最終章 僕と北高山岳部とギャル先輩①
最終章 僕と北高山岳部とギャル先輩
3月の風には、古いカレンダーが剥がれ落ちる時のような、乾いた諦念と微かな再生の匂いが混じっていた。
卒業式が終わり、校舎の影が長く伸びる午後。僕は部室の整理を終え、一人で渡り廊下を歩いていた。僕たちの先輩たちは、それぞれの「正解」を掴み取り、この学び舎を去ろうとしている。
坂田先輩は工学部へ、エビちゃん先輩は文学部へ、板垣先輩はデザインの道へ、岡先輩はこの街の市役所へ。そして桃香先輩は――あの嵐のような父親との対峙を経て、自力でイギリスの大学への切符を勝ち取った。
彼女の行くロンドンの大学は、9月が新学期だ。その前に、ファウンデーションコースという1年間の入学準備期間があり、そこでも高度な学習が必要だという。彼女は今、8月の出発に向けて、朝から晩までアルバイトと英会話の勉強に明け暮れている。かつての派手なネイルを短く切り揃え、汗を流して働き学ぶ彼女の姿は、どのブランド品を身に纏っていた時よりも、僕の目には気高く映った。
「……福島さん」
背後から、静かな、しかし凛とした声がした。
振り向くと、そこには胸に赤い花を付けた制服姿の岡先輩が立っていた。前髪を上げた彼女の顔は、春の柔らかな光を反射して、磨き上げられた真珠のように輝いている。
「岡先輩。卒業、おめでとうございます」
「……ありがとう。あのね、……最後に、少しだけ、……話せるかな」
僕たちは、かつて二人でゲームの攻略法を話し合った、あの図書室の裏のベンチに向かった。
岡先輩は、僕の首元をじっと見つめた。そこにはもう、冬に彼女が編んでくれた濃紺のマフラーはない。季節は巡り、僕たちは厚い上着を脱ぎ捨てていた。
彼女は何かを言いかけ、唇を微かに震わせた。その瞳の奥には、僕への、そして僕が桃香先輩へ向けている感情への、すべてを悟ったような深い静寂があった。
「おーい!ジンタロー!どこー!?ジンタロー!」
遠くで桃香先輩の声がする。僕を探している。
岡先輩はその声が、聴こえたのか、聴こえなかったのか。視線をふっと落として、大きな瞳を伏せた。
「……ううん、……なんでもない。……ただ、……お礼を、言いたかっただけ」
彼女は、精一杯の笑顔を作った。それは、あの日体育館のステージで見せた、どのアイドルよりも眩しい笑顔だった。
「……福島さん。……あなたは、……あなたが、一番大切に思う、山に、……登って。……わたしは、……ここで、……自分の、道を、歩くから」
彼女は告白を、言葉にすることなく飲み込んだ。それは彼女なりの、僕への、そして桃香先輩への、究極の誠実さだった。
ベンチを立ち去る彼女を、少し離れたところで坂田先輩が待っていた。坂田先輩は何も言わず、泣き出しそうな杏菜先輩を、壊れ物を扱うように優しく、強く抱きしめた。
僕はその光景を、目に焼き付けた。
愛することと、執着を捨てること。それは、山を登ることと同じくらい、痛みを伴う成長なのだ。
4月、春の光は古い図書館の書棚に積もった埃を、無数の小さな星屑のように変えていた。
僕は高校3年生になり、山岳部の部長という重責を渋沢かのんに引き継いだ。
新部長となった彼女の背筋は、さらに鋭く、垂直に切り立った岩壁のように研ぎ澄まされていた。彼女の隣には、副部長として彼女を支えるジョージが、相変わらずの巨体を揺らして立っている。
「オー、ボスセンパイ……いえ、福島Greatセンパイ! ボク、かのんNewボスをサザンの『真夏の果実』の歌詞くらい大切に守り抜きマース!」
