7 斬らぬ剣
「で、九条ってそんなヤバいの?」
広間から廊下に出た途端、真樹が玲央に尋ねる。
「知らね」
「お前の家の敵だろ」
「敵っつっても、俺は直接会ったことねえもん」
玲央は腕を頭の後ろで組み、廊下を歩く。
「ま、なんとなく話は聞いてるけど。黒いスーツで固めてて、陰気で、黒崎組のこと目の敵にしてるヤバい連中だって」
「偏見すごいな」
「組の連中がそう言ってんだよ」
「間違ってはいない」
蒼介が淡々と口を挟む。
真樹が「お」と振り向いた。
「経験者?」
「俺は何度かやり合ってる」
「マジ?」
「マジだ」
袖に隠れた蒼介の腕には、九条の刃物で負った古い傷もある。
もちろん、それを真樹に見せることはしなかった。
「少数だが、一人ひとりの質が高い。それに、手段を選ばない。まともな神経で相手をすると痛い目を見る」
「こわっ」
「特に若い連中には気をつけた方がいい」
「若いって、次の世代ってこと?」
玲央が横目で見る。
「ああ」
蒼介は少し考えてから言った。
「九条には、今『お嬢』と『狂犬』って呼ばれてる二人がいる」
「……お嬢? 女の子いるの?」
真樹が吹き出した。
「男だ」
「男なのにお嬢?」
「そう呼ばれてる」
玲央も眉を上げる。
「何それ」
「会長の息子だ。見た目は細くて、女と見間違うような顔をしてるが、毒や暗器を使わせれば相当なもんだ。昨日だって、うちの連中が何人も毒針にやられてる」
「えっ、昨日?」
「そうだ。敵に回した時、一番近づきたくない手合いだな。何を仕込んでくるか分からない」
「で、狂犬は?」
「九条の若頭。まだ高校生だ」
「高校生で若頭?」
さすがに玲央も驚いた。
「十六だ。腕は俺も見たことがある。近接なら相当強い」
「高校生二人が何やってんだよ」
玲央は半ば呆れたように笑った。
「怖え家だなあ、九条って」
蒼介は黙ったままだった。
あまりにも他人事な感想を真樹と言い合う玲央を、それでいいと見守るように。
+ + +
翌朝。
黒崎組の屋敷から歩いて数分、住宅地と倉庫街の境目に建つ古い木造の道場は、夜が明けたばかりで人の気配はほとんどない。黒崎が代々使ってきた場所だが、表に大きく組の名を掲げているわけではなく、知らない者が見れば、少し時代がかった私設の剣術道場にしか見えないだろう。
長く踏み締められた板張りの床を、庭の木々を渡る風の音と、時折どこかで鳴く鳥の声が包む。
その静寂の中を、一閃。
白刃が走った。
玲央は道着姿で広い板間に立ち、両手で真剣を握っていた。
昨日まで剣道場で竹刀を振るっていた高校生と同一人物とは思えないほど、その構えには隙がない。
踏み込む。
刃が翻る。
払い。
返し。
仮想の敵の脇腹から肩口へ斬り上げ、そのまま一歩退いて切っ先を向ける。
普段は人のよさそうに緩んでいる瞳が、刃を握った瞬間だけ異様なまでに研ぎ澄まされる。
そこに迷いも、力みもない。
幼い頃から黒崎修吾が叩き込んだ剣だった。
玲央は呼吸を整え、最後にもう一度、鋭く踏み込む。
斬撃が空気を裂いた。
残心。
動きを止め、静かに刃へ目を落とす。
やがて切っ先を下げ、拭い布で刃を清めてから、ゆっくりと鞘へ収めた。
鍔が鯉口へ触れる、小さな音。
それとともに、それまでの張り詰めた空気が、嘘のように消えた。
「……っあぁ~~~……疲れたぁ」
玲央はその場へ崩れ落ちた。
鞘に収めた刀を杖代わりに身体を支えかけ、慌てて脇へ置く。
「朝から何やってんだ俺……」
修吾の言いつけで、物心ついた頃から欠かしていない朝稽古だった。
竹刀や木刀でなく本身を持ち、毎朝ひたすら型を繰り返す。
「江戸時代かよ……」
玲央が天井を仰ぐ。
