第10話 クマの鈴と初めての山とギャル先輩④
月曜日の朝、僕を待っていたのは、人生で経験したことのない種類の「報い」だった。
階段を下りるたびに、大腿四頭筋が「本当にこれをやるつもりか?」と僕の脳に抗議の電信を送ってくる。一歩ごとに、昨日荒船山に置いてきたはずの重力が、利子をつけて僕の膝にのしかかってきた。
学校に着き、僕はあえていつもの制服ではなく、鞄の中に忍ばせていた「あの青」を意識した。放課後になれば、またあの特注ジャージに袖を通すことになる。それは、クラスの連中が共有する「平穏という名の退屈」から、僕を決定的に切り離すための戦闘服だ。
案の定、廊下ですれ違うクラスメイトたちの視線には、困惑と、そして隠しきれない好奇心が混ざっていた。
「……おい、福島、お前山岳部に入ったんだってな」
休み時間、珍しく話しかけてきたのは、いつも僕を空気のように扱っていた男子だった。
「まあね。炭水化物を効率よく燃焼させる方法を学んでいるところだ」
「あのギャルっぽい先輩怖くねーの?超美人だけどさ。やべーのがバックについてそう」
「そんなのはいない。それからさらに言わせてもらうなら、部長の方が、1億倍は怖い」
僕はあえて突き放すような言い方をした。175センチの背筋を少しだけ伸ばして歩くと、昨日まで自分を縛っていた「卑屈さ」という名の重石が、ほんの少しだけ軽くなっていることに気づいた。
放課後、約束の30分前。僕は吸い寄せられるように部室へと向かった。
扉を開けると、そこには既に「彼女たちの時間」が流れていた。
「……あ、……福島さん。……お疲れ様」
部室の隅、例のザックの山に埋もれるようにして、岡先輩が僕を待っていた。彼女は今日も長い前髪でその顔を隠していたが、手元には約束通り、携帯ゲーム機が光を放っている。
「……これ、……昨日のボスの、戦い方。……タイミングは、……鼓動、三回分」
彼女が僕にゲーム機を差し出した。指が触れるか触れないかの距離で、彼女は囁くように攻略法を教えてくれる。岡先輩の領土は狭く、そして静かだ。けれどそこには、外面の気弱さからは想像もつかないような、強固で論理的な「意志」が詰まっていた。
「……山も、……一緒。……自分の、リズムを、……誰にも、渡さないこと」
彼女はそう言うと、前髪の奥でふっと微笑んだ。その一瞬の表情は、残酷なまでの透明感を持って僕の視界を掠めた。
「おっ、ジンタロー、もう来てんじゃん! ふたりでイチャついてんのー?杏菜ー、アイドルは恋愛禁止なんだぞー!」
扉が勢いよく開き、桃香先輩が風のように入ってきた。
「……もっ、ももちゃん!……アイドルの話はしないでって!」
顔を真っ赤にして急に焦りだす岡先輩。なんだ?アイドルがなにかまずかったのか?僕は桃香先輩と岡先輩に交互に疑問の視線を送った。
「杏菜ね、アイドルになりたかったんだって」
「……もー!……その話は内緒なのに…!」
ぷいっと頬を膨らませて岡先輩は向こうへ行ってしまった。桃香先輩はあははと笑う。桃香先輩はいつも太陽のように部室を照らす。けれど、その光が強ければ強いほど、彼女が背負っている「影」の深さが、僕には気になるようになっていた。
「よし、全員揃ったわね。福島くん、筋肉痛は『甘え』ではないけれど、『言い訳』にもならないわ。今日も8キロ、しっかり走りなさい」
凛さんの冷徹な号令が、部室の静寂を切り裂く。
エビちゃん先輩が「ですねー、福島さん。頑張りましょうー」と、おっとりとした声を添えた。
僕は立ち上がり、青いジャージのジッパーを上げた。
僕の人生は、もう元の場所には戻らない。
槍ヶ岳の尖った頂へ、あるいは彼女たちの心の奥底へ。
僕はまだ、一歩を踏み出したばかりだ。




