18 誓い
聖ゼノ学園の校舎裏を、初夏を思わせる爽やかな風が吹き抜けた。
少し前まで淡い色のチューリップが揺れていた放課後の花壇の横に、新しく植えたマリーゴールドの苗が、まだ頼りない葉を陽へ向かって広げている。
樹はその前にしゃがみ込み、いつものように土の状態を確かめていた。
けれど身体を少し捻った瞬間、脇腹に鈍い痛みが走り、樹は思わず手を止めた。
「……っ」
昨夜、黒崎の男が振るった刃は服を裂き、わずかに脇腹を掠めただけだった。手当ても済んでいるし、制服を着ていれば外からは分からない。
こんなものは怪我のうちにも入らない。
これまでの樹にとっては、そのはずだった。
「樹。どうした?」
すぐ隣から声が落ちてくる。
「……何が?」
樹は何食わぬ顔で土へ視線を戻したが、玲央は誤魔化されなかった。
「痛そうな顔した。怪我か?」
「してない」
「樹」
いつもの明るい声の呼びかけではなかった。
樹はしばらく玲央と見つめ合い、やがて諦めたように息を吐いた。
「……脇腹。もう手当てしてあるし、大丈夫」
玲央の表情が変わる。
「いつ怪我した」
樹は答えなかったが、それだけで玲央は何かを察したらしい。
「……昨日か?」
樹の指先が、土の上で止まる。
「うちの、黒崎のやつらとやったのか」
問いというより確認だった。
樹はゆっくりと頷いた。
玲央はそれきり、何も言わなくなる。
その沈黙が怖くて、樹は俯いた。
「大した傷じゃない。掠っただけだから」
「そういう問題じゃねえよ。それ……ちょっと間違ったら、死ぬかもしれなかったんだろ」
震える声が落ち、樹は思わず玲央を見た。
怒っているのだと思ったけれど、違った。
玲央の顔に浮かんでいたのは、恐怖だった。
「俺が知らないところで、お前が死んでたかもしれねえんだろ」
「……玲央」
「そんなの、嫌だ」
昨夜、自分を庇って倒れた九条の男の姿が目に浮かんだ。
腹から溢れた血。
征士郎が振るった刃。
地面に倒れた黒崎の男。
拭っても爪の間から消えなかった赤。
「俺も……嫌だ」
ぽつりと漏れた声に、玲央が顔を上げる。
樹は膝を抱えるようにして、その場へしゃがみ込んだままだった。
「昨日、手が止まった」
「……」
「黒崎の人間を見たら、玲央のことが浮かんで。あの人だって、お前の知ってる誰かかもしれないって思ったら、刺せなかった」
告白する声が、少しずつ掠れていく。
「そのせいで俺がやられかけて、うちの人が庇って刺されて……征士郎が相手を刺し返した」
玲央は息を呑んだ。
「俺、どうしたら良かったんだろう。あのままだったら、俺は死んでた。でも迷わず針を刺してたら、黒崎を殺してた」
樹は自分の手を見る。
昨日の血はもう洗い流した。
それでも、まだ赤く染まっているように見えた。
「俺、もう嫌なんだ」
初めて、はっきりと言った。
「本当はずっと嫌だった。怖かった。だけど、これしか知らなかったから……俺の人生は、こういうものだと思ってた」
声が震える。
「今さら殺したくないなんて思ったところで、俺がしてきたことは消えない。でも、もう誰かを傷つけたくないって思う自分もいて……なのに、九条から逃げられるわけでもない」
震えながら、顔を上げた。
玲央がこちらを見つめている。
自分とはまるで違う、陽の当たるところで育ったような人。
その姿を見るほど、昨夜から胸の内でせめぎ合っている二つの願いが、また息を吹き返す。
この人だけは、こちらへ引きずり込みたくない。
血に塗れさせたくない。
でも。
「俺、ずっとこのままなのかな」
とうとう口にした。
「ずっと九条で、ずっと誰かを傷つけて……いつか自分も殺されるまで、ここから出られないのかな」
「そんなこと言うな」
「でも——」
玲央が腕を伸ばした。
樹の身体が、強く引き寄せられる。
「……玲央」
玲央の胸へ顔を押しつける。
温かい。
昨夜、血だまりの中で冷え切った自分の身体の芯へ、玲央の温かさが流れ込んでくるようだった。
「俺が全部何とかするなんて、簡単には言えねえ」
頭上から玲央の声がした。
「だからって、お前を一生そのままになんかしたくない。死んでほしくない」
背中へ回った腕が、強くなる。
樹は目頭が熱くなるのを感じて、ぎゅっと目を閉じた。
「……樹とずっと、一緒にいたい」
その一言が、胸の一番柔らかな場所へ落ちた。
+ + +
「……どこ行くの」
花壇を離れてから、樹は何度目か分からない問いを口にした。
「いいから」
「剣道部は? また真樹先輩に怒られるよ」
「今は樹の方が大事」
さらっと言う玲央に、樹はまた心が揺れる。
向かっている先に気づいた時、樹は足を止めた。
「……聖堂? どうして」
「行きたくなったから」
「玲央って、そんなに信心深かった?」
「全然」
「だろうね」
「ひどくね?」
少しだけ、いつもの調子が戻る。
樹は呆れながらも玲央についていった。
重い木の扉を押す。
夕方の聖堂は静寂に包まれていた。
高窓から差し込む陽は金色を帯び、長椅子の間へ細長い光の帯を落としている。
そして。
「……あ」
前方に一人、見慣れた小柄な背中があった。
