エピローグ 僕と桃香①
エピローグ 僕と桃香
ロンドンの雨は、東京のそれとは少しだけ質感が違っていた。
アスファルトを叩く音はどこか乾いていて、古い石造りの街並みに染み込んでいく。空は低く、重たい灰色のカーテンが何層にも重なっているように見えた。僕はコートの襟を立て、ヒースロー空港の到着ゲートで、自分の肺が異国の冷たい酸素を咀嚼する音を聞いていた。
21歳になった僕の身長は、高校時代からから少し伸びて180センチになった。その分、背負っている荷物は、あの頃のザックよりもずっと重く感じる。僕が抱えている鞄の中には、法学部の分厚い専門書と、そして僕がこの数年間、睡眠時間を削り取って積み上げてきた「覚悟」という名の無味乾燥な知識が詰まっている。
「ジンタロー!」
その声が響いた瞬間、僕の周囲の重力は一気に3割ほど軽減された。
人混みの向こうから、一人の女性が駆け寄ってくる。
僕の大切な女性。
かつての金髪に近い茶髪は、今は落ち着いたチョコレートブラウンに染め直され、少しだけ短く切り揃えられていた。服装も、以前のような肩の出た派手なものではなく、上質なウールのトレンチコート。けれど、大きく見開かれたその瞳と、長いまつ毛、そして僕という存在を全肯定してくれる、あの太陽のような笑顔は、何一つ変わっていなかった。
彼女は僕の胸に飛び込んできた。
161センチの彼女の体温が、冬のロンドンの空気を切り裂いて僕の肌に伝わってくる。懐かしい夏の陽だまりと、少しだけ甘く香る香水ような匂い。僕は、自分がこの瞬間のために、あの孤独な受験勉強と、大学の法学部の自習室で戦い続けてきたのだということを、改めて深く、そして静かに噛み締めていた。
「……遅いよ、ジンタロー。もう、待ちくたびれて干からびちゃうところだったんだから」
彼女は僕の胸元で、少しだけ鼻を啜りながら言った。
「空港の入国審査が、槍ヶ岳の雪渓より慎重だったものですから。僕の不器用な英語が、彼らの論理的な疑念を解くまでに、三十分はかかりましたよ」
僕は努めて平然とした声を装いながら、彼女の背中に手を回した。
かつて僕の背中を抱きしめた彼女の腕は、今やロンドンという険しい山を独りで登り続けている、一人のたくましい女性のそれだった。
「あはは、相変わらず屁理屈ばっかり。……ねえ、ジンタロー。こっち、来て。アタシ、あんたに見せたい場所があるんだ」
彼女は僕の手を強く引いた。その指先の熱は、僕が大学の講義で学ぶどんな「正義」や「条理」よりも、はるかに切実で、確かな真実として僕を導いていた。
地下鉄のピカデリー・ラインは、まるで巨大な金属の芋虫のように、ロンドンの地下深くをのたうち回っていた。古いトンネルを抜けるたびに響く耳障りな金属音は、僕にはある種の現代音楽のように聞こえた。そこには調律された美しさなんて微塵もないけれど、目的地へ向かうという剥き出しの意志だけが、火花を散らしながら疾走している。
隣に座る桃香先輩――いや、もう「先輩」と呼ぶには、僕たちは少しばかり遠いところまで来てしまったのかもしれない――は、窓の外を流れる暗闇を、慈しむような目で見つめていた。
「ロンドンの地下鉄ってさ、ときどき自分がどこにいるか分からなくなるんだよね。山の中の霧に囲まれているときみたいに。でも、必ず出口があるって信じてるから、怖くないんだ」
彼女の声は、電車の轟音にかき消されそうになりながらも、僕の鼓動に直接届いた。彼女が握っている僕の右手からは、かつて槍ヶ岳の頂上で共有したあの連帯感とはまた違う、静かで、しかし深い場所から湧き上がる熱を感じた。
「法学の勉強も似たようなものです」
僕は、目の前の窓に映る自分の、どこか頼りない顔を見つめながら答えた。
「条文という名の狭いトンネルを這いずり回っていると、ときどき太陽の光がどんなものだったか忘れてしまいそうになります。でも、そのトンネルの先に、先輩のような人が待っていると思うことで、なんとか正気を保ってこれました」
「あはは、ジンタロー、相変わらず言葉の選び方が重たいな。でも、そういうところ、嫌いじゃないよ」
桃香先輩はクスクスと笑い、僕の肩に頭を預けた。
彼女のコートのポケットから、微かに「チリン」という音がした。
僕はハッとして彼女の顔を見た。彼女はポケットから、あの宇宙服を着た熊の鈴を取り出した。色は少し剥げ、宇宙服の白もくすんでしまっているけれど、その熊は相変わらず、孤独で高潔な瞳で遠い星を見上げていた。
「これ、ずっと持ってたの。ロンドンのアパートのカギに付けて。くじけそうになったときは、これを鳴らすんだ。そうすると、槍ヶ岳の風と、あんたのあの泣きそうな顔を思い出すから」
「……泣きそうな顔ではなく、感動の涙を流していたはずですが」
「ふふ、同じようなもんでしょ」
電車がサウス・ケンジントン駅に滑り込んだ。
地上へ出ると、そこにはヴィクトリア様式の重厚な建物が、雨に濡れた黒い皮膚のように光りながら並んでいた。
桃香先輩は僕を連れて、街角にある小さな、けれど手入れの行き届いたカフェに入った。店内には古いペーパーバックの匂いと、温かい霧のような柔らかな紅茶の香りが充満していた。
彼女は自分のカバンから、一冊の分厚いノートを取り出した。そこには、英語と日本語が入り混じった、びっしりとした書き込みがあった。
「アタシね、ここで経営を学びながら、小さなエージェントを立ち上げたんだ。日本の職人さんが作った道具を、こっちのレストランやギャラリーに紹介する仕事。槍ヶ岳の時の北アルプスで言うと、カッパ橋くらいまでしか辿り着いてないけどね」
「まだ登り始めてないですね、上高地じゃ」
僕と彼女は顔を見合わせて小さく笑った。それから先輩はクランペットとスコーンを注文して続ける。
「それとさ、実は、ママがお金、援助してくれたんだ。パパがさ、世間知らずのバカ娘にロンドンの物価は厳しいだろうって。だったら自分で言えばいいのにね」
彼女の瞳に宿る光は、かつて父親の書斎で僕の隣で震えていたあの時のものとは全く違って、ずっとまぶしく、そして透明だった。
彼女は今、自分だけの山を、自分で描いた地図で着実に登り始めている。
「ジンタロー。あんたが法学部を選んだ理由、アタシ、ちゃんと分かってるよ。アタシの盾になりたいって、言ってくれたでしょ」
彼女はテーブル越しに僕を見つめた。
「でもね、今は、アタシの隣を歩いてほしいんだ。盾じゃなくて、命を預け合う最強のザイル・パートナーとして、ね」
僕は、自分の鼻の奥が熱くなるのを感じた。
法律を学ぶ日々は、確かに絶壁を登るような孤独な作業だった。暗記した判例も、難解な法理も、すべては彼女という山に辿り着くための装備だと思っていた。
でも、彼女が求めていたのは、僕の守護ではなく、並走だった。
「……わかりました。僕のザイルは、まだ新品同様に頑丈ですから。タワ-・ブリッジの一番上からでも、桃香先輩を引っ張り上げますよ」
僕は、ついにこの人の隣に立つのを認めてもらえた。あの高校1年生の時の屋上での邂逅から、ずっと背中を追いかけていた、僕には絶対届かないと思っていた、まばゆい、金色の背中。




