第36話 僕と父親とギャル先輩④
人がいなくなった部室は、冷房の効きすぎた映画館のように、どこか他人行儀でひっそりと冷えていた。
残されたのは、僕とジョージ、そして渋沢さんの三人だけだ。
「ボスセンパーイ! ボク、この重いザックを背負ってサザンの『真夏の果実』を聴くと、なんだか涙がプロテインの味になりマース!」
ジョージが、誰もいない先輩たちの椅子を見つめながら、大きな身体を丸めて言った。
「ジョージ。涙を流す暇があるなら、汗を流しなさい。さもなければ、その筋肉ごと腹を斬りなさい」
渋沢さんの言葉は相変わらず鋭かったが、彼女が淹れてくれたお茶は、いつもより少しだけ濃く、そして温かかった。
僕は、壁に貼られたあの夏の写真を見つめた。
槍ヶ岳の頂上で、泥にまみれて笑う6人。
そして、その下に新たに貼られた笑顔の3人の写真。
あの日、僕たちは確かに世界の一番高い場所にいた。でも、今の僕は知っている。山を下りてからの人生という道のりこそが、本当の登攀なのだということを。
10月。願書の受付が始まった頃、僕は一人で部室の窓から夕陽を眺めていた。
桃香先輩には会っていない。彼女が選んだ道を、彼女の力で歩き切るために、今は僕の存在がノイズになってはいけないと思ったからだ。
会いたい、という感情は、常に僕の胃のあたりで小さな石のように居座っている。
でも、その寂しさが、僕を部長として、そして一人の男として、強くしてくれるのだということも理解していた。
秋の午後の光は、まるで誰かが大切に保管していた古い蜂蜜のように、濃密で、それでいてどこか頼りなく部室の床に伸びていた。
3年生の先輩たちが、受験という名の「姿の見えない巨大な氷河」に飲み込まれていく一方で、1年生コンビは、少しずつ自分たちの皮膚をこの山岳部という場所に馴染ませ始めていた。
「ボスセンパーイ。ボクがアメフトを辞めて日本に来たとき、ボクの心はまるで穴の開いたボールみたいにスカスカだったんデース」
ジョージが、シェイカーに残ったプロテインの最後の一滴を飲み干しながら言った。彼は時折、桑田佳祐の物真似を封印し、まるで冬の海を眺める老漁師のような、静かで乾いた眼差しをすることがある。
ジョージは、カリフォルニアのジュニアハイスクールで将来を嘱望されたラインバッカーだった。しかし、2年前の秋、試合中の接触事故で膝の靭帯を断裂した。医師から告げられたのは「激しい接触を伴うスポーツは不可能」という、彼にとっての終身刑の宣告だった。
「アメリカでのボクは、『強さ』こそがすべてデシタ。でも、走れなくなった瞬間に、世界はボクのことを忘れ去ったみたいに冷たくなったんデース……」
「ジョージ。その感傷は、墨汁よりも重いです。あなたの価値は膝の靭帯で決まるものではありません。わかりましたか、過去の未練ごと、この場で腹を斬りなさい」
渋沢さんが、半紙に「虚心」という文字を書き上げながら淡々と告げた。彼女の書道道具からは、静かな、けれど厳格な墨の香りが漂ってくる。
彼女は、ジョージが最も荒れていた時期を隣で見てきた。心が荒れ果てアメリカでチンピラ──向こうではHoodlumと呼ぶらしい──に落ちぶれようとした彼の手を引き、彼の母親の故郷である日本へ、そしてサザンオールスターズのメロディへと彼を導いたのは、他ならぬ彼女だったのだ。
「……かのんは、ボクの『最後の砦』デース。彼女がボクに『山に登れ』と言ったとき、ボク
は初めて、膝ではなく心で重力を感じる方法を知ったんデース」
「ジョージ。……余計なことを言うのは、筋肉の無駄遣いです。私はただ、あなたがこれ以上無様に地面を這うのを見たくなかっただけです」
渋沢さんは筆を置き、少しだけ頬を先を赤くして視線を逸らした。
彼女が「ボディガードを自称するジョージ」を鬱陶しがりながらも決して突き放さないのは、かつて折れかかった彼の魂を、彼女自身が拾い上げ、繋ぎ合わせたからなのだ。
僕はそんな二人のやり取りを、ある種の色褪せた映画を眺めるような心地で聞いていた。
人は皆、山に登る前に、それぞれの場所で一度は「滑落」しているのかもしれない。そして、その傷を癒すために、あるいは傷跡を確認するために、重力に逆らう道を選ぶ。
「……ボスセンパイ。ボク、ようやく分かりマシタ。山は『END ZONE』じゃないんデス」
ジョージが、深く、重厚な声で言った。
「アメフトの時間は、時計が止まったり動いたりするデース。でも、山の時間は、止まることを知らない巨大な河みたいなんデース。ボク、その河の中で溺れないように泳ぐコツを、ようやく掴んだ気がしマス」
彼は、かつてカリフォルニアのフィールドで失った「誇り」の欠片を、この狭くて土臭い部室の中で、一つひとつ丁寧に拾い集めているようだった。彼の言葉は、サザンの歌詞が持つあの独特の哀愁と熱狂を、冬の空気に溶かし込んだような響きを持っていた。
「ジョージ。河で溺れる暇があるなら、一文字でも多くの漢字を覚えなさい。あなたの日本語は、まだ雪崩のように不安定です。わかりましたか、できないのならば腹を斬りなさい」
かのんさんが、墨を摺りながら冷ややかに告げた。彼女の書く「静寂」という文字は、まるで冬の森そのものが紙の上に降りてきたかのような、凛とした冷たさを湛えていた。彼女はジョージという巨大な荒馬を乗りこなす唯一の騎手であり、同時に、この部活という小さな生態系を維持するための「調律師」でもあった。
そして、僕たちはまた山に登る。何かを探しに、何かを追いかけに。それは山にいった者のみが知る、ある意味特別な栄誉のようなものだ。
「福島部長。準備できました」
あの頃の岡先輩のように、前髪を上げた凛々しい顔立ちの渋沢さんが、扉の横で待っていた。
「行きまショウ。ボク、今日は去年より重い荷物を持てる気がしマース!」
ジョージが、僕の背中を力強く叩いた。
「ああ、行こう」
僕はネイビーの登山靴の紐を締め直した。
先輩たちがいないこの場所で、僕たちは新しい歴史を刻んでいく。
いつか、桃香先輩がイギリスの空の下で、あの宇宙服を着た熊の鈴を鳴らすその時まで。
僕はここで、この山岳部を、彼女が帰ってこられる世界で一番高い場所にしておくつもりだ。
僕の物語は、まだ終わらない。
槍ヶ岳の穂先は、今も霧の向こうで、静かに僕たちを見下ろしていた。




