第8話 クマの鈴と初めての山とギャル先輩②
翌週の日曜日、僕たちは群馬県の荒船山にいた。
標高は1423メートル。遠くから見ると、荒波を割って進む巨大な航空母艦のように見える独特の山だ。その切り立った岩壁は、自然が何万年もの時間をかけて削り出した、無慈悲な沈黙の塊のようだった。
先頭は坂田部長、それから初心者の僕、岡先輩、板垣先輩、エビちゃん先輩、桃香先輩、そして最後に大ベテラン・顧問の小林先生の順だ。初心者をパーティの2番目にする。これならペース配分が掴みやすく、後続もフォローもしやすいため、、広く推奨されるやり方だそうだ。
「いいか、福島。山では自分の重心がどこにあるかを常に意識しろ。数学の座標軸と同じだ。原点がブレれば、すべてが崩れる」
小林先生は、初めて山に入る僕に言った。五十代の数学教師。普段はチョークの粉にまみれて退屈な数式を黒板に書きなぐっている男だが、ひとたび山に入れば、その背中はマッターホルンの岩肌を知る本物の山男へと変貌する。彼の歩みには無駄が一切なく、まるで重力という概念を最初から無視しているかのようだった。
「……先生、……すみません、……座標軸が、……家出、したみたいです」
開始30分で僕は喘ぎながら心の中で答えた。新しいネイビーの登山靴は、確かに僕の足をしっかりと守ってくれていた。だが、僕の肺と心臓は、この急勾配に対して全面的なストライキを宣告していた。
青い特注ジャージを着た僕たちは、緑の斜面を這い上がる奇妙な渡り鳥の群れのように見えただろう。
「ほら、ジンタロー。もうちょっとだよー。アタシが後ろから押してあげよっか?」
僕の後ろを歩く桃香先輩が、チリン、と小さな音を鳴らした。僕が贈った宇宙服の熊が、彼女のザックで軽やかに跳ねている。彼女の足取りは、まるでお気に入りのプレイリストを聴きながらショッピングモールを歩いているかのように軽快だった。
休憩地点で、僕は岩の上に腰を下ろした。隣には岡先輩が、やはり前髪を揺らしながら小さく座っている。彼女は手慣れた手つきで、水筒からスポーツドリンクを飲んでいた。
「……福島さん、……見て」
彼女が差し出してきたのは、携帯ゲーム機の画面だった。こんなところにまでゲーム、持ってきたのか…?驚異的な執着心としか言いようがない。僕がいくらゲームが好きといっても、今、そんな余裕はない。
「……昨日、……あのステージ、……クリアしたよ。この武器、……強い」
「……お、お見事です。あのボス、僕でも三回は死にましたよ」
「……うん。山登りも、……覚えゲーみたいな、……ところ、あるから」
岡先輩は、僕とゲームの話をするときだけは、薄い霧が晴れたような穏やかな顔を見せる。でも、小林先生や他の男子生徒が近づくと、すぐに長い前髪の奥へと引きこもって、透明な殻を被ってしまうのだった。
山頂に辿り着いたとき、僕の視界は一気に開けた。
艫岩と呼ばれる展望台の先に広がっていたのは、緑の海だった。遠くに浅間山が煙を上げ、幾重にも重なる山々が、まるで世界を保護するために配置された巨大な防波堤のように見えた。
「……すごい」
僕の口から、飾り気のない言葉が漏れた。
今まで、世界の端っこは教室の壁だと思っていた。でも、ここから見る世界には壁なんてどこにもなかった。風が僕の汗を奪い去り、代わりに少しだけ冷ややかな自由を置いていった。
「でしょ? これがあるから、山歩きって辞めらんないんだよねー」
桃香先輩が僕の隣に立ち、眩しそうに目を細めた。その横顔は、学校で見せるギャルの顔でも、部活での頼れる先輩の顔でもなく、ただ一人の、山を愛する少女のそれだった。
「そういや、桃香先輩、爪、短いんですね」
「あったり前じゃん!あんなネイルで岩肌がつかめるかっての!あれは付け爪だよ」
彼女にとっては、山は何よりも、──自分のファッションスタイルよりも──、優先されるものなのだ、と僕は理解した。
下山後、みんなが休憩をしている間に、僕は少し離れたところで板垣先輩に声をかけた。
「……あの、板垣先輩。桃香先輩のことなんですけど」
「んー? 何、ジンくん。もしかして惚れちゃった?」
板垣先輩は茶化すように笑ったが、僕が真面目な顔をしているのに気づくと、少しだけ視線を逸らした。
「桃香先輩、スマホの着信があった時とか、時々すごく寂しそうな顔をしますよね。家庭のこととか、何かあったんですか」
板垣先輩の笑顔が、一瞬だけ曇った。彼女は桃香先輩と中学からの付き合いだ。何を知っていても不思議ではない。
「……ごめん、ジンくん。それはあたしの口からは言えねーかな。桃香が自分で話すのを待ってあげて」
板垣先輩はそう言うと、無理に作ったような明るい声で付け加えた。
「ジンくんがくれたプレゼント、桃香があんなに喜んでるのは初めて見たよ。でもね……あんまり、変な期待はしないほうがいいかも、な」
桃香先輩は、僕にとってはまだ、あまりにも眩しくて遠い「先輩」に過ぎない。僕が彼女の隣に並び、彼女が抱えている荷物を半分持てるようになるまでには、あと何度、この靴の底を削らなければならないのだろう。
僕はそれ以上、何も聞けなかった。




