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8 開花


 天城連合の総裁襲名披露について、それぞれの家で話が出てから一週間ほどが過ぎた。


 春はいつの間にか深まり、聖ゼノ学園の中庭にも、午後になると柔らかな日差しが長く残るようになっていた。

 校舎裏の花壇では、固く閉じていたチューリップの蕾が次々とほどけている。

 白に近い淡桃色。

 透き通るような柔らかな黄色。

 陽の当たり方によってはほとんど白く見える、淡い紫。

 派手な原色ではなく、春霞をそのまま花弁へ移したような色ばかりだった。


 樹は花壇の前にしゃがみ込み、しばらく何もせず、その花を眺めていた。


「……咲いた」


 誰に聞かせるでもなく、声がこぼれる。

 去年の秋、園芸部の先輩たちが植えていったものを、新入部員である樹が春になってから引き継いだ花壇だった。

 それでも、毎日のように土の乾きを確かめ、雑草を抜き、伸びすぎた葉に気を配っているうちに、いつしか自分が育てている花という実感が芽生えていた。


 どんな色の花が咲くんだろうと、毎日世話をした。

 だから、なおさら嬉しい。


 樹は淡桃色の花弁へそっと指を近づけた。風がひとつ吹けば、それだけで花は小さく揺れ、午後の光を薄い花弁の向こうへ透かしてみせる。

 その様子を見ていると、不思議と呼吸が楽になった。


 昨夜も屋敷では、父の執務室へ何人もの組員が出入りしていた。黒崎の名が聞こえた。誰がどこで何をやった、どこのシノギを潰した、誰が報復を受けた——そんな話を、樹はもう幼い頃から数え切れないほど耳にしている。


 今夜になれば、また何かを命じられるかもしれない。

 それでも今は、土の匂いがしていた。

 鉄錆のような血の匂いではなく、湿った、柔らかな、温かい匂い。


 指先には小さな雑草の根が絡み、目の前には、誰に命じられなくても自然と咲いていくものがある。

 ほんのひと時だけ。

 それで十分だった。


「おお、咲いてる」


 聞き覚えのある声が背後から落ちてきた。

 今度は驚かなかった。

 樹はしゃがんだまま振り返る。


「……また来たんですか」


「その言い方ひどくない?」


 竹刀袋を肩に掛けた玲央が、少し心外そうに眉を上げていた。制服の袖を肘近くまでまくり、日に焼けた前腕を露わにしている。放課後の光を受けた姿は、同じ学生服姿でも、樹とはまるで違う存在のように見えた。