ジョージは昨年の文化祭につづき、先日の部活動説明会でも体育館のステージでサザンオールスターズの弾き語りを披露し、全校生徒の度肝を抜いた。そのワイルドな歌声に魅了された新入生の女子たちが、4月の部室には溢れかえっていた。だが、かのん部長が「入部希望の皆さん、まずは校庭8キロ、腹を斬る覚悟で走りなさい」と告げると、彼女たちは一週間もしないうちに潮が引くように去っていった。
結局残ったのは、ジョージ目当てではなく、純粋に「山」という名の孤独な対話に惹かれた、無骨な男子生徒4人だけだった。
「福島先輩。少数精鋭ですが、これで良いのです。山は人数で登るものではありませんから」
かのん部長はそう言って、僕に頼らずとも立派に部をまとめ上げようと奮闘していた。
僕は、そんな彼らの背中を眺めながら、自分自身の新しい「山」に向き合っていた。
進路希望調査票に僕が書き込んだのは、「法学部」の文字だ。
イギリスへ渡り、日本の文化を世界に発信したいという桃香先輩。彼女がいつか、海の向こうで高い壁にぶつかったとき、あるいは法的な論理という名の荒波に揉まれたとき。僕は、彼女の隣でその「盾」になりたいと思った。
法律。それは数学や英語よりもずっと無機質で、冷徹な文字の羅列だ。けれど、その冷たさの奥には、人間が社会という険しい山を登るために築き上げた、確かな命綱が隠されている。
法学部のある大学への道は、僕の学力ではいまだ遠い。全教科、ひとつひとつ実力を積み重ねていかなければならない。あの時の登山のように。
「……無理。……やっぱり、……どんなキレットより、……勉強の方が、……絶壁だ」
図書室の隅、僕は何度もペンを置き、頭を抱えた。
模試の結果は芳しくない。僕は天才ではないのだ。一歩一歩、泥にまみれて登るしかない。
心が折れそうになるたびに、僕は鞄に忍ばせた、あの槍ヶ岳の山頂で撮った記念写真を見つめた。泥だらけで笑う僕。その隣の、僕を信じてくれた彼女。僕の、大切な、ザイルパートナー。
8月。
セミの声が、地上のあらゆる熱気を増幅させていた。
僕たちが復活させた北高山岳部の伝統である槍ヶ岳登頂を、渋沢部長たちが見事に完遂したという知らせを聞いたその日。僕は、羽田空港の国際線ターミナルにいた。
桃香先輩の出発の日だ。
大きなスーツケースを二つ、自分の身体ほどもあるそれらを、彼女は一人で誇らしげに抱えていた。髪は少し落ち着いた茶色になり、瞳にはかつての「逃げ」の影は一片も残っていない。
「ジンタロー。勉強、進んでる?」
彼女はいつものように、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「地表から一メートルずつ、這い上がっているところです。先輩がロンドンで会社を作る頃には、立派なリーガル・アドバイザーになってみせますよ」
「あはは、期待してるよ。……ねえ、ジンタロー」
彼女は一歩、僕に近づいた。
ターミナルのアナウンスが、異国の地名を読み上げ、僕たちの別れの時間を残酷に刻んでいく。
「アタシ、あっちで待ってるから。あんたのこと、信じてるから。……だから、絶対についてきてね」
「……必ず、追いつきます。僕のネイビーの登山靴は、まだ引退させるつもりはありませんから」
僕は彼女の目を見つめて、はっきりと宣言した。
これは告白よりもずっと重く、そして槍ヶ岳の頂上で流した涙よりもずっと誠実な、僕なりの「約束」だった。
桃香先輩は、僕の胸を一度だけ力強く叩くと、振り返らずに出発ゲートへと歩き出した。
そのスーツケースには、あの宇宙服を着た熊の鈴がぶら下がっていた。
チリン、チリン、と。
その澄んだ音色は、羽田の喧騒を突き抜けて、僕の心の一番深い場所に届いた。




