6 近づくな
重い木戸をくぐるなり、屋敷の奥から威勢のいい声が飛んできた。
「若、お帰りなさい!」
「若頭、護衛お疲れさまです!」
「おう。ただいま」
玲央が片手を上げ、蒼介はその後ろに影のように付き従った。
黒崎組の本拠は、外から見た印象そのままの古い日本家屋だった。太い梁が渡された玄関から、磨き込まれた板張りの廊下と幾重もの襖が奥へ続き、柱の傷や少し褪せた畳には、この家が経てきた年月そのものが染みついている。
もっとも、重々しい屋敷のつくりに反して、そこに出入りする男たちは妙に気安かった。
「若、今日の稽古どうでした?」
「死んだ」
「あっはっは、また先生にしごかれましたか!」
「お前ら楽しそうだな」
廊下を行き交う男たちは若い衆から古参まで、玲央を見れば気軽に声をかけてくる。九条会のように全員が揃いの服装をしていることもなく、黒いシャツにスラックスという者もいれば、柄の悪そうな開襟シャツを着た者、いかつい顔に似合わず庭仕事のための作務衣姿という者までいて、統一感はない。
玲央にとっては、それが物心ついた頃からの家の景色だった。
「しかし若頭は組の仕事の合間を縫って、若の護衛まで大変ですねえ。お疲れさまです!」
また別の男が蒼介へ深々と頭を下げる。
玲央がぴたりと止まった。
「おい」
「へ?」
「なんで蒼介にだけ『お疲れさま』なんだよ。俺が苦労させてるみてえじゃねえか」
「いや若、それは、その……」
「否定しろよ!」
強面のスキンヘッドの男が、玲央の前で小さくなって頭をかく。
「まあ確かに、若のお守りは骨が折れるからな」
「蒼介まで余計なこと言うな!」
周囲からどっと笑いが起こった。
「何笑ってんだてめえら!」
「すんません若!」
「全然反省してねえだろ!」
声を荒らげながらも、玲央自身も笑っている。
すると、ちょうど通りかかった若い組員が三人を見つけて足を止めた。
「あ、若。若頭。ちょうどよかったです。オヤジさんがお二人をお呼びですよ」
「父ちゃんが?」
「へい。大広間にいるから、戻ったら来いって」
「分かった」
玲央は鞄を近くの若い衆へ預け、そのまま奥へ向かった。
+ + +
大広間には、夕方の薄い光が障子越しに差し込んでいた。
上座に胡坐をかいていた男は、玲央たちが入ってくると、手にしていた湯呑みを畳へ置いた。
黒崎組組長、黒崎修吾。
紺地の着物をゆったりと纏っていても、玲央以上に厚みのある体格は隠せない。若い頃から剣術で鍛え上げた身体は今なお全く衰えを感じさせず、そこに座っているだけで威容を放っていた。
顔立ちには玲央とよく似たところがある。
日に焼けた肌に太い眉、笑えば人懐っこく見える口元。
しかし、目だけは別だった。
穏やかに細められている時でさえ、その奥には研ぎ澄まされた刃が収まっていると分かる。
それが抜かれた時のことを知っている人間ほど、この男の前では背筋を伸ばした。
「おう、帰ったか」
「父ちゃん、呼んだか?」
「ああ、呼んだ。座れ」
玲央は気楽に胡坐をかき、蒼介はその斜め後ろで正座した。
「親父、ご用件は」
「ああ。……で」
修吾の視線がさらにその後ろの、ちゃっかりと座る真樹へと移る。
「なんで真樹までいんだ?」
「はい! 遊びに来ました!」
「いつも元気だな、おめえは」
「ありがとうございます!」
「褒めてねえよ」
修吾が呆れたように笑う。
「まあいい。どうせこいつに隠したところで、玲央から全部聞き出すんだろ」
「さすがオヤジさん、話が分かる」
「誰がオヤジさんだ、カタギの高校生が」
修吾は一度咳払いをすると、表情をわずかに改めた。
「天城の代替わりが決まった」
蒼介の目が鋭くなる。
「蓮司さんの襲名ですか」
「そうだ。来週末、傘下の直系を集めて披露目をやるそうだ」
「へえ」
玲央はまるで他人事のように相槌を打った。組のことに関わっていない玲央にとっては、縁のない席の話だと思っていた。
「それで、お前に行ってもらう」
「……俺?」
玲央が自分の胸を指差した。
「蒼介と出てくれ」
