19 許されぬ恋
【原作『ロミオとジュリエット』第三幕】
ロミオの友人マキューシオが、ジュリエットの従兄ティボルトとの争いで命を落とす。激怒したロミオはティボルトを討ち、ヴェローナから追放される。ようやく結ばれた二人は引き裂かれる運命に翻弄されながらも、最後の一夜を過ごす。
聖堂で玲央と誓いを交わした、その日の夕方。
校門を出た樹は、いつもの場所にあるはずの黒塗りの車が見当たらないことに気づき、足を止めた。
普段なら少し離れた路肩に九条会の車が停まり、運転席には構成員が、後部座席にはたいてい征士郎が先に乗り込んでいる。ところが今日は車もなければ、征士郎の姿もない。スマートフォンを確かめても、迎えが遅れるという連絡は入っていなかった。
「……珍しいな」
小さく呟いたものの、それ以上深く考える気にはならなかった。
聖堂での出来事が、まだ胸の内を占めていたからだ。
『俺の心は、もう玲央のものだから』
自分で口にした言葉が不意に蘇り、樹は今さらのように首をすくめた。あんなことを、よく言えたものだ。それも奏が見ている前で。
頬へ熱が上がる。それでも、後悔はなかった。
玲央と繋いだ手の温もりが、今も指の間に残っているような気がして、表情が和らぐ。
結局その日、樹は珍しく一人で九条邸へ帰った。
+ + +
自室へ戻った樹は制服を脱ぎ、部屋着へ着替えてから机の前に腰を下ろした。
部屋の窓辺には小さな鉢植えがいくつも並び、棚には園芸の本や、自分で乾燥させた葉や花を挟んだ植物標本が収められている。
父の命令も、九条会の抗争も、この部屋へ入ればほんの少しだけ遠ざかる。
脇腹には昨夜受けた傷がまだ残っていたが、今はその鈍い痛みさえ気にならなかった。
見ていた夢を反芻するように、今日のことを思い出す。
玲央が心配してくれた。抱きしめてくれた。
それから、聖堂で——
こん、と扉が鳴った。
「はい」
振り返ると、ゆっくりと扉が開き、征士郎が入ってきた。
「……征士郎」
樹は思わず眉を上げた。
彼がこの部屋へ来ること自体は珍しくない。むしろ幼い頃から、互いの部屋へ勝手に出入りするような間柄だった。それだけに、わざわざ控えめにノックをしてから入ってきたことの方が気にかかった。
「今日、先に帰った? 迎えも来てなかったけど……何かあったの」
征士郎は答えなかった。
背後の扉を静かに閉め、しばらく樹を見つめている。
ひどく表情が硬い。
怒っているというより、何かを必死に押し殺しているような顔だった。
その顔を見ると、じわりと冷たい不安が胸に広がる。
「……どうしたの?」
征士郎は数秒黙ったあと、やがて低い声で言った。
「今日、聖堂にいたな」
心臓が強く跳ねた。
「……え」
「見た。お前が、黒崎の若と一緒にいたのを」
何も言えなかった。
どこから見ていたのか。いつからいたのか。どこまで聞かれたのか。
いくつもの考えが一度に頭を駆け巡ったものの、征士郎の顔を見れば、確かめるまでもなかった。
「……あれは」
掠れた声が漏れる。
征士郎はゆっくりと歩み寄りながら、樹から目を離さなかった。
「俺の見間違いだと思った。たまたま手を握ってただけとか、何か事情があるんだとか……」
一度言葉を切ると、その喉が苦しそうに動いた。
「でも、あれ……まるで結婚式みたいだった」
血の気が引いていく。
「……何かの間違いだよな?」
征士郎の目が揺れた。
縋るような目だった。
痛いほどの沈黙が部屋へ落ちた。
鉢植えの葉が、窓から入り込む夕方の風を受けて、微かに揺れている。樹は拳を握りしめながら、必死に言葉を探した。
誤魔化そうと思えば、できるかもしれない。
ふざけていただけだと言うこともできる。奏もいたのだから、ただ話をしていただけだと押し通すこともできる。
けれど数時間前、自分は玲央に誓った。
——俺の心は、もう玲央のものだから。
あの言葉を、嘘にはしたくなかった。
「……間違いじゃない」
征士郎の眉が、ぴくりと動いた。
樹は立ち上がった。足が震えているのが自分でも分かったが、それでも目を逸らさなかった。
「俺、玲央が好きなんだ」
「……何?」
「黒崎だって知る前から会ってた。学校で話して、花壇で一緒に過ごして……気づいたら、好きになってた」
征士郎の表情から、何かがすっと抜け落ちた。
「もう、殺し合いたくない」
言い始めたら、止められなくなった。
「昨日だってそうだ。俺が黒崎の人間を傷つけるのを躊躇したせいで、こっちの人間が刺された。でも、だからって次から迷わず殺せる人間に、もうなりたくない」
「やめろ」
「俺、玲央と一緒にいたい」
「やめろって言ってるだろ!」
轟音が響き、樹の身体がびくりと震える。
