最終章 僕と北高山岳部とギャル先輩②
12月の夜は、冷たく湿った重力を持って僕の部屋に居座っていた。
机の上に積み上げられた法学部の過去問題集は、まるでそこだけ時間が凍結した古代の石碑のように見えた。1学期の勢いはどこへやら、模試の結果は平行線をを描き、僕の自信はひび割れたアスファルトの隙間から少しずつ漏れ出していた。ペンを持つ指先は鉛のように重く、暗記したはずの年号は、朝食のトーストの屑のように意味をなさず脳裏に散らばっている。
「C判定…か…」
先月はBだった。Aになったことは今まで一度もない。一歩も楽観視できない状況だ。
本番まで、あと2カ月しかない。
僕は椅子を深く引き、天井を見上げた。電球の放つ無機質な光が、僕の焦燥をあざ笑うかのように瞬いている。
正直なところ、勉強にかなり行き詰まっていた。
苦手を潰し、得意を伸ばす。基本中の基本だ。
僕は初手がかなり低かったので、途中まではやればやっただけ結果が出た。
先生も予備校の講師もこの調子でがんばれと背中を押してくれた。
だが、夏以降は完全に伸び悩んだ。基礎的な問題は解けても、第一志望校のちょっとひねった問題と対峙するとあやふやな回答に終始してしまう。
打つ手がない…そういった状況になっていた。
「…どうしたものかな…」
こんな時、桃香先輩ならどうしただろう。
僕はぼんやりと考えながら窓から見える街の灯を眺めていた。
その時、「陣太郎、あなたにお手紙来てるわよ?海外から?UKってどこ?」と母親の声がした。
先ほどまで、僕の霧がかかった脳は一気に目覚め、慌ててその手紙を取りに行く。
United Kingdom…きっと、きっと…先輩だ。
母親から受け取ったそれは、縁が赤と青の縞模様で縁取られた、薄い一枚の封筒だった。エアメール。ロンドンからの消印。僕の指先が、微かに震えた。
部屋に戻り、ペーパーナイフで慎重に封を切る。中からは、どこか異国のインクの匂いがする手紙と、一枚の写真が出てきた。
手紙には、彼女らしい、少しだけ右上がりの躍動感のある文字が躍っていた。
ロンドンに来て4ヶ月。
慣れない土地。厚い雲。耳に馴染まない、硬い石を転がすような響きの早すぎる英語。
彼女は今、自らの夢である「日本の文化を世界に発信すること」の第一歩を、孤独な登攀のように一歩ずつ刻んでいるようだった。
手紙には、一切の泣き言が書かれていなかった。ただ、日々の奮闘が淡々と、けれど鮮やかに綴られている。
今は、韓国出身のミナという女の子とルームシェアをしているという。
(女の子だから、心配しないで!)
わざわざ括弧書きで添えられたその一文に、僕は乾いた笑みを漏らした。ミナとは気が合うらしく、他にもドイツやインド、スペインから来た留学生たちと、まるで小さな国連のようなグループを作って勉強に励んでいるらしい。
彼女の大学は留学生が多く、みんなで助け合って生きているようだった。
彼女は放課後、小さなカフェでアルバイトをしていた。
時給は10ポンドほどだという。けれど、チップが思いのほか貰えるから、それでなんとか学費と生活費をやり繰りしているという。賄いで出るサンドイッチやスープが、今の彼女の貴重なエネルギー源なのだ。
「イギリスのご飯は噂よりずっと美味しいよ。でも、やっぱり日本のご飯の方が恋しいかな。ジンタロー、そっちはどう?」
手紙の最後には、僕の体調を気遣う言葉と、「待ってるからね」という、静かだが重みのある約束が添えられていた。
僕は同封されていた写真に目を落とした。
ウエストミンスター寺院の前で、彼女はポーズを決めていた。
少しだけ、痩せたように見える。
明るい長い髪、大きな瞳、長い睫毛、白い肌。
背景にあるゴシック様式の巨大な尖塔は、槍ヶ岳の穂先よりもずっと古く、重厚な歴史を纏ってそびえ立っている。その前で、彼女は以前より大人びた、けれど変わらぬ太陽のような笑顔を見せていた。
視界が不意に、熱い膜に覆われた。
一枚の紙の向こう側で、彼女はこんなにも戦っている。通じない言葉の壁にぶつかり、冷たい石畳の街で、見知らぬ人々にコーヒーを運び、自分の夢を形にするために一歩も引かずに生きている。
それに引き換え、僕のこの甘えは何だろう。
暖かい部屋で、三食を与えられ、ただ紙の上の文字と向き合うだけのこの状況が、どれほどの贅沢か。成績の伸び悩みなど、彼女が直面している孤独に比べれば、春の雪解け水程度の些細な問題でしかない。
僕は涙を拭い、ペンを手に取った。
机の上の参考書が、さっきまでとは違う色を帯びて見えた。これはただの試験勉強ではない。彼女がいる場所へ、あの異国の空の下へ続く、僕にとっての「西鎌尾根」なのだ。
本当は、今すぐにでも会いに行きたい。
彼女の手を引き、あの温かい体温を感じたい。彼女の肩を抱き寄せ、よく頑張ったねと伝えたい。
けれど、それは今の僕には許されない行為だ。
僕は僕の戦場で、僕にしかできないことをやり遂げなければならない。
彼女の隣に並び立つ資格を得るために。
「待っていてください、桃香先輩。必ず、追いつきます」
僕は再び、過去問の最初の一行を読み始めた。
外では冬の冷たい風が吹いていたが、僕の胸の奥には、ロンドンのカフェのコーヒーのように熱く、苦い決意が満ちていた。




