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僕と北高山岳部とギャル先輩  作者: ぴっけるくん
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エピローグ 僕と桃香②




カフェを出ると、ロンドンの街には夜の帳が、誰かがこぼした濃いインクのようにゆっくりと降りてきていた。


雨は止んでいたが、濡れた石畳は街灯のオレンジ色の光を反射し、まるで鏡で作られた川のように僕たちの足元に続いていた。ロンドンの夜気は、雨の山で感じたあの冷たさとは少し違う。湿り気を帯び、幾百万もの人々の吐息と、歴史という名の錆びたスパイスの匂いが混じっている。


「ねえ、ジンタロー。あそこまで歩こう」


桃香先輩が指差したのは、テームズ川に架かるウォータールー・ブリッジだった。

僕たちは、霧に煙る夜のロンドンを、重いザックを背負って登るように一歩ずつ歩いた。僕のネイビーの登山靴は、ロンドンの舗装された道路を叩き、心地よい、しかしどこか場違いな乾いた音を立てていた。

橋の上に立つと、風が僕たちの間を吹き抜けていった。


眼下を流れるテームズ川は、巨大な黒い蛇がのたうち回っているようで、対岸に見えるビッグ・ベンの時計塔は、世界の時間を静かに、しかし冷徹に支配する番人のようにそびえ立っていた。


「アタシね、こっちに来たばかりの頃、毎晩ここで泣いてたんだ」


桃香先輩は手すりに寄りかかり、遠くを見つめた。


「英語は通じないし、パパとは音信不通だし、明日香お姉ちゃんからは『いつまで遊んでるの』ってメールが来るし。アタシ、自分がどこにも属していない、ただの迷子になったような気がしてた」


僕は黙って彼女の言葉を待った。

彼女の横顔を照らす街灯の光が、その頬に淡い影を作っている。その影の中に、彼女が独りで戦ってきた千の夜が凝縮されているような気がした。


「でもね、そのたびに、あの槍ヶ岳の頂上でジンタローが泣いてた顔を思い出すの。……あんなに弱っちかったジンタローが、槍のてっぺんなんて高い場所まで来て。あんな弱っちかったジンタローが、部長になって山岳部を引っ張って。あんなに弱っちかったジンタローが、法学部に合格して。アタシだって、自分の山を登りきらなきゃいけない。そう思って、歯を食いしばってきたんだよ」


「……弱っちいをそんなに連呼しないでください。でも、否定はしません。僕は、今でも弱っちいまんまですから」


僕はマフラーの隙間から、静かに言葉を吐き出した。


「ただ、弱いままでも歩き続ける方法を、桃香先輩に教わっただけです。法律を学ぶことも、判例を覚えることも、僕にとってはただの岩場です。一つひとつ、指をかけて、滑らないように慎重に登る。その先に、先輩という景色があると信じていただけです」



桃香先輩はふっと笑い、僕の腕を掴んだ。


「もう、『先輩』じゃないでしょ。アタシたち、もう卒業したんだから」


僕は一瞬言い淀み、それから、今まで喉の奥に引っかかっていた古い棘を抜くように、その名前を呼んだ。


「……桃香」


彼女の肩が微かに跳ねた。それから、ひまわりが咲くようなあの満面の笑みが、夜のロンドンの冷たい空気の中に鮮やかに広がった。


「合格。……ジンタロー、あんた、もう弱っちくないね」


彼女は僕の胸に顔を埋めた。

コート越しに、彼女の鼓動が伝わってくる。


それは、あの日の部室で感じた体温よりも、ずっと確かで、重厚な響きを持っていた。僕たちはもう、誰かの用意した「正解」を探す子供ではない。自分たちの足で、自分たちの高度を測りながら生きる、二人の孤独な登山家だった。




僕はそこで、桃香と初めて、唇を重ねた。

いつもの、陽だまりの香りがした。





「ねえ、ジンタロー。アタシの家、ここから近いんだ。もう、離さないからね」



少し照れたような彼女の囁きは、冬の星座が瞬く夜空へと溶けていった。


テームズ川を渡る風は、僕の首元の、あの濃紺のマフラーを優しく揺らした。それは数年前、岡先輩が僕に編んでくれた誠実さの記憶を孕みながらも、今の僕を縛り付けるものではなかった。

僕は彼女の肩を抱き寄せ、ゆっくりと歩き出した。




ロンドンの夜は、まだ始まったばかりだ。

僕たちの目の前には、まだ名前のない山々が幾重にも重なっている。

けれど、もう怖くはなかった。

僕の隣には、同じリズムで呼吸をし、同じ重力を分かち合うパートナーがいるのだから。



桃香のアパートは、サウス・バンクの喧騒から少し離れた、古い赤レンガ造りの建物の中にあった。


エレベーターのない狭い階段を、僕たちは一段ずつ登っていった。その足音は、かつてみんなで登った槍ヶ岳の、あの単調で誠実な登攀とうはんの時間を思い出させた。彼女が鍵を開け、ドアを開くと、そこにはロンドンの冷たい空気とは別の、どこか懐かしい、古い家独特なほのかな香りとコーヒーの匂いが混じった空気が閉じ込められていた。


