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僕と北高山岳部とギャル先輩  作者: ぴっけるくん
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第9話 クマの鈴と初めての山とギャル先輩③




小林先生が運転する帰りのマイクロバスの車内は、沈黙と微かな振動、そして湿った疲労感に支配されていた。

桃香先輩のザックにつけられた宇宙服を着た熊の鈴が、バスの振動に合わせて微かに鳴っている。



窓の外では、群馬の山並みが夕闇に溶け込み、輪郭を失っていく。車内の蛍光灯は少し青白く、座席に深く沈み込んだ僕たちの顔を、古い映画の回想シーンのように淡く照らしていた。


僕の太ももは、まるで茹で過ぎたパスタのように力が入らず、膝は自分の意思とは無関係に小刻みに震えていた。山を下りるという行為が、これほどまでに筋肉を酷使するものだとは知らなかった。登りでは肺が焼け、下りでは膝が砕ける。登山というのは、身体の各部位が順番に悲鳴を上げるのを、ただ冷静に傍観するスポーツなのかもしれない。


「……福島さん、……これ、……あげる」


隣の席から、細い声がした。

岡先輩だ。彼女はリュックの中から、小さな小袋を取り出した。中には、可愛らしい包み紙のチョコレートがいくつか入っている。


「ありがとうございます、岡先輩。……助かります。今なら、この包み紙ごと食べてしまいそうです」


「……ふふ、……それは、……お腹壊すから、……ダメ」



彼女は前髪の隙間から、ほんの少しだけ口元を緩めた。

岡先輩は、バスの中でもやはり携帯ゲーム機を握っていた。音量は消されているが、画面の中ではカラフルなエフェクトが飛び交っている。


「……山に登ってるとき、……しんどいけど、……ゲームの、レベリングに、……似てる気がする」


彼女は画面を見つめたまま、独り言のように続けた。


「……一段ずつ、……経験値、……溜めてるみたいな。……誰もいないところで、……こっそり、強くなれる、……気がして」


「分かります。僕も、教室にいるときより、あの岩場を這いずり回っているときの方が、自分が『生きている』という実感が持てました。滑稽な話ですけど」


「……全然、……滑稽じゃ、ないよ。……福島さん……トレーニングがんばった、もんね」



岡先輩の言葉は、まるで薄い絹糸のように柔らかく僕の耳に届いた。彼女は部活動以外の場所では、他の男子生徒と(ほとんどの女子生徒とも)一切言葉を交わさない。クラスメイトからは「何を考えているか分からない幽霊みたいな人」と思われているらしいが、僕には彼女の言葉の温度がよく分かった。僕たちは二人とも、自分専用の透明な殻の中で、静かに呼吸をしている種類の人種なのだ。


ふと、数列前の座席に目をやった。

桃香先輩は、板垣先輩と肩を寄せ合うようにして眠っていた。窓からの振動に合わせて、彼女の頭が小さく揺れる。そのザックには、僕が贈った宇宙服の熊が、夕闇の中で誇らしげにぶら下がっていた。


彼女は、僕が知らない景色をたくさん見てきたはずだ。人それぞれ、いろいろな過去があるんだろう。しかし、板垣先輩が口を濁したその理由を、僕はまだ知らない。



「……ジンくん、見てるのバレバレだよー」


不意に、眠っていたはずの板垣先輩が片目を開けて、僕に向かってニヤリと笑った。僕は慌てて視線を窓の外へ逸らした。心臓が、登山の時とは違うリズムで跳ねた。


「……見てません。ただ、あのクマの鈴が落ちないか心配だっただけです」


「はいはい、そういうことにしておいてあげるよ」


板垣先輩は、楽しそうに肩をすくめると、再び目を閉じた。

バスは夜の国道を、深い海を進む潜水艦のように走り続ける。





バスが学校の駐車場に滑り込んだとき、辺りはすっかり夜の帳に包まれていた。エンジンの震動が止まると、車内には耳が痛くなるような静寂が訪れた。それはまるで、長い演奏を終えたばかりのレコードプレーヤーの針が、盤面を空回りしているときのような、そんな種類の沈黙だった。


「……着いたわよ。全員、忘れ物がないか確認して」


坂田部長の声が、氷の破片のように静かに響いた。彼女はバスから降りる最後の一瞬まで、自分自身を律しているようだった。

桃香先輩は、板垣先輩に揺り起こされると、「ん、あー……お寿司食べたかったなー」と寝ぼけ眼で呟いた。その声には、山頂で見せたあの真剣な眼差しは影を潜め、いつもの奔放な彼女が戻っていた。


「……福島さん、……また、明日ね」


バスのステップを降りる際、岡先輩が僕の袖をほんの少しだけ引いた。


「……明日、……放課後の部室で、……あのゲーム、一緒に、ね」


「楽しみにしてます、岡先輩」


僕がそう答えると、彼女は満足そうに小さく頷き、夜の闇に紛れるようにして自転車置き場の方へ歩いていった。彼女の後ろ姿を見ていると、学校というシステムの中で彼女がどれだけ慎重に、自分の領土を守りながら生きているかが伝わってくる。そして僕もまた、その領土の端っこに、少しだけ招き入れられたような気がした。


「ジンタロー、送ってこっか? アタシ、車で迎え来てるし」


桃香先輩が、駐車場に停まった白い外車の前で僕を誘った。桃香先輩の父親か、母親か。どちらにしても、この泥だらけの服でこんな高級車には乗れない。僕はそれほど図々しくはない。


「いえ、歩いて帰ります。筋肉痛を少しでもほぐしておきたいので」


「そ? じゃあね。……今日は、ありがと。鈴のこと」


彼女はそう言って、僕が贈ったクマの鈴を軽く指で弾いた。チリン、という乾いた音が夜の空気に溶けていく。彼女が車に乗り込み、赤いテールランプが遠ざかっていくのを、僕はただ見送っていた。


一人になった僕は、疲れ切った体を少しだけ丸めて、住宅街の街灯の下を歩いた。

足は棒のようになり、一歩踏み出すたびに新しい痛みが神経を走る。かつての僕なら、こんな無意味な苦痛を、呪いの手紙を受け取ったかのような気分で受け止めていただろう。


でも、今は違う。


僕の足には、荒船山の岩肌を掴んだネイビーの登山靴の重みがまだ残っている。

鼻の奥には、頂上で吸い込んだ、どこまでも透明で、少しだけ残酷なまでに純粋な空気の感触が残っている。


僕は、自分が少しずつ変わっていくのを感じていた。

それは、古いOSをアップデートするような、あるいは、見慣れた部屋の家具の配置を少しだけ変えるような、そんな微かな変化だ。




学校から遠い家に着くと、僕は真っ先にカレーを温めた。

一晩寝かせたカレーのスパイスの香りが、疲弊した脳を優しく包み込む。

一口食べるごとに、山で消費した何かが、自分の中に還元されていくのが分かった。




明日の放課後、またあの青いジャージを着る。


クラスの連中の視線は、相変わらず冷ややかで、少しだけ滑稽なものを見るような色をしているだろう。


でも、そんなことはどうでもいい。


僕には、宇宙服を着た熊のデザインの鈴を誇らしげに揺らす先輩と、前髪の奥で秘密のゲーム攻略法を教えてくれる先輩がいる。


そして何より、自分の足で一歩ずつ、空に近づいたという確かな記憶があるのだ。


僕はスプーンを置き、コップ一杯の水を飲み干した。


世界はまだ、僕にとっては難解なパズルのようなままだ。

でも、そのピースの一つを、僕は確かに自分の手で嵌めたような気がしていた。





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