父いわく、『刀は抜いてから考えるんじゃ遅え。身体が先に動くまでやれ』とのことだが、玲央としては高校三年生の現代日本人が毎朝日本刀を振る必要性について、いまだに納得のいく説明を受けたことがない。
「別に剣道だけでよくねえ?」
「それ、親父の前で言ってみますか」
道場の入口から声がした。
玲央が顔を上げる。
「蒼介」
「見事でした、若」
「やめろよ朝から」
蒼介は道場へ上がると、壁に立て掛けてあった木刀を一本手に取った。この道場では、門下生への指導と稽古の取りまとめを蒼介が担っている。師範代、と呼ばれる立場だが、本人はその呼び名を口にしたがらなかった。
「せっかくだ。俺にも稽古をつけてください」
「えぇ~?」
玲央が心底嫌そうな声を出す。
「やっと終わったのに。俺、腹減った」
「一本だけ」
「めんどくせえなあ……」
口ではそう言いながら、玲央は立ち上がった。
真剣をきちんと刀掛けへ戻し、代わりに木刀を取る。
「一本な」
「はい」
二人が向かい合い、距離を取る。
蒼介が構えた。
玲央も木刀を正眼へ構える。
それだけだった。
蒼介の背筋を、ぞくりと冷たいものが這った。
空気が変わる。
さっきまで床へへたり込み、「疲れた」「腹減った」とぼやいていた男が消えている。
目の前にいるのは、ただの高校生ではなかった。
玲央は抗争の場に立たされたこともなければ、命を奪うために剣を抜いた経験もない。
なのに、この気配は殺気と呼ぶほかなかった。
もしこれが本身なら。
もし玲央が、本気で自分の命を奪おうとしているのなら。
そんな想像が頭をよぎり、蒼介の掌にじっとりと汗が滲んだ。
——血か。
ふと修吾の姿が重なる。
若い頃、刃一本で何人もの敵を黙らせたという男。
玲央はあの人の——
刹那、空気が動く。
しまった。
そう思った時には、もう遅い。
玲央の姿が沈む。
一歩。
視界の外から木刀が跳ね上がった。
蒼介が受けようとした瞬間には、軌道が変わっている。
次の瞬間。
木刀の先が、蒼介の首筋ぎりぎりで止まっていた。
「……」
数センチ。
いや、もっと近い。
動けば触れる距離。
蒼介の頬を、冷たい汗が一筋伝った。
「余計なこと考えてただろ」
玲央が言った。
そこにはもう、さっきまでの殺気はない。
「……参りました」
蒼介は木刀を下げ、深く頭を下げた。
「まだまだですね」
「んなこたぁねえよ」
玲央も木刀を下ろし、けろりと笑う。
「蒼介、組の連中じゃ一番強いだろ。俺だって気抜いたら普通に負けるって」
「気を抜かなければ負けないんでしょう」
「そういう意味じゃねえよ。めんどくせえなあ、お前」
玲央は木刀を片づけながら、大きく伸びをした。
「でも身体動かしたら余計腹減った。朝飯にしようぜ」
「若、さっき稽古前におにぎり食べてませんでしたか」
「あれは稽古前だからノーカン」
「どういう理屈です」
「運動したら全部消えんだよ」
何の屈託もなく笑いながら、玲央は先に道場を出ていく。
蒼介はしばらく、その背中を見送っていた。
剣を握れば、玲央は誰より鋭い。けれど、その刃を人へ向けようとはしないし、強さを誇ることもない。
黒崎という家に生まれながら、血の匂いとは関係のない世界で笑っていてほしい——修吾が玲央をカタギとして育てようとした理由を、蒼介は誰よりよく分かっているつもりだった。
それでも、もしこの男が黒崎の名を背負う日が来るなら、自分は迷わずその背中を支えるだろう。
それは組長の修吾への忠義だけではなく、幼い頃から弟のように見守ってきた玲央への情でもあった。
「蒼介ー! 何してんだよ! 飯なくなるぞ!」
出入口の扉から玲央の声が飛んでくる。
蒼介は目を閉じ、小さく息を吐いた。
「今行きますよ、若」
「若って呼ぶなって!」
朝の稽古場に、玲央の声が響いた。