部屋は決して広くはなかったけれど、そこにある全てのものが、彼女の意志によって選ばれ、配置されているのがわかった。

家具はどう見てもひとり用で、彼女がここでひとりで暮らしているのは、疑いようもなかった。



「そう言えば、前にもらった手紙にあったルームシェアの子は、どうしたんですか?」


「ミナ?あの子は前のアパートに残ってる。今でも仲いいよ。最初は家賃払うのもきつくてさ。誰かとルームシェアしないと生活するのも精いっぱいだったんだ」



今は努めて明るくふるまってい入るが、その頃の生活は、本当に大変だったろう。

そのことを思うと、僕の鼻の奥がキュッとなるのだった。


僕は、桃香に涙目になるのを悟られまいと、あわてて部屋の中をぐるりと見渡した。


棚の中央には、あの3180メートルの頂上で撮った、泥だらけの僕たちの写真が、ロンドンの街並みを背景に誇らしげに飾られていた。



「……これ、ずっと飾っててくれたんだね」


「当たり前じゃん。アタシの人生の、一番高い場所での記録なんだから」



桃香はコートを脱ぎ、キッチンで手際よくお湯を沸かし始めた。

僕はソファに腰を下ろし、窓の外を眺めた。ロンドンの夜景は、東京のそれよりも少しだけ暗く、その分、一つひとつの光が、暗い海に浮かぶ救命ボートの灯火ともしびのように、切実な輝きを持って揺れていた。



「ジンタロー。アタシさ、パパに手紙を書いたんだ。……仕事が少しずつ形になってきたこと、こっちでちゃんと生きてること。……返事はまだないけどさ。でも、もうパパに認めてもらわなくても、アタシはアタシを許せるようになった気がする」



彼女は二つのマグカップを運び、僕の隣に座った。



「それは、桃香が自分の足で、自分の高度まで登ってきたからだよ。誰かの評価という酸素ボンベがなくても、君はもう、自分の肺だけで呼吸できるようになったんだ」


「……理屈っぽいのは、ロンドンに来ても治らないんだね」



彼女はそう言って、僕の腕をぎゅっと抱きしめた。

その体温は、かつての部室でのそれよりも、ずっと重く、深い場所まで僕を浸食していった。



「ジンタロー。あんた、法律家になるんでしょ? アタシの夢を守るために、難しい条文をいっぱい覚えるんでしょ?」


「……そのつもりです。でも、今の僕はまだ、一介の学生に過ぎません」


「いいよ。ゆっくりで。アタシが前を歩くから、あんたは後ろからしっかりサポートして。……ときどき、滑落しそうになったら、またあの時みたいに支えてよ。……ね?」



彼女の瞳の中に、夜のロンドンの光が吸い込まれていく。

僕は彼女の肩を抱き寄せ、その柔らかい髪に顔を埋めた。


かつての僕にとって、世界は冷笑と諦念で塗りつぶされた、狭い箱庭に過ぎなかった。

でも、今の僕の世界には、終わりなんてどこにもない。

ロンドンの雨も、テームズ川の風も、そして隣で呼吸する彼女の鼓動も。

そのすべてが、新しい山へのルートを描く等高線のように、僕の目の前に広がっていた。



「……桃香。愛してるよ。槍ヶ岳の頂上で、一緒に世界を見たあの瞬間よりも、ずっと。 ……いや、僕は初めてあった日からあなたが好きだった。あの日の、あの屋上から」



彼女は僕の言葉を、静かな溜息と共に受け止めた。



「……やっと、言えたね。……アタシもだよ、ジンタロー」




窓の外では、ロンドンの夜がゆっくりと深まっていった。

棚の上で、あの宇宙服を着た熊の鈴が、風もないのに微かに「チリン」と鳴った気がした。

それは、かつての僕たちがいた場所と、今の僕たちがいる場所を、一瞬だけ結びつける魔法の音のようだった。




僕の物語は、まだ終わらない。

明日になれば、また新しい朝が来る。

新しい壁が、新しい絶壁が、僕たちの前に立ちはだかるだろう。


けれど、僕の足元には、あのネイビーの登山靴が、誇らしげに土を落として控えている。

僕たちはこれからも、自分たちの高度を更新し続ける。


愛という名の、最も険しく、そして最も美しい山を、一歩ずつ、踏みしめながら。






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