第7話 クマの鈴と初めての山とギャル先輩①
第3章 クマの鈴と初めての山とギャル先輩
土曜日の午前中、僕と桃香先輩、そして坂田部長の3人が向かったのは、隣町の商店街の端にある山岳用品ショップ「カウベル」。
そのドアを開けると、カウベルの音ではなく、使い込まれた革とワックスの濃厚な匂いが僕らを出迎えた。
店長の熊代さんは、北高山岳部のOBだ。岩壁を素手で引きちぎって生きてきたような、節くれ立った大きな手をしている。
「お、凛ちゃんに桃香ちゃん、それに……新しい生贄か」
「生贄じゃありません、期待の新入部員です」
僕が訂正する前に、坂田部長が事務的に答えた。
今日の目的は、僕の個人装備を揃えることだ。ザックやテント・バーナーといった高価な大型備品は部室に腐るほどあるが、靴やウェアだけは自分に合ったものを選ばなければならない。
「登山靴は、君の身体と山を繋ぐ唯一のインターフェースだわ。妥協は許されない」
凛さんはそう言うと、ナイフの展示コーナーへと吸い込まれていった。彼女は一本のフォールディングナイフを手に取り、その刃紋をうっとりと眺めている。
「見て、このブレードの曲線。機能美の極致だわ。過酷な状況下で、この一振りが生死を分けることもある。ナイフを研ぐことは、己の魂を研ぐことと同義なのよ……」
彼女のナイフに対する偏愛は、もはや哲学の域に達していた。
「あはは、凛のナイフ愛はスルーしていいからねー。ほら、ジンタロー。こっちこっち」
桃香先輩が僕の手を引いて、シューズコーナーへ連れて行く。彼女は今日の私服も完璧だった。金色に輝くロングヘアに映える、へその出た短い白いブラウス、タイトな黒のパンツ、そしてメタリックカラーのネイル。どこからどうみてもギャルだ。山岳用品店にいていい見た目ではない。
「これ、履いてみて。ジンタローは背が高いから、足首をしっかりホールドできるタイプがいいと思うんだよね」
桃香先輩が選んでくれたのは、落ち着いたネイビーのトレッキングシューズだった。彼女は僕の足元に膝をつくと、手際よく靴紐を締めていく。
「……あの、桃香先輩。自分でもできますから」
「いいの。最初は加減が分からないでしょ? 山で靴が脱げたら、アタシがジンタローをおんぶして下りなきゃいけなくなるし」
彼女の指先が僕の足首に触れる。その距離感に、僕は意識が遠のきそうになる。でも、彼女の瞳は真剣そのもので、そこには僕を「後輩」として守ろうとする純粋な意志しかなかった。僕はただ、石のように固まってそれを受け入れるしかなかった。
それから、店長の熊代さんに昔の北高山岳部の話を聞いた。
昔は部員がたくさんいてインターハイにも出場していたこと、月例登山として毎月山に登っていたこと、そして冬は雪山登山と称してクロスカントリースキーまでもしていたこと、小林先生は昔マッターホルンに登ったことがあるなど…。興味深い話は枚挙にいとまなかった。
「夏山は毎年槍ヶ岳に行ってたって本当ですか?」
僕は入部の時の部長の話を聞いてみた。
「本当だよ。北高山岳部は、伝統的に毎年槍ヶ岳6泊7日縦走コースに行っていたんだぞ。浪人してる先輩とかも来ててなぁ。一週間も風呂に入らないと自分が臭いのか何なのか逆にわからなくなるんだ」
大きな声で豪快に笑った後、熊代さんは僕を見つめて、
「槍ヶ岳は凛ちゃんと桃香ちゃんの目標なんだ。力になってやってくれ」
太い岩のような手で僕の肩をたたいた。
それから会計を待つ間、僕はレジの横にある小さなカゴを見つけた。
そこには、クマよけの鈴がいくつか並んでいた。その中に一つ、妙なデザインのものがあった。宇宙服を着た熊が、どこか遠い星を見上げているような鈴。
僕はそれを手に取り、桃香先輩に差し出した。
「これ、プレゼントです」
「えっ、アタシに? なんで?」
「……さっきのお礼です。それに、桃香先輩って、時々あんな風に遠くを見てることがあるから」
桃香先輩は一瞬だけ、虚を突かれたような顔をした。それから鈴を受け取ると、指で小さく鳴らした。
「……チリン、って。変なデザイン。でも、ジンタローっぽくていいかも。ありがと、大事にするね」
素直に喜んでくれる彼女を見て、僕は自分の胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなるのを感じた。




