2 汝の敵を愛せ
午後の陽がステンドグラスを透かし、磨かれた教室の床を赤や青、金色に染めていた。色のついた光が木目の上をゆっくりと横切るなか、教壇に立つ神父が静かな声で読み上げた。
「——『敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい』」
マタイによる福音書、第五章四十四節。聖書を手にした神父が、白いローマンカラーにそっと手を当て、小さく咳払いする。五十を少し過ぎた頃だろうか、聖句を説く声には、午後の眠気を誘うような穏やかさがあった。
「自分を愛してくれる人を愛することは、それほど難しいことではありません。ですが、自分を憎む者、傷つける者まで愛すること。それは容易なことではない」
九条樹は机の上の聖書へ視線を落としていたが、紙面に印刷された文字の意味は理解できても、胸には何ひとつ落ちてこなかった。
敵を愛せ。
昨夜、細い針を放った指先を、机の下でわずかに動かしてみる。黒崎組の男の首筋に刺さった銀の針と、崩れ落ちる膝が脳裏に浮かんだ。毒が回り、苦しげに喉を鳴らしていたあの男が、その後どうなったのか、樹は知らない。
死んだかもしれない。もっとも、そうした命のやり取りも覚悟のうえであの場に足を踏み入れたのだ。今さら確かめたところで、何が変わるわけでもない。
「報復は、新しい報復を生みます。憎しみは、憎しみを呼びます。それを断ち切ることができるのは——」
教壇を降り、教室の通路を通り過ぎていく神父の声が遠ざかるにつれ、馬鹿馬鹿しい、と樹は思った。
父に命じられれば、今夜もまた九条の敵となる誰かを傷つけることになるだろう。祈れば何かが変わるのなら、とうの昔に誰かが祈っていただろうに、それでも自分たちも敵も、毎日のように殴られ、刺され、撃たれている。
神とやらも、随分と暇らしい。こんなところで十五歳の人殺しに説教を聞かせているのだから。
樹が窓へ目を向けると、校庭の向こうに尖塔の十字架が見えた。
ここ聖ゼノ学園は、創立から百年近い歴史を持つカトリック系の男子校だ。中高一貫の広い敷地の中央には小さな聖堂があり、朝礼では祈りを捧げ、週に一度はこうして「宗教」の授業がある。
しかし、樹が入学した理由に信仰心など欠片もなかった。九条会の会長子息を公立へ通わせるより、身元のしっかりした私学のほうが都合がいいと家族が判断した。それに金さえ積めば、多少のことは揉み消すことができる。それだけの話だった。
学校での樹は、九条会と関わりがあるようには全く見えない。長い前髪を額へ落として目元まで覆い、その下には度の入っていない黒縁の眼鏡をかけて、顔立ちを隠している。
背も高くなければ声も張らず、授業中に手を挙げることも、誰かと親しく話すこともない。教室の隅に座っていれば、翌日には顔を忘れられる程度の存在でよかった。
いや、それがよかった。
鐘が鳴ると、神父は聖書を閉じた。
「今日はここまでにしましょう。来週までに、今日の箇所について少し考えておいてください。自分にとっての『敵』とは誰なのか。その人を愛するとは、どういうことなのか」
椅子を引く音が一斉に響くなか、樹も聖書を閉じた。
考えるまでもない。敵は敵だ。
愛するものではない。
+ + +
放課後の校舎裏は、生徒たちの喧騒から切り離された静かな空間だった。遠くで運動部の掛け声や笛の音が聞こえ、時折、野球部の金属バットが球を弾く音が重なる。すぐ近くの剣道場からは、腹の底へ響くような気合が飛んできた。
樹はそれらを背に、花壇の前へしゃがみ込んでいた。
園芸部に入ったのは、部員が少なくて目立たず、大会で誰かと競う必要もないというだけだ。それでも、土に触れて過ごすこの時間を、樹は嫌いではなかった。
土は黙って水を吸い、植物は日を浴びて葉を伸ばす。何かを命じてくることも、失敗を責めることもないものと向き合っている間だけは、胸の内側に張りついた氷のような冷たさが、ほんの少し緩むような気がした。
花壇では、秋に先輩たちが植えたチューリップがすくすくと葉を伸ばし、その中心には固く閉じた蕾も見えていた。花が開くまで、あと数日か、一週間か。
樹は指先で土をほぐし、その脇から伸びていた雑草を摘むと、根を途中で切らないようにゆっくり引き抜いた。昨夜、毒針を放ったのと同じ指で、今はこの小さな花壇を慈しむように土を扱っている。
