4 硝子の檻
九条家の邸宅は、いわゆる極道の屋敷という言葉から想像されるものとは少し様子が違っていた。
高い塀と堅牢な門の向こうに建つのは、白と黒を基調にした三階建ての現代建築で、直線を多用した外壁には大きなガラス窓が嵌め込まれている。夜になれば植栽の足元から間接照明が灯り、事情を知らない人間が見れば、著名な建築家が手がけた高級住宅とでも思うかもしれない。
ただし、ガラス窓はすべて防弾加工が施されている。そして正門の脇には常に人が立ち、屋敷の周囲も見張りを怠らない。
車が敷地内へ入れば、黒い三つ揃いの男たちが一斉に頭を下げる。
「お帰りなさいませ、若頭」
「お疲れさまです、お嬢」
「若頭、例の仕事の確認が——」
「あとで聞く。用意しておけ」
「承知しました」
玄関へ向かうわずかな距離だけで、何人もの構成員とすれ違った。
この建物は九条家の住居であると同時に、急成長を続ける九条会の本拠でもある。
屋敷の中には応接室や会議室のほか、組織を統べる会長の執務室も設けられていた。
磨き上げられた石材の床と、無機質な間接照明。外から見れば洗練された邸宅だが、その壁の内側には金と暴力と、表へ出すことのできない秘密が無数に詰め込まれている。
「お帰りなさい」
玄関ホールの奥、廊下の向こうから女の声がした。
九条環。
樹の母であり、九条会会長夫人——組の者たちから「姐さん」と呼ばれる女だった。
環は淡い灰色の着物に深い紫の帯を締め、家の中でも髪はきりりと結い上げ、化粧も整えられている。
組員が始終出入りするこの家では、彼女が完全に気を抜くことのできる時間などないのかもしれない。
「ただいま、叔母さん」
征士郎が先に頭を下げる。
「ただいま」
樹も続いて挨拶すると、環の目が息子へと向いた。
「樹、高校はどう?」
「うん、大丈夫」
「……そう。ならよかったわ」
小さい頃から、何を聞かれても「大丈夫」と返すのが常の樹に、環はそれ以上を尋ねなかった。樹へ向ける声音は、母と息子の間で何を話せばいいのか探るように、いつも慎重だった。
母は自分を嫌っているわけではないと、樹は思っている。ただ、二人きりになれば何を話せばいいのか分からなくなる程度には、昔から距離があった。
環は息子から、自然に視線を征士郎へ移した。
「征士郎は? 二年生になって勉強も忙しくなるでしょうけど、学校の方は変わりないの?」
「はい。特に問題ありません」
「あなたはいつもそう言うんだから。組の仕事まであるのに、無理してない?」
「してませんよ。叔母さんこそ、今日は少し疲れてませんか」
「あら、分かるかしら」
環がふっと笑うと、ほんの一瞬だけ、その声から「姐さん」の硬さが抜けた。
樹はそれを横から眺めていた。
征士郎の父は環の実兄であり、九条会にとっては命運をともにする「叔父貴」でもあった。しかしその父は征士郎が五歳の時、抗争の末に命を落としている。
以来、征士郎は九条家に引き取られ、樹と一緒に、ほとんどこの家の子供のように育っていた。
環が征士郎へ向ける声音には、自分に向けるものより温度がある。それは昔から変わらなかった。
亡くした兄の息子である征士郎は、環にとって、気にかけずにはいられない身内だったのだろう。その温度を羨ましいとも、寂しいとも、樹はもう思わない。
ただ、そういうものなのだと知っている。
そのとき、樹たちがくぐってきた玄関の扉が再び開いた。
続いて、複数の男たちの低い声が聞こえてくる。
「会長、お帰りなさいませ」
「ご苦労」
その声が聞こえた途端、玄関ホールの空気が変わった。
環の指先が帯の上で、ほんの少しだけ強張る。
樹も無意識に背筋を伸ばしていた。
ほどなく九条会会長にして樹の父、九条雅臣が数人の構成員を従えて姿を現した。
背が高く痩せた身体に黒いスーツを隙なくまとい、四十代半ばを過ぎても、整った顔立ちには年齢を感じさせない鋭さがあった。一見すれば熟練のビジネスマンのようだが、身のこなしと眼光は明らかにカタギの者と一線を画していた。
