最終章 僕と北高山岳部とギャル先輩③
クリスマス。
2年前は坂田先輩の家で楽しい時間を過ごした。
岡先輩からいただいた、暖かい、想いのこもった濃紺のマフラー。
去年は、推薦で早々に進路を決めていた、坂田先輩と板垣先輩はさておいて、エビちゃん先輩が共通テストを受験し、桃香先輩も年明けにファウンデーション・コースの面接もあるということで、みんなで一緒にお祝いすることはなかった。
今年は僕の番だ。
僕はクリスマス、年末年始共に予備校以外一切外出することなく、自宅で2月の本番に備え、受験勉強という、孤独な戦いの日々を送っていた。
『……福島くん、……あんまり、無理、……しないで』
たまに岡先輩から電話をもらう。
岡先輩は、市役所の職員として忙しく働く傍ら、時折心配して僕に連絡をくれる。
先輩自身だって慣れない環境で、必死に努力している最中なのに、本当に申し訳ない。
僕は、その優しさに胸を熱くしながら、もう使い込んでボロボロになった英単語帳を何度も何度も読み返し、高校3年の正月を過ごした。
3学期。
学校が始まる。
教室では、クラスメイトの温度差がきっかりと別れていた。
片や、「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」と、日露戦争の日本海海戦で、連合艦隊司令長官・東郷平八郎がロシアのバルチック艦隊を迎え撃つ直前、旗艦「三笠」に掲げたZ旗を掲げるがごとしの受験を控えた僕ら。
そして片や、天下泰平のこの世の春を謳歌する、推薦での合格組。
推薦で決まったやつらは、部活で結果を出したり、生徒会で実績を上げたり、毎回のテストでコツコツ成績を積み上げたりと毎日努力してきた者たちだ。どっちが上でどっちが下とうことは、断じてない。
……しかし、ちょっと、……いや、だいぶ羨ましい気がするのは事実だ。
そんな教室の雰囲気になじめず、僕は放課後になり次第、早々に学校を後にしていた。
山岳部の部室には行っていない。
今は渋沢部長が、一生懸命あの部を守り抜いているだろう。
1年生の後輩たちも寡黙な、本当に山を愛する男たちで、みな自分の居場所を作っている。引退した僕が入って行く余地はない。
そして僕は、一緒に受験をするクラスの仲間と、それぞれの志望校の情報の交換をしながら帰るのが日課になっていた。
ひとりぼっちで屋上で昼食をとっていた僕が、こんなにもクラスに馴染むなんて、1年の時には考えもつかなかった。
これも、すべてはイギリスへ向かった、憧れのあの人のために。
2月の入試当日の朝、世界は鉛色の重たい静寂に包まれていた。
吐き出す息は、まるで誰かが煙突から吐き出した煙のように白く、濃く、一瞬で冬の空気に溶けていく。僕は首元に、あの濃紺のマフラーを二重に巻いていた。岡先輩が編んでくれた、少し不揃いな網目。その重みが、今の僕にはどんな高性能な登山用ネックウォーマーよりも心強かった。
茗荷谷にある第一志望の大学のキャンパスへ向かう道すがら、僕は自分が再び槍ヶ岳の登山口に立っているような錯覚に陥った。背負っているのは重いザックではなく、一年間かけて詰め込んだ知識という名の「装備」だ。重い。肩に食い込む。けれど、これがなければ、僕はあの険しい峰を越えることはできない。
試験会場となる教室は、標高3000メートルを超える高山地帯のように酸素が薄く感じられた。
数百人の受験生たちが、一言も発さずに自分の席に座っている。その沈黙は、吹雪が止むのを待ち、ビバークする者たちが身を寄せ合う、避難小屋のそれに似ていた。誰もが自分の内側にある「恐怖」という名の落石と戦っている。
僕は、試験会場で自らの席に座って深呼吸をしたのち、そっと鞄から一枚の写真を取り出した。
僕らの人生の、一番高い場所で泥にまみれて笑う6人。
ウエストミンスター寺院の前で、自由な風に吹かれる彼女。
指先で写真の縁をなぞる。3年前、屋上でつぶれたパンを食べていた僕の指先は、今や岩を掴み、ペンを握り、自分の運命という名の地図を書き換えるための道具へと変わっていた。
「それでは、開始してください」
号令とともに、一斉に紙を捲る音が響いた。それは、何百人もの登山者が一斉に雪面を蹴り出す音のようだった。
目の前に現れたのは、入試問題という巨大な岩壁だ。
僕は必死にその岩壁にハーケンを打ち込み、三点支持を確保しながら、じっくりと登攀していく。
焦りは禁物。今までの僕のすべてを、ここに結集させる。
試験開始から数時間。残された教科は数学と英語。集中力という名の酸素が尽きかけ、視界がチカチカと明滅し始めた。
ペンを持つ右手が、寒さと疲労と緊張で思うように動かない。
その時、耳の奥で、微かにあの「チリン」という音が聞こえた気がした。
宇宙服を着たクマの鈴。
ロンドンの冷たい風の中でも、決して鳴り止まないあの音。
「……絶対についてきてね」
彼女の声が、僕の体内の冷え切った血を再び熱く焦がした。
僕は止まりかけたペンを再び走らせた。
そして、英語。
桃香先輩はかの地で、この言葉を使って生きている。この言葉で世界と戦おうとしている。
僕は彼女と一緒に戦いたい。絶対に負けるわけにはいかない。
槍ヶ岳の、あの一分一秒が永遠に感じられた鉄梯子の登攀を思い出す。
あそこに比べれば、この解答用紙の白さは、決して恐れるべき吹雪ではない。これは、僕が自分の手で描き込むための、未知の航路なのだ。
一問一問を、確実に。一歩一歩を、誠実に。
僕は自分の持てるすべての「装備」を使い果たし、論理の頂上を目指して書き殴った。
試験終了の鐘が鳴ったとき、僕は最後の一行を書き終え、ペンを置いた。
右手の感覚はもうなかった。けれど、胸の奥には、槍の穂先で見たあの日の朝焼けのような、澄み切った達成感が広がっていた。
教室を出ると、外はいつの間にか雪が舞っていた。
粉雪が、僕の肩に静かに降り積もる。
僕は空を見上げた。この雪は、やがて海を越え、彼女がいるあの石畳の街にも届くのだろうか。
「……登りきりましたよ、桃香先輩」
僕は誰にも聞こえない声で呟き、駅へと向かう群衆の中に足を踏み入れた。
やりきった、自負はある。
結果がどうあれ、僕はもう、あの日の「焼きそばパンの少年」ではない。
自分の足で、自分の意志で、最も高い場所を目指して歩き続ける、一人の登山家なのだ。
「桃香先輩」という頂きを目指して。
そして、数年後。
僕は、大学にほど近いアパートの自室で古い手帳に挟まれた一枚の写真を眺めている。
そこには、青いジャージを着て、汗にまみれて笑う僕たちがいる。
窓の外には、かつて登った山々が、霧の向こうで静かに僕を見守っている。
僕の物語は、まだ終わらない。
世界は広く、道は険しく、そして人生という名の登攀には、終わりなんてどこにもないのだから。
僕は新しい法律の専門書を開き、一歩を踏み出すように、最初の一行を読み始めた。
(完)
これで、このお話は終わりです。
桃香と陣太郎はその後どうなったのでしょうか。
少しだけ、ロンドン編を書いてみました。
どうぞ続けてお読みください。
感想もお待ちしています。




