1 『お嬢』
【原作『ロミオとジュリエット』第一幕】
長年対立するモンタギュー家とキャピュレット家。モンタギュー家の一人息子ロミオは、ある夜、仇敵キャピュレット家の舞踏会に忍び込み、そこでジュリエットと運命的な出会いを果たす。
潮と油の臭いが夜気に重く垂れ込めていた。
海から吹き上げる風がコンテナの隙間を抜けるたび、ひゅう、と痩せた音を立てる。
日付が変わるにはまだ少し間がある時刻、湾岸倉庫街にはとうに人の気配が絶えている。その静寂を、男の怒声が引き裂く。
「舐めた真似してくれんじゃねえか、九条!」
鈍い音が響き、殴られた男がアスファルトへ膝をついた。黒いベストの胸元が乱れ、銀色のタイピンが街灯の光を弾いた。
九条会の男たちは、場違いなほど揃った格好をしていた。ジャケットもベストもスラックスも黒で統一され、寸分違わぬ三つ揃いの姿が暗闇に並ぶ様子は、葬列のようにも見える。
一方、にらみ合う黒崎組の男たちには、統一感など欠片もない。革ジャンに開襟シャツ、柄物の上着と服装はばらばらで、髪を剃り上げた者もいれば、金に染めた者もいる。
だが、その見た目以上に、数が違った。
九条が五人に対し、黒崎はその三倍。
九条の男たちは、数で勝る相手にじりじりと押されていた。
——そしてその様子を、倉庫の屋根へ続く外階段の上から見下ろしている者がいた。
「ここがどこのシマだか分かってんのか?」
黒崎の男が、目の前の九条の胸倉を掴み上げる。
「人ん家の庭先で勝手にブツ捌いておいて、ただで帰れると思うなよ」
九条の男が血の滲んだ唇を吊り上げた。
「はっ。黒崎風情が、俺らに説教か?」
「……あ?」
次の瞬間、拳が頬へ叩き込まれた。
「てめえぇぇ!」
九条の別の男が踏み込み、乱闘は再び一気に膨れ上がった。靴底がじゃりっとアスファルトを擦り、鉄パイプがコンテナを叩く乾いた金属音が夜空へ跳ね返る。
数で勝る黒崎が包囲を狭めるなか、九条の一人が鉄パイプを腕で受けて呻いた。
「ぐっ……!」
「どうした、九条は少数精鋭じゃなかったのかよ! あぁ!?」
嘲笑が飛ぶ。
しかしその時、誰かが不意に顔を上げた。
「……おい、あれ」
声が途切れ、一人、二人と、視線が倉庫の屋根へ向いた。
古びた外階段の上、月明かりを背負うようにして、人影が立っている。
風を受けて黒いジャケットの裾がわずかに揺れた。三つ揃いのスーツ姿は九条の人間だとすぐに知れたが、ひどく小柄で、細い輪郭と白い頬は遠目には女にも見える。夜風に掻き乱された髪が、月の光を受けて銀糸のように淡くなびいていた。
「……まさか」
九条の男が呟き、次いで顔を輝かせた。
「お嬢!」
その呼び声に空気が変わり、黒崎の男たちがざわめいた。
「お嬢?」
「九条の……?」
「おい、あれが……」
人影は何も答えず、ただ、ゆっくりと右手を上げる。
細い指先が月光を掬い、そして——
鋭く、振り抜いた。
「——っ!」
黒崎の男の一人が腕を押さえた。
「なんだ、これ……!」
袖には、髪より少し太い程度の銀色の細針が刺さっていた。その一本を確かめるより先に、別の場所でも呻き声が上がる。
「うぐっ……!」
「手が……おい、手が動かねえ! 毒か!?」
鉄パイプ、ナイフ、特殊警棒。彼らの獲物は次々に手を離れ、乾いた音を立ててアスファルトへ転がった。
「なっ、なんだよぉ、これ……」