「剣道部、今日は練習ないんですか?」


「あるよ。だから行く途中」


「じゃあ、早く行かないと、また怒られますよ」


「ちょっとくらいいいだろ。俺、これ咲くの待ってたんだから」


 玲央はそう言って、もはや当然のように樹の隣へしゃがみ込んだ。

 最初に会った日から何度目だろう。

 あれ以来、玲央は剣道場へ向かう途中で、時折この花壇へ顔を出すようになっていた。


 二日とあけずにやってきて、「まだ咲かねえな」と蕾を眺めていく。

 樹には、なぜこの男がそれほどチューリップの開花を気にしているのか、いまだによく分からなかった。


「綺麗だなあ」


 玲央が素直に感嘆する。


「もっと赤とか黄色とか、そういう感じかと思ってた」


「品種によります。ここのは淡い色を揃えて植えたみたいですね」


「へえ。樹はどれが好き?」


「俺ですか?」


「うん」


 問われ、樹は改めて花壇を見渡した。


 どれが好きか。

 そんなことを聞かれるとは思っていなかった。


 良し悪しなら分かる。花弁が傷んでいる、茎が弱っている、葉の色がおかしい。けれど、ただ自分がどれを好きかという問いに答える必要など、普段の生活ではほとんどない。

 少し考えてから、樹は淡い紫の一輪を指した。


「……あれ、でしょうか」


「紫?」


「はい。少し青みがあって、綺麗なので」


「そっか」


 玲央は花壇を眺めたあと、樹の横顔に目を向けた。


「樹っぽいな」


 樹が振り向く。


「俺っぽい?」


「あー……なんとなく。うまく説明できねえけど」


「適当ですね」


 そう言いながらも、樹の声には棘がなかった。むしろ口元が、ごくわずかに緩んでいる。

 玲央もそれを見て、嬉しそうな顔をした。


「なんかやることある? 手入れ、俺も手伝う」


「え? ……剣道部へ行く途中なんじゃ」


「五分くらいなら平気」


「この間もそれで呼ばれてましたよね」


「まあいいじゃん。何すればいい?」


 樹は困ったように玲央を見上げた。

 追い返す気にはなれなかった。かといって、園芸にほとんど知識のない人間へ任せられることも多くない。


「……じゃあ、こっちの雑草を抜いてもらえますか。チューリップまで抜かないでくださいね」


「それくらい分かるって」


「本当に?」


「信用ねえなあ」


 玲央は笑いながら鞄と竹刀袋を脇へ置き、袖をさらにまくった。

 大きな手が土へ伸びる。

 その手つきは案の定雑で、雑草の根元を掴んで勢いよく引っ張ろうとしたので、樹が慌てて止めた。


「あ、ちょっと待ってください。そんなに強く引っ張ったら根が残ります」


「え、じゃあどうすんの?」


「根元を少し揺らして、土をほぐしてからです。ほら」


 樹が隣から手を伸ばす。

 玲央の指のすぐそばへ、細く白い指が触れた。


「こうやって……ゆっくり。それなら根も途中で切れません」


「なるほどな」


 妙に真剣な顔で頷く玲央がおかしくて、樹はまた少しだけ笑った。


「先輩、意外と素直ですね」


「俺、いつも素直だけど?」


「自分で言いますか」


「言う言う。褒められたら喜ぶし、腹減ったら腹減ったって言うし」


「それは素直というより、単純なんじゃ……」


「今なんか失礼なこと言った?」


「いえ、別に」


 樹は澄ました顔で雑草を抜き続ける。

 玲央は何やら不満そうにしていたが、すぐにまた土へ視線を戻した。

 そんなやり取りをしながら、二人で花壇を整えていく。


 遠くでは運動部の掛け声が聞こえ、校舎の窓から時折、笑い声が落ちてくる。怒号も刃物の音もない場所で、誰かと並び、花が咲いたのを眺めながら土へ手を入れる。そんな穏やかなひと時を、樹は生まれて初めて知った。


