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3 変な先輩

 園芸部の活動を終えて昇降口へ向かう頃には、春の空はすでに薄い群青へと色を変えはじめていた。


 聖ゼノ学園の尖塔の向こうへ沈みかけた夕陽が、古い校舎や石造りの聖堂の縁を淡い金色に染めている。部活動を終えた生徒たちが三々五々、校門から吐き出されていくなか、昇降口に立つ大柄な人影を見つけた樹は足を止めた。


「……征士郎」


 従兄の九条征士郎(くじょうせいしろう)が、腕を組んだまま樹に目を向けた。


 樹よりひとつ上の高校二年生。同じ制服を着ていても、二人を並べれば受ける印象はまるで違うだろう。

 長い前髪で顔を隠し、できる限り人目を避けている細身の樹に対して、征士郎は十六歳とは思えないほど肩幅が広く、鍛え抜いた身体には制服のジャケットがいささか窮屈そうだった。短く整えられたクルーカットと強面の顔立ちも相まって、ただ昇降口に立っているだけなのに、通りかかる生徒が無意識に距離を取っていく。


 樹はその威圧感のある立ち姿に臆する風もなく、歩み寄っていった。


「遅かったな。今日も園芸部か」


「うん。征士郎こそ、先に帰ったんじゃなかったの」


「お前が残るって聞いたから待ってた。車も来てる」


 二人が並んで校門へ向かう間、征士郎は樹の半歩だけ後ろを歩いた。大柄な彼には少し窮屈なはずの歩調だが、決して樹を急かしたりすることなくゆったりと歩みを進めていく。


 校門の少し先、路肩に黒塗りの大型セダンが停められていた。

 二人が近づくと、運転席から降りてきた男がすぐに後部座席の扉を開ける。男もまた、九条会の人間であることを示すように、黒の三つ揃いのスーツを寸分違わず着込んでいた。


「お疲れさまです、若頭。お嬢も、お待ちしてました」


 樹の眉間に、即座に皺が寄った。


「……学校の前でお嬢って呼ぶな」


「す、すんませんっ」


 男は勢いよく頭を下げた。


 九条会の者たちが樹を「お嬢」と呼ぶようになったのは、いつ頃からだったか。

 女と見紛う顔立ちへの揶揄ではない。細身の身体に似合わず、暗器ひとつで大の男を沈める腕と、滅多に表情を動かさない冷たい目。そこには何より、会長の実子でありながら、幼い頃から組の荒事の只中へ放り込まれてきた者の異様な存在感があった。

 いつしかそれは、九条会の者たちにとって、畏れと敬意が入り混じった一種の称号になっていた。

 だからこそ、やめろと言っても誰もやめようとはしない。


 樹は小さく息を吐いて後部座席へ乗り込み、征士郎もその隣へ身体を滑り込ませた。

 扉が閉まると、校門前のざわめきが分厚いガラス一枚を隔てて急に遠ざかる。


 車がゆっくりと走り出し、しばらくすると、征士郎が前を向いたまま口を開いた。


「昨日、湾岸の抗争に出たんだって?」


 樹は窓の外へ視線を向けたまま、わずかに眉をひそめる。


「誰から聞いたの」


「昨日お前と一緒だった連中だ。朝一番で俺のところに報告しに来た」


「余計なことを」


「お前、どうせそのまま揉み消すつもりだったんだろ。だが下の連中も、黙っててあとから俺にバレる方が怖かったんだろうな」


 樹は反論せず、車の窓枠へ頬杖をついた。

 流れていく街並みの向こうには、昨日の夜とはまるで違う、平凡な夕暮れが広がっている。


「五人で黒崎のシマに入り込んで、囲まれたんだってな」


「手柄を焦って無茶なシノギに手を出そうとしてたから、様子を見に行ったんだ。俺が行かなきゃ、半分は死んでた」


「だからって、お前が出る必要はない。連絡をよこせば、俺が行った」


「征士郎は昨日別の現場出てただろ。それに、父さんに知られる前に穏便に収めたかった」


 言いながらも、あれを穏便に収めたと言えるのか、樹自身にも疑問だった。

 征士郎もそこを指摘することはせず、しばらく黙ってから、低い声で言った。


「……お前はまだ十五なんだ」


「征士郎だって十六でしょ。大して変わらないよ」


「少なくとも、お前より一年長く生きてる」


 それが理屈になるのかと樹が鼻で笑うと、征士郎もわずかに口元を緩めたが、すぐにまた真面目な顔へ戻った。


「怪我はないのか」


「ない」


「ほんとか?」


「ないって。遠距離戦だし、相手にも触られてない」


 それでも征士郎の視線は、樹の顔から肩、手元へと移っていく。どこか隠している傷がないか、心配性の父親が確かめるような目だった。

 樹はその視線を受けて、肩をすくめた。


「……本当に大丈夫だよ」


「ならいい」


 短い返事の後、征士郎はまた前を向いた。


 征士郎は学生の身で、九条会の若頭を務めている。腕が立つからというだけではない。若い割に人を動かす判断が的確で、何より会長からの信頼が厚かった。

 しかし、ひとたび敵と見なした相手には一切容赦しない。その苛烈さから、他の組織では『狂犬』という有難くない二つ名で知られていた。


 それでも樹にとっては従兄であり、兄代わりであり、ときには父親よりもはるかに近い存在だった。


「学校、どうだ」


 征士郎がふいに聞いた。


「入学してまだそんなに経ってないだろ。慣れたか」


「普通だよ」


「友達とか、できたか?」


「……征士郎、なんだか母親みたいなこと聞くね」


「叔母さんはそんなこと聞かないだろ」


 樹は目を伏せた。

 征士郎も、自分が余計なことを言ったと気づいたのか、それ以上追及しなかった。


 しばらく車内にエンジン音だけが続く。


 ふと樹の脳裏に、放課後の花壇で会った男の顔が浮かんだ。

 日に焼けた肌と鍛えられた体躯に、妙に人のよさそうな笑顔。竹刀袋を肩にかけ、初対面の一年生へ何のためらいもなく話しかけてきた先輩だった。


『またな、樹』


 ただ名前を呼ばれただけだった。

 それなのに、なぜか耳に残っている。


「友達……とは違うけど、変な先輩には会った」


 言ってから、自分でもなぜそんな話をしたのか分からなくなった。

 征士郎が少し目を丸くする。


「変な先輩?」


「三年の。初対面なのに、勝手に花壇の隣に座ってきて」


「……確かに、人を寄せつけないお前の隣に平気で座ってくるってのは、大概だな」


 征士郎の小さな笑い声が車内に響いた。

 その横顔がいつになく穏やかで、樹もつられて笑みを浮かべ、少しずつ灯りがともり始めた街並みへ目を戻した。


 ただの「変な先輩」との出会いが、のちにどんな意味を持つことになるのか——

 樹も征士郎も、この時はまだ知らなかった。


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