征士郎の拳が、机へ叩きつけられていた。
厚い木の天板が揺れ、その端に置かれていた小さな鉢植えが傾く。
「あ——」
手を伸ばした時には遅かった。
鉢が床へ落ち、乾いた音を立てて砕ける。黒い土が床一面へ散らばり、細い茎を伸ばしていた植物が、割れた陶器の間へ投げ出された。
樹は呆然とそれを見下ろした。
征士郎の視線も一瞬だけ鉢へ落ちたが、すぐに樹へ戻る。
「……そんなことが」
低く、聞いたことのない声だった。
「そんなことが、許されるわけないだろ」
その目には、抗争の最中に敵へ向けるのと同じ殺気が宿っていた。
幼い頃からずっと自分を守ってくれた彼が、今、自分の部屋でそんな目をしている。
「黒崎に、九条の人間が何人殺されたと思ってるんだ」
「……分かってる」
「分かってないだろ!」
征士郎が怒鳴った。
普段は口数さえ少ない彼から、これほど大きな声を浴びせられたことはほとんどない。
「俺らだって殺してる。向こうの人間を何人も。昨日だけの話じゃない、何年も、何年もそうしてきた」
樹は言い返せず、ただ拳を握った。
「俺の親父だってそうだ!」
征士郎の叫びは止まらなかった。
「親父が死んだ時、俺は何が起きたのかもろくに分かってなかった。棺桶の顔を見ても、寝てるみたいだと思ってたよ」
机に叩きつけられたままの拳が震えている。
「それからこの家で育って、お前と一緒に生きてきた。黒崎に誰か殺されるたびに葬式に出て、こっちがやり返して、また向こうが来る。そうやって今まで来たんだ」
「征士郎……」
「その黒崎の息子と、お前が?」
口元が歪む。
「愛し合ってます、殺し合いはやめましょうって?」
樹は唇を噛んだ。
「そんな簡単な話じゃねえんだよ!」
「分かってるよ!」
今度は樹の声が弾けた。
「分かってるから苦しいんだろ!」
征士郎が黙る。
荒い息だけが部屋に響いた。
「俺だって忘れてない。今まで自分が何してきたかも、黒崎に何されたかも、全部」
「だったら——」
「でも、だからって永遠に殺し続けるのかよ!」
涙で視界が揺れた。
「征士郎の父さんが死んだから黒崎を殺して、黒崎の誰かが死んだから向こうが俺たちを殺して、それでまた俺たちがやり返す。それを、いつまで続けるんだよ」
返事はなかった。
「俺はもう、嫌だ」
声が震える。
「誰かを傷つけるのも、人が死ぬのも怖い。俺だって、死にたくない」
征士郎の顔が苦しげに歪んだ。
その小さな変化を見て、樹も胸が苦しくなる。
怒っていても、黒崎を憎んでいても、その奥に何があるのかを、樹は知っている。
征士郎はずっと、自分を守ってきてくれたのだから。
「樹」
征士郎が近づき、大きな両手で肩を掴んだ。
痛いほどの力だった。
「お前がもう手を下したくないっていうなら、俺がどうにかする」
樹は目を見開いた。
「……え?」
「会長に言う。お前を抗争に出すなって」
「そんな——」
「俺が代わりにやる。前に出るのも、始末するのも、全部俺がやる。会長に半殺しにされたって、俺が頼み込んでやる」
肩を掴む手に、さらに力がこもる。
「だから、あの若だけはよせ」
必死な声音だった。
「征士郎……」
「黒崎じゃなきゃ誰でもいい。お前が誰を好きになったって、俺は文句なんか言わない。九条を出たいなら、それだって……できるところまで俺が何とかしてやる」
一度息を呑み、それから、絞り出すように続けた。
「でも、黒崎だけは駄目だ。あいつとじゃ、お前は幸せになれない」
「……」
「頼む、樹」
胸が締めつけられた。
征士郎が。
あの征士郎が。
頼む、と口にしている。
誰より自分を守ってくれた征士郎。ずっと兄弟のように、この家で生きてきた。
だからこそ、嘘をつくことはできなかった。
「……嫌だ」
肩を掴む指が止まった。
「樹」
「嫌だ!」
樹は震える手で、征士郎を振りほどいた。
「俺は玲央が好きなんだ!」
声が部屋いっぱいに響く。
「もし最初から知ってたら、近づかなかったかもしれない。でも、もう好きになっちゃったんだよ」
征士郎は何も言わない。
その沈黙が怖かった。それでも、ここで黙れば、今まで自分が口にしてきたものまで全部なかったことになる気がした。
「玲央だけは、俺を九条の『お嬢』や人殺しの道具扱いしなかった。花が好きな俺を、笑う俺を、全部そのまま好きだって言ってくれたんだ」
「やめろ」
「征士郎、分かって」
「やめろ!」
「お願いだから!」
泣きながら叫んだ。
喉がひりついた。
「俺、初めてなんだ。こんなふうに、誰かと一緒に生きたいって思ったの」
征士郎の顔が決定的に凍りつく。
一瞬だけその目を深い痛みがよぎり、次の瞬間には踵を返した。
