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僕と北高山岳部とギャル先輩  作者: ぴっけるくん
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第11話 雨と聖明館とギャル先輩①







第4章 雨と聖明館とギャル先輩









6月の雨は、世界の色彩を丁寧に洗い落としていく作業のように思えた。



僕たちは群馬県の北西に位置する両神山りょうかみさんの山中にいた。一泊二日の強化トレーニング。だが、空は僕たちの味方をするつもりなど毛頭ないらしく、昨夜から降り続く雨は、登山道を泥の滑り台へと変えていた。


「……もう、足が動かない」


僕は岩陰に腰を下ろし、泥まみれのネイビーの登山靴を見つめた。


雨水はレインウェアの隙間を縫って体温を奪い、ザックの重みは僕の背骨を地面に縫い付けようとしている。思考は霧のようにぼんやりとし、なぜ自分は温かい部屋でカレーを食べ、ゲームをしていないのか、という根源的な問いが頭の中でレコードの溝にはまった針のように繰り返されていた。



「福島くん。ここで立ち止まれば、筋肉は冷えて固まり、二度と動かなくなるわよ。山における停滞は、緩やかな自殺と同義だわ」



先頭を行く坂田部長が、冷徹な響きを伴って告げた。彼女の視線は、雨の中でも一切の揺らぎがない。


小林先生も、僕の肩を軽く叩いた。



「福島、数学で言えば今は計算の途中だ。答えが出る前にペンを置くのは早いぞ」



「ジンタロー、ほら、アタシの手、掴みなよ」



桃香先輩が、泥だらけの手を差し出してきた。


彼女の顔も雨に打たれて蒼白だったが、その瞳には不思議な強さが宿っている。



「アタシが引っ張ってあげるから。……一緒に、あの雲の上に行こうよ」



僕はその、少し冷えた手を握り返した。彼女の温もりは、僕の凍てついた意志に火を灯す小さなマッチのようだった。


一歩、また一歩。僕たちは亀のような歩みで、鎖場を越え、岩を穿うがち、高度を上げた。






山頂に辿り着いたとき、そこに待っていたのは感動的なパノラマ……ではなかった。

視界は真っ白な雲に支配され、数メートル先すらおぼつかない。冷たい風が吹き抜け、期待していた絶景などどこにもなかった。



「……何も、見えませんね」



僕が苦笑混じりに言うと、隣に立った桃香先輩が、大きく息を吐いた。



「うん、真っ白。でもさ、アタシたちの足元見てみなよ」



そこには、僕たちが踏みしめてきた確かな岩肌があった。

景色は見えなくても、僕は自分の足でここまで登ってきた。心臓の鼓動が、生きている証として耳の奥で鳴り響いている。



「……不思議です。視界は最悪なのに、心は今までで一番晴れてる気がします」



「そうでしょ? それが山の魔法なんだよね」






両神山のキャンプ指定地にテントを張ったときには、僕の体力は底をつき、意識は半分ほど泥に溶け出していた。


山の夜は、下界のそれとは密度が違う。闇はただ暗いだけでなく、物理的な質量を持って僕たちの肩にのしかかってくるようだった。


夕食の支度は、エビちゃん先輩の独壇場だった。山での食事は、ゴミを最小限に抑えるためにレトルトが基本だ。しかし、彼女の手にかかると、その銀色のパウチから出てくるものは、単なる工業製品以上の何かに変貌する。



「福島さん、今日は『特製・山のスパイスカレー』ですよー」



エビちゃん先輩は、湯煎したレトルトカレーに、家から持ってきたという秘密の小瓶から乾燥マッシュルームやナッツ、そして独自の配合のスパイスを振りかけた。


「レトルトは、未完成のキャンバスなんです。そこに少しだけ『意志』を加えれば、立派な料理になるんですよ」


それは、驚くほど美味しかった。疲弊した体に、スパイスの熱がじわじわと染み渡っていく。



「美味しいです。……なんだか、自分が人間であることを思い出せました」


「よかったですねー。食べることは、生きることへの肯定ですからー」



テントの外では、相変わらず雨がタープを叩く音が響いていた。

ふと横を見ると、桃香先輩が膝を抱えて、小さなLEDランタンの炎を見つめていた。そのザックには、宇宙服を着た熊の鈴が、静かに光を反射している。



「……今まで付き合ったきたカレはさ、こういうの、全然わかってくれなかったんだよね」


彼女がぽつりと呟いた。


「山なんてただの苦行じゃん、服は汚れるし、金もかかるし、何が楽しいんだ? ......最後の方は泊まり込みで浮気してんだろ誤解されて。んなわけねーっての。アタシが一番大切にしてる自由な時間が、カレには1ミリも理解できなかったみたい」



「……理解されないことは、時に孤独ですが、それは自分の価値が低いということにはなりません」



僕はカレーのスプーンを動かしながら、できるだけ淡々と答えた。桃香先輩の元カレか…。聞きたくもないし、知りたくもない。僕は無関心を装いつつも、心は何かが濁流のように渦巻いていた。



「山は、誰に理解されなくても、そこに在りますから。先輩の自由も、同じだと思います」



桃香先輩は少しだけ驚いたように僕を見、それから小さく笑った。


「パパたちもさ、そんくらいわかってくれるといいんだけどね」


それから彼女は大きく息をついてぽちぽつと話し始めた。


「私さ、小学校のころは超マジメでさ、自分で言うのもアレだけど「いい子」だったんだよね。お姉ちゃんはなんでも教えてくれたし、パパもママも優しくて。山登りを始めたのも、大学で山岳部だったパパの影響。でもね、アタシ、失敗、しちゃったんだ」


「……失敗?」


「そ。中学受験。聖明館(せいめいかん)って知ってる?あそこの中等部。うちのパパ、あそこの先生なんだ。お姉ちゃんも卒業生」


「聞いたことあります、県内トップクラスの進学校ですよね」


「塾では絶対受かるって言われて、模試もずっとA判定だったのに落ちてさ、んでリベンジで受けた高校入試も落ちて。本番に弱いんだねアタシ」


すんっ、と鼻をすする桃香先輩。その眼はわずかにうるんでいるように見えた。


「そうなったらもうパパもお姉ちゃんもなーんか冷たくなってさ。で、この学校に来て、もうなにもかもから逃げ出したくなっちゃって。パパやお姉ちゃんと同じ苗字の『堀越』って呼ばれんのも嫌になっちゃって」


だから、あの初めて出会った日に「アタシのこと苗字で呼ぶの禁止な!」って言ったのか…。僕はあの日を思い出し、大きく息をついた。


「それから髪染めて、ピアスバシバシ空けて、派手なカッコして、立派なアホギャル、いっちょあがり!ってワケ」


「アホでは無いと思います。先輩は僕をこうして先の見えない泥沼から引き揚げてくれた。みんなの居場所になってくれている。桃香先輩がいるから、山岳部は「存在」しているんだと思いますよ」


「……。ジンタローって、時々すごく大人みたいなこと言うよね。……ありがと」



そうして、寂しそうな、わずかな笑顔を見せる桃香先輩。


僕は少しでも彼女の心の灯になれただろうか。







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