


 考えるだけで胸が冷える。


「……征士郎。俺をかばったあいつ、助かるかな」


「助かる。……大丈夫だ、医者に任せとけ」


 征士郎は迷わず言った。


「……うん」


 それが事実なのか、樹を安心させるためなのかは分からなかった。


 樹はシートへ背を預け、目を閉じた。

 暗いまぶたの裏に浮かんできたのは、また玲央だった。


 温室の、ガラス越しのきらめく陽光。


『好きだ』


 何度でも言えると笑った、あの屈託のない顔。


 あの人の手には、まだこんな血はついていない。剣を握ることはあっても、少なくとも人を殺すためには使っていない。

 黒崎の皆も、きっと玲央だけは、同じ側へ来させまいとしている。


 樹の胸の奥に、ひどく相反する二つの感情がせめぎ合っていた。


 玲央には、知らないままでいてほしい。

 血の匂いなどと無縁な世界で、誰かを刺した時の手応えも、目の前で人が倒れる光景も、自分のために誰かが傷つく恐ろしさも何ひとつ知らないまま、あの明るい笑顔でいてほしい。

 こんなに血塗れなのは、俺だけでいい。


 なのに。

 そのすぐ隣で、別の声がする。


 ——助けて。


 ここから連れ出して。

 もうこんなこと、したくない。

 花を育ててくだらない話をして、好きな人の腕の中で、何も警戒せずに目を閉じられる場所へ行きたい。


 玲央なら。

 あの人なら。

 自分を、ここではないどこかへ連れていってくれるのではないか。


 樹は目を閉じたまま、拳をさらに強く握り締める。

 それは玲央に背負わせていい願いではない。

 自分の血を、あの人にまで浴びせることになる。


 分かっていても、自分はもう知ってしまった。

 誰かに抱きしめられる温かさを。好きだと言われる声を。明日の放課後を待ち遠しいと思う感覚を。知らなかった頃には、戻れなかった。


 車は夜の街を走り続けていた。

 窓の外、水平線の向こうが、かすかに白み始めている。


 夜が終わる。


 けれど樹には、自分がどちらへ向かえば朝に辿り着けるのか、分からなかった。


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