我ながら妙だ、と思ったその時だった。
「何してんだ?」
突然、頭上から声が落ちてきた。
「——っ!」
樹は跳ねるように振り向き、反射的に右手を袖口へ伸ばした。学校では針を持ち歩かないと分かっているのに、身体はすでに戦う形を取っていた。
気配がしなかった。足音も聞こえなかった。
いつからそこにいたのかと目を鋭く細めたものの、相手の姿を捉えた途端、樹は戸惑った。
「……え?」
立っていたのは、予想とはまるで違う生徒だった。浅黒い肌に、短い前髪の下からのぞく、好奇心に輝く瞳。日差しを背に、いかにも楽しそうに笑いながら樹を見下ろしている。
肩には竹刀袋をかけ、背中には大きなスポーツバッグを背負っていた。バッグの口からは、雑にたたんだ剣道着がちらりとはみ出している。
樹が不審者を見るような目で見上げていることにも気づいていないのか、相手はどこか人のよさそうな笑顔のまま言った。
「おっ、びっくりさせた? 悪い悪い」
「……」
何なんだ、こいつは。
樹がゆっくり右手を下ろすと、男——いや、生徒は樹の胸元へ目をやった。
「あ、そのネクタイの色。一年か」
聖ゼノ学園では学年ごとにネクタイの色が違い、相手の色は三年、つまり二つ上だった。
「ひとりで座り込んでるから、具合でも悪いのかと思ったぞ」
「……園芸部の活動です」
「園芸部?」
「はい」
樹はそれだけ答えて花壇へ向き直ったが、会話が終わったと思ったのは樹だけだった。
「あー! この花壇!」
先輩は急に声を弾ませた。
「誰が世話してんだろと思ったら、園芸部だったのか」
「……そうですが」
「いつもここ通るんだよ、剣道場行くとき。それで、毎年きれいに咲いてるじゃん? 誰がやってんのかなって」
「……」
初対面なのに、何なんだ、本当に。樹が訝しんでいると、先輩は当然のようにその隣へしゃがみ込んだ。
「これ、チューリップ?」
「見れば分かるでしょう」
思わず口から出た言葉にも、相手は怒らなかった。
「あはは。そりゃそうだ」
笑う先輩を横目で見ると、腕まくりした制服の袖からは鍛えられた腕がのぞき、身体が締まっているのは制服越しにも見て取れた。それなのに先輩らしい威圧感は微塵もなく、樹はむしろ、散歩の途中で嬉しそうに通行人へ寄ってくる大型犬を連想した。
「もう咲く?」
「……たぶん、もうすぐです」
「何色?」
「知りません」
「園芸部なのに?」
「去年の先輩が植えたものなので」
「ああ、なるほど」
先輩は納得したように頷き、まだ緑色の小さな蕾へ顔を近づけた。
「じゃあ、咲くまで分かんねえんだ。面白いな」
何が面白いのか、樹には分からなかった。それでも、隣にしゃがみ込んでいるこの男を、不思議と鬱陶しいとは思わなかった。
先輩が指を伸ばしかけたので、樹はすぐに声をかけた。
「触らないでください」
「お?」
「まだ柔らかいので。折れたら咲きません」
「あ、悪い」
素直に手を引っ込める様子がおかしくて、樹はほんの少しだけ口元を緩めた。
「おーい、玲央ー!」
その時、渡り廊下の向こうから声がした。
「どこだー!? 練習始まんぞー!」
玲央と呼ばれた先輩は顔を上げると、立ち上がって肩の竹刀袋を直した。
「おっ、いけね。じゃあな、園芸部。きれいな花、咲くといいな」
その言葉に、また雑草を引き抜こうとしていた樹の指が止まった。先輩はもう歩き出していたが、樹は自分でも理由の分からないまま、声をかけていた。
「……樹」
「ん?」
振り返った相手を見上げ、少しだけ躊躇する。
「俺には、樹って名前があります」
見ず知らずの相手へ、自分の名を返す。それまでなら伝える必要もないと切り捨てていたはずなのに、玲央と呼ばれた先輩が遠ざかる前に、なぜか呼び止めずにはいられなかった。
先輩は一度目を瞬き、それからまた笑った。
「……そっか。またな、樹」
春の光の中で、その笑顔がやけにまぶしく見えた。
「俺は、玲央ってんだ」
それだけ言うと、先輩は走って渡り廊下の向こうへ消えていった。
樹はしばらくその背中を見送ってから、足元の花壇へ視線を落とした。
チューリップの蕾はまだ固く閉じている。何色の花が咲くのか、特に気にも留めずに世話をしてきた苗だった。
けれど樹はその日初めて、咲くところを見てみたいと思った。