樹の美しい顔立ちは、母の環によく似ていた。けれど、鏡を見て樹がひどく嫌になる瞬間がある。
その目だけは、父親とよく似ていた。
冷えた水の底に何かを沈めたまま、誰にも触れさせないような目だった。
「会長」
征士郎が一歩前へ出る。
雅臣は短く頷いた。
「征士郎。戻っていたか」
「はい」
それから、視線が樹へ向く。
ほんの一瞬、わずかに雅臣の眉が動いたように見えた。
「樹。学校は」
「問題ありません」
「そうか」
環よりさらに短いやり取りで、父と子の会話は途絶える。
もっとも、雅臣が平日のこの時間に屋敷へ戻ること自体が珍しかった。たいていは深夜まで外におり、家族と接することはほとんどない。
だからこそ、環も樹も、彼の早い帰宅それ自体に警戒していた。
征士郎がその空気を読み取ったように尋ねる。
「会長、今日は随分早いですね。何かありましたか」
「ああ。話がある」
樹の腹に、わずかに力が入る。
雅臣が自分たちへわざわざ話を持ってくる時、それが気楽な内容だったためしはない。
「天城連合の件だ」
その名に、征士郎の目がわずかに鋭くなった。
天城連合。
九条会の上部組織であり、この一帯のみならずいくつもの県へ勢力を伸ばす広域組織。九条会も黒崎組も、その巨大な傘の下に属している。
「総裁が代替わりする」
「蓮司さんですか」
「ああ。正式に決まった。近いうちに襲名披露がある」
東堂蓮司。
組織の中でのし上がり、まだ二十代という若さで次期総裁に指名された男だった。
「直系はすべて出席するよう話が来ている。今回は一族郎党揃って出るぞ」
環は口を挟まず、ただわずかに眉を寄せる。
「……顔見せも兼ねて、ということですか」
征士郎が尋ねると、雅臣は頷いた。
「次代を担う連中の繋がりを強める機会だ。征士郎、お前は若頭として出ろ」
「承知しました」
「樹、お前もだ」
断る余地などないことは分かっていた。
「分かりました」
「詳しい話は夕食のあとにする。征士郎、執務室へ来い」
「はい、会長」
それだけ告げると、雅臣は再び廊下の奥へ向かっていった。
黒い三つ揃いの男たちが、その背中を追っていく。
「……ふう」
足音が完全に遠ざかってから、環が、ようやく長く息を吐いた。
肩がわずかに下がる。
「叔母さん、大丈夫ですか」
征士郎が静かに声をかけた。
「ええ。何でもないわ」
環はそう言って微笑んだものの、その笑みは先ほどまでよりもずっと脆く見えた。
「ただ……あの人がこんな時間に帰ってくると、それだけで何かあったのかと思ってしまって」
「今回はパーティの件だけでしょう。少なくとも、すぐに何か起きるような話じゃありません」
「そうね。あなたがそう言うなら」
環は、自分へ言い聞かせるように頷いた。
そして、ごく自然な仕草で征士郎の制服の袖へ指を添えた。
「夕食のあとも仕事なのね。あまり遅くならないようにね」
「分かっています」
「あなたがいないと、この家は……本当に、息が詰まるから」
その言葉を聞いた瞬間、征士郎の顔に何かがよぎった。
けれど、それはすぐに消えた。
「……はい。なるべく早く戻ります」
樹は少し離れたところから、そのやり取りを黙って見ていた。
父は征士郎を若頭として信頼し、母もまた、何かにつけて彼を頼りにしている。征士郎はその期待を当然のように受け止め、いつも家族の誰かのために気を配っていた。
先ほどまで環が触れていた征士郎の袖を、樹はぼんやりと見た。もし征士郎がいなくなったら、この家はどうなってしまうのだろう。
そんなことを思い浮かべてしまった自分が嫌で、樹はいつものように考えるのをやめ、玄関ホールの大きなガラス窓へと目を向けた。
夕暮れの庭で、木々が風に揺れている。しかし隔絶された分厚いガラスのこちら側には、その葉擦れの音ひとつ届かなかった。




