5 『若』
稽古が終わったばかりの剣道場には、まだ熱気がこもっていた。板張りの床には踏み込みの余韻が残り、汗と竹刀と古い木の匂いが重なっている。打ち込みの掛け声はもう途絶えていたが、耳の奥ではまだ残響が鳴っているようだった。
「うあぁ~、死ぬ……」
玲央は面を外すなり、その場に腰を落とした。額から顎へ汗が伝い、剣道着の襟元はすっかり色が変わっている。防具を外しただけでは到底足りず、上衣まで脱いで肩へ引っかけると、鍛えられた上半身に夕方の空気がひんやりと触れた。
「今日の先生、絶対なんか機嫌悪かっただろ。最後の切り返し、何本やらせんだよ」
「玲央が途中で『もう無理っす』とか大声で泣き入れるから増えたんだろ。先生、ちょっと楽しそうだったし」
「いや、俺は人類を代表して言った」
「おい人類代表、勝手に弱音の代弁すんのやめて。俺まで巻き込まれっし」
隣で同じように防具を外していた桐生真樹が、汗で張りついた前髪を乱暴に掻き上げた。玲央と同じ三年で、入学当初から何となくつるみ始め、それ以来、教師に怒られる時も、購買のパンを奪い合う時も、剣道場で死にかける時もだいたい一緒に過ごしてきた級友だった。
真樹は防具袋へ小手を放り込み、玲央の裸の肩を見て顔をしかめた。
「玲央、お前ほんとムカつく身体してんな~」
「なんだよ、急に」
「同じメニューやってんのに何でお前だけそんな仕上がってんだよ。なんかもう、胸板が暴力だろ」
「褒めてんのかそれ」
「九割悪口」
「じゃあ言うな」
玲央は笑いながらタオルで顔を拭った。真樹のほうも口では散々文句を言っているが、剣道部では上位に食い込む腕前で、試合になればかなりしぶとい。玲央には及ばないと、本人は認めたがらないけれど。
それでも、稽古が終われば二人ともただの男子高校生だった。
「腹減った」
「それ今日何回目?」
「ん~、四回目くらい?」
玲央が適当に数えてみせる。
「昼休みにパン三つ食っただろ」
「成長期だしな」
「その歳でまだ育つ気かよ?」
「おう、三メートルはいく」
「校舎の天井ぶち抜いてニュースになるぞ? 『聖ゼノ学園に巨大生徒現る』って」
「なんか真樹、さっきからツッコミ厳しくないか? 友達だろ?」
「友達だからツッコんでやってんの」
そんなくだらないやり取りをしながら、防具を片づけ、床に落ちた手ぬぐいを拾って、二人は制服へ着替えた。玲央がネクタイを適当に締めていると、真樹がふと思い出したように顔を上げた。
「そういやお前、きょう練習前どこ行ってたんだ? 俺、探しちゃったじゃんか」
「ああ」
玲央はネクタイを締める手を止め、放課後の校舎裏を思い出した。春の光と土の匂いの中で、一年生が花壇の前にしゃがみ込んでいた。
「園芸部のやつと喋ってた」
「……園芸部ぅ?」
真樹が怪訝そうな顔をした。
「なんだよ、その言い方」
「だって似合わねえじゃん。お前と園芸部」
「俺も花くらい見るわ」
「どうせチューリップとヒマワリくらいしか分かんねえくせに」
「失礼だな。あとアサガオも分かるぞ」
「小学生か」
真樹が吹き出した。玲央も笑ったが、すぐに少し考えるような顔になった。
「なんか、変なやつだった」
「どんな?」
「一年のやつが、ずっと一人で花壇にしゃがみ込んでてさ。具合悪いのかと思って声かけたら、園芸部ですって」
「それは普通じゃん」
「いや、普通なんだけど」
玲央は言葉を探した。最初に見た印象は地味で、長い前髪で顔を隠していたこと以外、目立つところなどなかったはずなのに。
「なんか妙に印象に残ってんだよな」
「一目惚れか~?」
「違えよ」
にやにやしている真樹を、玲央は鬱陶しそうに手で追い払った。
「前髪でほとんど顔見えねえし、地味そうだし、喋っても愛想ないし」
「褒める要素ゼロじゃん」
「でも、目が……前髪の隙間からちょっと見えたんだけどさ」
玲央はそこで言葉を切り、驚いて振り返った一年生の目を思い出した。真正面から見えたのは一瞬だったが、冷たいというよりひどく静かで、深い水の底を覗き込んだような、光の届かない色をしていた。それなのに、妙に目が離せなかった。
「……すげえ綺麗な目してた」
ぽつりとこぼすと、真樹は数秒黙ってから言った。
「やっぱ一目惚れじゃん」
「だから違うって!」
「いや今のはアウトだろ。『すげえ綺麗な目してた』はもう始まってるって。恋が」
「うっせえよ!」
