第35話 僕と父親とギャル先輩③
「福島君だったかな。……桃香から聞いている。山岳部の、1学年下の」
暫くして、ようやく上げられた瞳は、顕微鏡のレンズのように冷たく、僕の存在を「有益か無益か」という基準だけで分類しようとしていた。
「いち教師として、また父として、私はこの娘に最善の選択肢を提示しているつもりだ。はっきり言わせてもらう。イギリスの大学? 経営? 冗談はやめてくれ。そんな地に足のつかない夢のために、私がこれまで積み上げてきた教育の成果をドブに捨てるわけにはいかない」
「パパ、アタシは……」
「黙りなさい。君の判断力は、あの派手な髪色と同じように退化しているようだ。明日香を見なさい。彼女は一度も、私の指示を逸脱したことはない。これ以上、『失敗作』の上塗りをするのはやめなさい」
傍らで静かに本を読んでいた明日香さんが、冷たい溜息をついた。
「そうよ、桃香。あなたのやっていることは、単なる現実逃避。山に登って、少しばかり体力がついたからって、世界を動かせると思ったら大間違いよ。今のあなたに、何ができるというの?」
書斎の空気が、氷点下まで下がった。
桃香先輩の肩が、微かに震えている。
僕は一歩、前へ出た。
僕の視界が、堀越先生の冷徹な眼差しと正面からぶつかる。僕の心臓は、槍ヶ岳の鉄梯子を登る時と同じように、静かで力強いリズムを刻んでいた。
「堀越先生。僕は、先生のような教育の専門家でもなければ、人生の勝ち方を知っている人間でもありません」
僕の声は、自分でも驚くほど低く、落ち着いていた。まるで、冬の早朝に誰もいない校庭で、霜柱を踏みしめる時の音に似ていた。
「高校1年生の4月、僕は学校の屋上で一人でつぶれた焼きそばパンを食べていました。友達もいなけれ
ば、将来の展望もない。世界を冷笑することで、自分の無能さを守るだけの空っぽな人間だったんです。でも、そんな僕を無理やり山へ連れ出し、一歩を踏み出す意味を教えてくれたのは、他ならぬ桃香先輩でした」
堀越先生の冷たい、氷のような視線を僕は憶すことなく受け止める。しかしその瞳は、深海に沈んだ潜水艦のハッチのように、頑なに閉じられている。
「彼女は山岳部で、僕という『結果』を作りました。去年の僕は、赤点ギリギリを漂う、沈没寸前の船でした。でも、今の僕は違います」
僕はポケットから、小さく折り畳んだ期末テストの結果表を取り出し、重厚なデスクの上に置いた。
「平均点です。先生から見れば、鼻で笑うような数字かもしれません。でも、僕にとっては、槍ヶ岳の断
崖を自力で登りきったのと同義の、血の滲むような実績です。僕は、彼女を信じることで、自分自身を信じられるようになったんです」
「福島君。君の個人的な更生話に付き合っている暇はない。私が求めているのは、もっと客観的な、将来の安定を保証する……」
「客観的な事実なら、今の先輩の瞳を見てください」
僕は遮った。
「先生は、彼女を『失敗作』だとおっしゃいました。でも、失敗作に、僕のような人間を変える力があるでしょうか。失敗作に、あの槍ヶ岳の頂上で、誰の助けも借りずに絶景を掴み取ることができるでしょうか」
僕は隣に立つ桃香先輩の、拳を握りしめた手を見つめた。
「先輩がイギリスへ行きたいのは、逃げているからじゃありません。新しい、もっと高い山に登ろうとしているんです。先生が作った『正解』という名の整備された登山道ではなく、自分の意志で、岩を掴み、道を切り拓こうとしているんです。それを応援できない教育が、一体何の役に立つというんですか」
部屋の中に、重苦しい沈黙が降り積もった。
明日香さんが、呆れたように鼻で笑った。
「……熱いね。キミ。でも、結局は精神論。情熱だけで学費が出るわけでも、学位が取れるわけでもないのよ」
「情熱だけではありません。覚悟です」
僕は堀越先生を真っ直ぐに見据えた。
「先生。もし先輩がイギリスで道を見失い、挫折したのなら、その時は僕が彼女を背負ってでも、下山させます。でも、登る前から足を挫くような真似だけはしないでください。彼女は、先生が思っているよりもずっと、強い人ですから」
堀越先生は、しばらくの間、デスクの上に置かれた僕の「平均点」の結果表をじっと見つめていた。その表情には、微かな戸惑いと、それ以上の戸惑いを押し殺そうとする強情さが混ざり合っていた。
「……今日は帰りなさい、福島君」
先生は、再びペンを手に取った。
「君の言葉を検討するつもりはない。だが……桃香。願書を出すだけなら、勝手にするがいい。ただし、学費も生活費も、一切の援助はしない。それが君の言う『自分の足で歩く』ということの、本当の意味だ」
それは、実質的な勘当に近い通告だった。
けれど、桃香先輩の瞳に宿ったのは、絶望ではなく、透き通るような喜びの光だった。
部屋を出ようとする僕たちに、明日香さんが背後から声をかけてきた。
「桃香、貴方男性を見る目はあったようね。今までの低俗な男とはだいぶ違うわ」
僕は聞こえないふりをして、そのままドアを開けた。
書斎を出ると、家の廊下には湿った沈黙が沈殿していた。重厚な玄関の扉を閉め、夜の冷たい空気に触れた瞬間、桃香先輩は膝から崩れるようにその場に座り込んだ。
「……あはは、勝っちゃった。アタシ、勝っちゃったよ、ジンタロー」
彼女の声は震えていた。けれど、それは恐怖からではない。何年も彼女を縛り付けていた透明な鎖が、音を立てて弾け飛んだ時の、歓喜の震えだった。
「経済的援助なし、ですか。先輩、それは槍ヶ岳を裸足で登れと言っているようなものですよ」
僕は彼女の隣に腰を下ろし、夜の住宅街を眺めた。街灯の光が、アスファルトの上に頼りなく落ちている。
「いいの。パパがアタシの意志を認めた。アタシを『明日香の影』じゃなくて、一人の人間として、戦う相手として見た。それだけで、アタシにとってはエベレスト登頂より価値があることなんだ」
桃香先輩は、僕の肩にそっと頭を預けた。
「ありがとね、ジンタロー。あんたがいなきゃ、アタシ、きっと途中で滑落してた。あんたが見せてくれたあの平均点のテスト用紙、パパ、一生忘れないと思うよ」
「……あんなもので良ければ、いくらでも用意しますよ。次は、もう少し上の景色を見せられるように努力します」
僕は、自分の心臓が静かに、しかし誇らしく鼓動しているのを感じていた。
それからの一ヶ月、桃香先輩は猛烈な勢いで動き出した。学費のための奨学金を調べ上げ、放課後は深夜までアルバイトを詰め込み、それ以外の時間はすべて受験勉強に捧げた。
彼女はもう、部室に姿を見せることはなかった。