針を受けた腕が垂れ下がり、震える指先には力が入らない。武器を拾うこともできずにいる男たちの顔から、先ほどまでの余裕が消えていった。
高所の人物はそれらを無感情に見下ろしながら、ゆっくりと外階段を降りてきた。街灯の下へ進むにつれ、その顔が露わになる。
まだ少年だった。
厚みのない身体を黒いスーツに包み、白い肌には夜更けの光が冷たく張りついていた。美しい顔立ちではあったが、そこに柔らかさはなく、整った眉の下から覗く瞳は、長いまつげに縁取られながらも水底のように冷えている。
「九条のガキめ……」
黒崎の男が呻いた。周囲の男たちが武器を取り落とすなか、一人だけナイフを握り続けていた男だった。
震える手で柄を握り直し、少年を睨みつける。その視線を受けて、『お嬢』は足を止めた。
「おい、調子乗んなよ! ここは俺たち黒崎のシマだ」
怒鳴り声が倉庫の壁へ反響する。
「勝手なシノギは許さねえぞ! 会長のガキだか何だか知らねえが、出てきたところで——」
男は少年の目を見た瞬間、声を詰まらせた。凪いだ海よりも静かな目には、怒りさえ浮かんでいない。
さらに、『お嬢』の右手が動いた。
風を切る音すらしなかった。
「——っ」
男が首筋を押さえた。その指の間に、小さな銀色の針が突き刺さっていた。
「な……」
一歩よろめいた男の顔から、血の気が引く。
「ぐっ……あ……」
呼吸が乱れ、膝が崩れた。
「おい!」
仲間が慌てて身体を支えた。
「何しやがった!」
少年は目を伏せ、毒針を放ったスーツの袖口を直した。その仕草だけなら、宴席を抜け出してきた良家の子息のようにも見えた。
「早く運びなよ」
澄んだ、しかし冷えきった声が落ちる。
「手遅れになる」
黒崎の男たちの顔から血の気が引いた。
「……くそっ」
一人が倒れた仲間を背負い、誰も少年から目を離さないまま後ずさった。
「覚えてろよ、九条っ……」
捨て台詞にも先ほどまでの勢いはなく、足音は遠ざかり、やがて男たちは倉庫の向こうへ消えた。あとに残されたのは、海風と、転がった鉄パイプだけだった。
「はぁ……」
九条の男が盛大に息を吐いた。
「助かった……」
別の男が少年へと駆け寄る。
「お嬢、恩に切ります!」
しかし振り返った少年の冷え冷えとした目を見るなり、男の背筋が伸びた。
「……何、雑な仕事してるの」
「うっ」
「たった五人で黒崎のシマに入って、囲まれて。お前らみんな、死ぬところだった」
少年の白い額が月に照らされ、眉間に皺が寄る。
「すっ、すんません……」
「戻ったら、俺からうまく言っておくから」
「あっ、ありがとうございます! お嬢!」
反射的に頭を下げた男たちの後頭部を見下ろしながら、少年は眉間の皺をさらに深くした。
——俺には、『樹』って名前があるんだけどな。
心の中だけで呟く。
しかし、言っても無駄だと分かっていた樹は、それ以上何も言わずに海の方角へ目を向けた。
湾岸の夜は暗く、遠い対岸では工場の赤い警告灯が瞬いている。黒い海に砕ける月の光を、樹はじっと見つめていた。
たった十五年の人生で、夜というものの昏さは嫌になるほど知っていた。
刃物が光る夜。血の臭いが潮風に混じる夜。
名も知らぬ相手を倒し、命のやり取りをしても、朝になれば何事もなかったように街は動き出し、そして自分は学校に通う。九条樹にとっては、それが日常だった。
虚空に浮かぶ月が、白く冷たい光を放つ。
その光はまるで舞台装置の照明のように、息が詰まりそうなこの世界を照らし出していた。