「……征士郎?」
返事はない。
「待って、征士郎!」
扉が乱暴に音を立てて開く。
「どこ行くんだよ!」
駆け寄ろうとするも、床に落ちた鉢の欠片を踏みそうになり、樹ははっと足を引く。肩へ伸ばした指は届かなかった。
「待って、お願いだから!」
征士郎は振り返らず、廊下を大股に進んでいく。
「征士郎!」
その背中が階段の向こうへ消え、やがて玄関の方から、荒々しく扉の閉まる音が響いた。
静寂が戻る。
樹はしばらく動けなかった。
やがて部屋を振り返ると、床には砕けた植木鉢と散らばった土、その上に根を剥き出しにした小さな植物が投げ出されている。
樹はその前へしゃがみ込み、震える指で細い茎を起こすと、間に合わせの鉢にそっと移し替えた。
頭も心もぐしゃぐしゃのまま床を片付けていると、ある考えに思い至る。
「……まさか、征士郎」
樹ははっと顔を上げた。
+ + +
同じ頃、黒崎組本邸の大広間では、修吾が座卓の向こうに腰を下ろしていた。
真正面には玲央が正座している。
修吾は湯呑みを置き、息子の妙に改まった様子を眺めた。
「で? 話ってのは何だ」
着流し姿の修吾は、いつもと変わらず鷹揚に構えている。玲央が珍しく真面目な顔で話をしたいと言い出したのも、学校か進路のことだろうとでも考えている風だった。
玲央は膝の上で拳を握った。
「父ちゃん。九条と、もう争うのやめられねえかな」
修吾の手が止まった。
ほんのわずかな変化だった。
「……何?」
「九条会と黒崎組。これ以上、殺し合うのをやめられないかって言った」
玲央は真っ直ぐ父を見た。視線を受け止める修吾の顔から、笑みが消える。
「お前が口出すことじゃねえ」
声が低くなる。
「これはガキの喧嘩じゃねえんだ。何十年も積もった話だ。こっちにも死んだ人間がいる。向こうにもいる。はい今日から仲直りしましょうで済むなら、とっくにやってる」
「でも、このままじゃまた誰か死ぬだろ」
「それを承知で、この看板背負ってんだよ」
「俺は承知してねえ」
「だからお前には背負わせてねえだろうが!」
一喝され、玲央が息を呑む。
修吾の体から、じわりと気迫が滲み出した。
「俺がお前を抗争に出したことがあるか」
「……ない」
「蒼介を護衛につけてんのも、危険な目に遭わせねえためだ。こっちの世界へ首突っ込むな。お前は学校行って、好きなことしてりゃいい」
「俺だけ関係ないふりしてられないんだよ。九条の中にも、もう戦いたくないやつがいる」
玲央は身を乗り出した。
修吾の眉が動く。
「誰の話だ」
玲央は一瞬、答えを躊躇った。
ここで名前を出せば、何かが決定的に変わる予感がした。
それでも聖堂で繋いだ手を思い浮かべ、告げた。
「九条樹」
空気が変わった。
修吾の顔から、血の気が引いていく。
玲央にも分かるほどはっきりとした変化だった。
「父ちゃん?」
「九条……雅臣の、倅か」
今度は玲央が目を瞬いた。
父が口にした九条会長の名前は、もっと深い場所にしまい込んでいたものを、不意に引きずり出されたような響きがあった。
玲央は拳を握り直し、言葉を継ぐ。
「そうだよ。俺、樹を愛してる」
その瞬間、修吾の表情が完全に変わった。
「……何だと?」
「好きなんだ。樹も、俺を好きだって言ってくれた」
玲央は退かなかった。
「やめろ」
「だから俺、九条と黒崎が殺し合ってるのを——」
「やめろ!」
怒声が大広間を震わせた。
目を見開いて固まる玲央の前で、修吾は立ち上がっていた。
普段の鷹揚さは完全に消え、顔色を失っている。その目が恐ろしいほど鋭く、玲央を射抜いた。
「父ちゃん……?」
「玲央」
低い声だった。
「その話が、ただ『九条と争うのをやめたい』ってだけなら、まだガキの戯言で済ませてやった」
「……」
「だが」
修吾の口元が歪んだ。
「そういう事情なら、なおさら駄目だ。許さねえ」
玲央も立ち上がった。
「何でだよ!」
「絶対に許さねえ!」
父と子の声が真正面からぶつかった。
玲央は怯まない。
「理由を言えよ!」
「……」
「九条だからか? 樹が九条雅臣の息子だから?」
ほんの一瞬、修吾の目が揺れるのを、玲央は見逃さなかった。
「父ちゃん」
「……お前には関係ねえ」
修吾は玲央を睨みつけた。
その目の奥にあるものは、玲央がこれまで父に見てきた怒りのどれとも違っていた。
痛みと後悔と、それよりもっと古い何かが、長い年月の底から一度に浮かび上がり、どろどろと渦巻いている。
「よりによって……」
修吾が呟く。
あまりに小さな声で、玲央にはほとんど聞き取れなかった。
「雅臣の息子なんざ……」
その名前が、古い傷口をもう一度開いたように、大広間へ重く落ちた。