祭壇へ向かって祈っていた奏が顔を上げ、振り返る。
「樹くん」
それから、その隣に立つ玲央を見ると、奏の目がほんの少しだけ大きくなった。
「……その人は?」
樹が紹介するより早く、玲央が軽く頭を下げた。
「三年の黒崎玲央だ。えっと……白石だっけ?」
「僕のこと知ってるんですか?」
「樹から聞いてる。委員長で、聖堂でよく祈ってて、いいやつだって」
「ちょっと、最後は言ってないけど?」
「じゃあ俺が足した」
奏が思わず笑う。
だがすぐに、二人を見比べる表情が変わった。
「そっか。……最近、樹の顔が変わった理由、そういうことなんだね」
樹が固まった。
奏は静かな声で問いかける。
「だけど黒崎、って……樹くん、この前ここで話してくれたことって、もしかして」
樹は答えられなかった。
けれど奏はその沈黙で何かを察したらしく、少しだけ悲しそうに目を伏せた。
玲央が祭壇の方へ視線を向ける。
「なあ、白石。頼みがある」
「僕に?」
玲央は一度息を吸った。
「証人になってほしい」
樹も驚いて玲央を見上げる。
玲央は少し照れくさそうに頭を掻くが、その顔から、照れが消える。
「ちゃんと誓いたいんだ」
樹は玲央を見つめた。
「さっき樹が、このままずっとここから出られないのかって言っただろ。俺、それ聞いて思ったんだ」
玲央は樹の前へ立つ。
「俺、九条と黒崎がこんなふうに殺し合ってるの、終わらせたい」
樹が息を呑んだ。
「どうやったらいいかは、まだ分かんねえ。でも終わらせたい。お前が誰かを傷つけなくても、誰にも傷つけられずに、生きていけるようにしたい」
「玲央……」
「それと」
玲央が笑う。
樹の心を溶かしてくれた、明るい笑顔。
「お前が笑ってる顔を、俺が、ずっと守りたい」
胸の奥が震えた。
玲央の手が伸び、樹の頭を優しく撫でた。
それから、普段は目元を隠している分厚い前髪を、そっと指ですくい上げた。
光が差し、隠れていた樹の瞳が露わになる。
透き通った瞳が、揺れる水面のように潤んでいた。
「……泣くなよ」
「誰のせいだよ」
樹が笑った拍子に、涙が一粒、頬を伝う。
どうして、この人を愛してしまったのだろう。
よりによって、黒崎の息子を。
敵でなければよかった。
もっと誰もが認める相手ならよかった。
何度そう思ったか分からない。
それでも。
冷たく血に塗れた世界の外側から、初めて自分へ手を差し伸べてくれたのは玲央だった。
九条の暗器使い、若くして何人も手にかけてきた「お嬢」だと知ってなお。
ただ樹として、笑ってほしいと言ってくれた。
「樹」
玲央が片手を差し出す。
「俺は、お前が好きだ」
静かな聖堂に、その声が響いた。
「何があっても、それだけは変わらない。お前と一緒に、ずっと生きていきたい」
樹は差し出された手を見た。
それから、ゆっくりと、自分の手を重ねた。
「……俺も」
指を絡める。
「俺も玲央と生きたい」
声が震える。
それでも、もう俯かなかった。
「この先、どうなるか分からない。俺がしてきたことも消えないし、もしかしたら……どうしても一緒にいられなくなる日が来るかもしれない」
樹は泣きながら笑った。
「でも」
玲央の手を、強く握る。
「俺の心は、もう玲央のものだから」
玲央の目が見開かれた。
「死ぬまでずっと、玲央だけのものだよ」
樹は、今度こそ花が咲くように笑った。
玲央の指にも力がこもる。
奏は少し離れたところで、何も言わず二人を見守っていた。
樹がそちらを見る。
「……奏」
「うん」
「こんなの、神様に怒られるかな」
奏は穏やかに首を振る。
「愛し合うって誓ってる人たちを、神さまはきっと怒らないよ」
樹は少しだけ目を細めた。
神も仏も、今まで一度として、自分を血の中から引き上げてはくれなかった。
祈ったところで父の命令が消えるわけでもなく、誰かが傷つかなくなるわけでもない。
救いなどないと思っていたこの世界で、それでもいま目の前に、自分の手を握っている人がいる。
樹は玲央と向き合った。
「玲央。もう一回だけ、言って」
「任せとけ。何回でも言ってやる」
玲央が笑った。
「……好きだ、樹」
「……俺も」
祭壇の上では、十字架が夕陽を受けていた。奏がその誓いを、祭壇の前で見届けていた。
二人にとっては、それで十分だった。
玲央と樹はもう一度強く、手を握り合う。
ともに生きる。
——死が、二人を分かつまで。
+ + +
その時、聖堂入口の半ば開いた重い扉の陰に、一人の人影が立っていた。
大柄の体躯は、雷に打たれた彫像のように微動だにしない。
樹が下校時刻になっても校門まで来ず、何気なくあちこちを探しに来ただけだった。
ただ扉の向こうに樹の声がして足を止め、そのまま動けなくなった。
祭壇の前で玲央と樹が、手を取り合っている。
樹が泣きながら、幸せそうに笑っている。
あんな顔をするのを、知らなかった。
幼い頃からずっと傍にいた。ともに苛烈な訓練を課された日も、血まみれになって帰ってきた夜も。
涙をこらえながら、何も言わず自分の部屋へ転がり込んできた幼い樹も。
全部、見てきた。
それなのに。
征士郎は、頭が真っ白になったままその場へ立ち尽くしていた。