「父ちゃんは?」
「俺は出ねえ」
一瞬。
広間に、ごく薄い沈黙が落ちた。
「なんでだよ。父ちゃんが行けばいいじゃん」
「……俺が行くと、話がややこしくなるんだよ」
「なんだ、それ」
玲央は首を傾げただけだったが、蒼介の眉間にはすぐに皺が寄った。
「天城からも話が来てる。今度はただの襲名披露じゃねえ。若い連中の顔合わせも兼ねて、各組の若頭や跡取り筋を連れてこいって話だ」
「じゃあ蒼介が行きゃいいじゃん。若頭なんだし」
「名代は蒼介だ。だが、俺も倅も顔を出さねえとなると、それはそれで角が立つ」
「親父。それは……」
蒼介が顔を曇らせた。
「若はカタギです」
「分かってる。組に入れるつもりなんかねえ。顔を出させるだけだ」
「ですが、組の行事には極力関わらせないのが親父の方針だったはずです。傘下が一堂に会する席に、若が黒崎の倅として出席すれば、それは——」
「分かってるっつってんだろ」
修吾の声にわずかな重みが乗り、蒼介は口を閉じた。怒鳴ったわけでもないのに、その一言で、隣に座っていた真樹まで居住まいを正した。
修吾はすぐに視線を逸らし、膝の上で太い指を組み直した。
「……今回は、それでも行ってもらいてえんだ」
珍しく歯切れが悪かった。
玲央が父の顔を覗き込む。
「なんかあんの?」
「別にねえ」
「いや、ある顔じゃん」
「うるせえな」
修吾は面倒そうに眉間を揉んだ。
それからしばらく黙り、結局詳しい理由を話さないまま、低い声で続けた。
「俺が出ねえのは天城にも話を通してある。お前はただ顔を見せるだけでいい。……そういうことにしとけ」
「雑だなあ」
「……頼む」
玲央は目を瞬いた。
修吾が息子に何かを「頼む」と言うことなど、めったにない。
「……まあ、いいけど」
「若」
蒼介が懸念を拭い去れない顔で玲央を見る。
「大丈夫だって。パーティ行くだけだろ?」
「そうそう!」
なぜか真樹が勢いよく手を挙げた。
「俺も行く!」
三人の視線が集中した。
「なんでだよ」
「パーティだろ? 飯、出んじゃん。俺、黒崎組の一般市民枠として端っこで大人しくしてるから」
「馬鹿野郎。お前は駄目だ」
修吾が即座に言い放った。
「えーっ、なんでですか!」
「カタギのガキが、わざわざ顔を出す場所じゃねえ」
「えっ、でも玲央だってカタギじゃないすか」
「……」
修吾が一瞬、言葉を詰まらせた。
「お前はほんとに、余計なことばっかり言いやがるな」
そこで蒼介が、控えめに口を挟んだ。
「親父。今回、正式な披露目のあとに祝宴があります。そちらは招待客の同伴者も受け入れると、案内にはありましたが」
「蒼介、お前まで何言い出す」
「いえ、俺自身は反対です。ただ、そういう枠があるという話です」
「えっ、じゃあ俺も入れるんですか!?」
「まだ決まってねえだろ!」
修吾が一喝すると、真樹は首をすくめた。
しばらく考え込んでから、修吾は深いため息を吐く。
「……祝宴だけだ。正式な席にはもちろん出さねえ。先方に確認を取って、許可が下りたらの話だぞ」
「やった!」
「まだ許可は下りてねえ! それから蒼介、こいつら二人を絶対に目の届くところから離すな」
「……承知しました」
蒼介のため息が、先ほどよりも一段深くなった。
修吾は苦笑していたが、ふとその目から笑いが消えた。
「あと、蒼介」
「はい」
「九条の連中には気をつけろ」
玲央が顔を上げる。
「九条?」
「向こうも来るだろうからな」
修吾の声が、少し低くなった。
「分かっています」
蒼介が静かに答える。
「よし。……じゃ、話は終わりだ」
修吾が再び湯呑みへ手を伸ばしたのを合図に、三人は立ち上がった。
玲央たちが広間を出ようとしたところで、修吾がもう一度だけ声をかける。
「玲央」
「ん?」
「いいか。九条の人間には、近づくなよ」
さっきよりもさらに低い声だった。
玲央が振り返ると、修吾はもう湯呑みに目を落としている。指先が、湯呑みの縁を一度、ぐいと強くなぞった。
「……はいはい」
玲央はそれ以上気に留めず、襖を閉めた。