 ——居心地がいい。


 そう思った樹はその感覚に戸惑いながら、また目の前の雑草へ視線を落とした。


 + + +


 玲央は横目で樹を見ていた。

 最初に会った時から、妙に気になる一年生だった。

 理由を聞かれても困る。


 地味で、前髪は相変わらず目元を覆うほど長いし、黒縁眼鏡までかけている。制服も規則通りにきちっと着ていて、廊下ですれ違っただけなら、おそらく振り返ることもない。


 なのに一度言葉を交わすと、どこか印象に残る。

 おとなしいのに、こちらの言うことを何でも肯定するわけではない。口調は丁寧で柔らかいくせに、たまにさらりと妙なことを言う。

 そして何より、ふと前髪の隙間から覗く目が、ひどく印象的だった。


 静かな目だ。

 冷たくも見える。

 でも玲央には、それよりも——ひどく遠いところを見ているように思えた。


 同じ学校にいて、同じ制服を着ているのに、樹だけがどこか別の場所に一人で立っているような。


 だから最初は、ただ気になった。

 それだけだったはずだ。


「この花、咲き終わったらどうすんの?」


 玲央が尋ねると、樹は手を止めて花壇を見た。


「しばらくは葉を残しておきます。花が終わったからって、すぐ全部切るわけじゃないんです」


「へえ」


「葉が光を受けて、来年のための栄養を球根に蓄えるので。完全に枯れてから掘り上げて、乾燥させて保存します」


「また来年植えんの?」


「はい。秋になったら」


「そっか、チューリップって球根なんだよな。なんか玉ねぎみたいなやつだろ?」


 玲央は感心したように頷いた。


「そうですね。似てますけど、食べない方がいいですよ。毒があるので」


「は?」


 玲央の動きが止まった。


「チューリップの球根には毒があります。食べると吐き気がしたり、お腹を壊したりしますよ」


「えっ、これ!?」


 玲央が花壇を指差す。


「はい」


「こんな普通に学校の花壇に植わってんのに!?」


「普通に育てている分には何も問題ないですから」


「いや、そうだけど! さっきまで俺、玉ねぎみたいとか言ってたじゃん!」


「まさか食べるつもりだったんですか……?」


「いや、さすがに食わねえよ!? 信用ねえな!」


 玲央が慌てて言い返した。

 その顔がよほどおかしかったのだろう。

 樹の肩が揺れた。


「……ふ」


「おい」


「ふふっ……」


 玲央が目を見開く。

 樹は片手を口元へやったが、もう遅かった。


「あははっ……先輩、本当に食べそうな顔するから……」


「だから食わねえって!」


「分かってますよ」


「絶対分かってねえだろ!」


 樹はとうとう堪えきれなくなったように、声を上げて笑った。


 初めて聞く笑い声だった。

 いつも静かに言葉を選び、せいぜい微かに口元を緩める程度だった少年が、今は年相応の顔で笑っている。


 春の風が吹き、厚く額へ落としていた前髪がほんの一瞬だけ持ち上がった。

 眼鏡の奥、それまで断片しか見えなかった瞳が、光の中へ現れる。


 澄んでいた。

 陽を受けた虹彩はどこか淡く透けて、冷たい水の底に光が届いたようだった。


 けれど今は、その目に玲央が最初に感じた孤独の影がない。ただ、春の光の中で、樹は花がほころぶように笑っていた。


「……」


 玲央は、何も言えなくなった。

 胸の奥を不意に掴まれたようで、そこだけ急に自分のものではなくなったように落ち着かない。


「……先輩?」


 樹が笑いを収め、怪訝そうに首を傾げる。

 風はもう止み、前髪も元の位置へ戻っていた。


「あ……いや」


 玲央は慌てて目を逸らした。


「なんでもない」


 樹は少し不思議そうにしていたが、それ以上は追及せず、再び花壇へ向き直った。

 玲央も雑草へ手を伸ばす。けれど先ほどまでのようには、うまく土へ意識を戻せなかった。


 変だ。

 自分でもそう思う。


 ただ笑っただけだ。それなのに、もう一度、さっきの顔を見たいと思ってしまった。

 そう、できれば——自分が何かを言った時に。


 その時、剣道場の方から呼び声が聞こえた。


「玲央ー! またサボってんのかー!」


「あ、やべ」


「やっぱり遅刻じゃないですか」


「五分のつもりだったんだけどな」


「もう十五分くらいここにいますよ」


「マジ?」


 玲央は慌てて立ち上がり、竹刀袋を肩へ掛けた。


「じゃ、行ってくる」


「はい。怒られてきてください」


「そこは『頑張ってください』じゃねえの?」


 樹は少し考えてから、柔らかく笑う。


「……頑張ってください、玲央先輩」


 玲央の足が、一瞬だけ止まった。


 名前を呼ばれた。

 ただそれだけなのに、さっき胸の奥を掴んだ何かが、また小さく動いた。


「おう」


 玲央はそれをごまかすように大きく手を振った。


「またな、樹」


 駆けていく背中を、樹は花壇の前から見送った。


 その姿が渡り廊下の向こうへ消えてから、もう一度、咲いたばかりのチューリップを見る。

 風に揺れる淡い紫の花が、わけもなく、これまでとは少し違った彩りに見えた。


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