玲央は丸めたタオルを真樹の顔面へ投げつけた。
「ぶはっ、暴力反対!」
「たかがタオルだろ!」
更衣スペースに笑い声が響いた。
それから二人は荷物をまとめ、まだ部活動を続けている生徒たちの間を抜けて校門へ向かった。すっかり日は傾き、校舎の窓には夕焼けの色が映っている。
校門を出たところで、玲央は見慣れた人影を見つけた。
「若、お疲れさまです」
相良蒼介だった。二十代半ばの、背が高く涼しげな切れ長の目をした男で、その静かな立ち姿には妙な鋭さがある。
「だから若はやめろって言ってんだろ。迎えなんかなくても一人で帰れるって、いつも言ってんのに」
玲央が即座に顔をしかめても、蒼介はまったく悪びれなかった。
「周りには真樹しかいないですから」
「俺はノーカンなんすか?」
真樹が口を挟む。
「お前はいろいろ知りすぎてるから今さらだ」
「ひどくないです?」
「事実だろ」
それだけ言って塀に寄りかかった蒼介を、真樹が面白そうに見た。
「ねえ蒼介さん、道場のついでに、うちの剣道部の顧問もやってくれません?」
「何で」
「だって強いじゃないすか。玲央と同じくらい」
玲央が横から鼻を鳴らした。
「いや、俺の方がつえーし」
「いやいや。お前と蒼介さんがガチでやったら、どっちが勝つか分かんねえじゃん」
蒼介は二人の会話を聞きながら、小さく息を吐いた。
「俺には似合わないよ、剣道の指南なんて真っ当な役目」
「何でですか。竹刀だって持てるでしょ」
「そういう意味じゃない」
短い言葉には、それ以上踏み込むな、と言われたような響きが混じっていた。真樹も一瞬だけ目を細めたものの、すぐにいつもの軽い調子へ戻る。
「ま、いいっすけど。剣道じゃなくたって、蒼介さんとはどうせよく遊びますしね」
「俺は遊んでるんじゃなくて、お前たちのお守りをしてやってるんだよ」
真樹をいなしながら蒼介はわずかに口元を緩めたが、ふと玲央の肩に下がった竹刀袋へ目を向けた。
竹刀と防具と審判が揃い、礼に始まり、礼に終わる。決められた場所で、決められた武器を使い、決められたところで止める世界。
蒼介はしばらくその竹刀袋を眺め、それから何も言わずに目を逸らした。
+ + +
三人が連れ立って歩き出す頃には、空に薄い夕闇が降り始めていた。駅へ向かう生徒たちの流れから外れ、玲央たちは住宅街のほうへ歩いていく。
迎えの車は、玲央が嫌がるので来ていない。よほどの用がなければ学校から家くらいは歩いて帰りたかったし、蒼介もそれに付き合っていた。途中まで帰り道が同じ真樹も、一緒にぶらぶらと歩く。
「そうだ。今日もお前んち寄っていい?」
「おう、来いよ」
玲央はあっさり答えたが、その横で蒼介がすぐに口を挟んだ。
「よくない」
「何でですか」
「お前みたいなカタギが、あんまりうちみたいなところに頻繁に出入りするな」
「いっつも蒼介さんはそれ言う。別にいいじゃないですか。玲央んちでしょ? 俺、今日も善良な一般市民としてお邪魔しますから」
真樹はまるで気にしていなかった。
「それだけじゃない」
「分かってますって。蒼介さんってほんと細かいですよねえ」
「お前が雑なんだ」
「だって俺ら友達じゃないですか」
真樹があまりにも簡単に言うので、玲央も横で笑った。
「そうそう。友達だろ」
「若まで乗らないでください」
「だから若って言うな!」
蒼介が眉間を押さえる傍らで、真樹はけらけら笑いながら歩いていた。玲央もまた、そんな真樹の気楽さにいつも助けられていた。
「お、着いた」
やがて玲央が顔を上げると、住宅街の先に長い塀が見えてきた。瓦を載せた高い塀と重厚な木造の門の向こうには、幾つもの棟が連なる巨大な日本家屋があり、夕暮れの中に沈む姿は旅館か旧家の邸宅にも見える。
ただ、門の前には、黒いシャツにゴールドチェーンのネックレスをつけた男と、派手な柄物の上着を着た男が立っていた。玲央の姿を見つけると、二人は揃って姿勢を正した。
「お帰りなせぇ」
低く、ドスの効いた声が重なると、真樹はもう慣れた様子で片手を上げた。
「毎度どうも~。善良な一般市民です」
蒼介は何も言わず、玲央も軽く手を上げただけだった。門の向こうからは、さらに数人の男たちの声ががやがやと聞こえてくる。
黒崎組。
この地域に古くから根を張る、任侠を掲げた暴力団。
そして、玲央と蒼介が帰る場所。
三人がくだらない話をしながら辿り着いたその家こそが、黒崎組の本拠地だった。




