第34話 僕と父親とギャル先輩②
8月の終わり、一日だけ、僕たちは「休戦」を宣言した。
都内の遊園地、プールの喧騒の中、僕は自分の心臓の音が、どの波の音よりも大きく響いているのを感じていた。
「ジンタロー! こっちこっち!」
水色の水着を身に纏った桃香先輩が、眩しすぎる太陽の下で手を振っていた。
その姿は、あまりにも目に毒だった。鍛えられたしなやかな肢体、白い肌、そして水色という色が、彼女の持つ透明感をより一層引き立てている。僕は、自分が新品の消しゴムのように、どこから手をつけていいかわからないほどに動揺しているのを自覚した。
「……水色、似合ってますね」
「あはは、ありがと。ジンタローも、なんかちょっと筋肉ついた? 去年より頼もしく見えるよ」
浮き輪に揺られながら、僕たちは流れるプールを漂った。
「パパとはさ、あれ以来ほとんど喋ってないんだ」
桃香先輩が、不意に視線を落とした。水面に反射する光が、彼女の顔を複雑に彩る。
「イギリスの大学、願書の受付が10月からなんだよね。間に合わなくなるのも嫌だし、9月の後半にもう一度、ちゃんと話そうと思ってる。……その時さ」
彼女は浮き輪を掴む指に力を込めた。
「ジンタローも、来てほしいんだ。アタシ一人じゃ、またパパの言葉に押し潰されちゃいそうで。あんたがいるだけで、アタシ、たぶん『正解』じゃない自分のことも信じられる気がするから」
「……分かりました。僕で良ければ」
僕は答えた。
自分の成績はまだ平均点だ。世界を変えるような力なんて、どこにもない。
でも、僕のネイビーの登山靴は、あの槍ヶ岳の岩肌を二度踏破した。その「実感」だけは、誰にも奪えない僕の武器だ。
9月の風が吹き始める頃、僕たちの本当の登攀が始まる。
それは、地図にも載っていない、誰の保証もない、けれど僕たちだけが見つけることのできる「頂上」への挑戦だった。
2学期に入ると同時に、部室の空気は急激に薄くなった。
物理的な酸素濃度が変わったわけではない。ただ、賑やかだった5人の先輩たちが受験勉強という名の深い霧の中へ消えてしまい、臨時コーチにも来なくなった。残されたのは僕とジョージ、そして渋沢さんの三人だけだ。
「……静かデース。まるでサザンの『慕情』が終わった後の、寂しい砂浜みたいデース」
ジョージが、プロテインのシェイカーを振りながら力なく呟いた。いつもなら彼の大きな声に「うるさいわよ」と坂田先輩の鋭いツッコミが入るはずだったが、今はただ、古い換気扇が回る乾いた音だけが返ってくる。
「ジョージ。感傷に浸る暇があるなら、新しいザックのパッキングをやり直しなさい。砂浜に埋めてあげましょうか」
渋沢さんの言葉は相変わらず冷徹だったが、その瞳にもどこか、エビちゃん先輩という太陽を失ったことへの戸惑いが透けて見えていた。
「ところで、部長。文化祭はいかがいたしましょうか」
去年、体育館を沸かせたan'ner-Zはもういない。今年は僕ら3人しかいない。なにも考えが思いつかない。一応聞いてみる。
「渋沢さん、アイドルやる?」
「丁重に辞退させていただきます」
「それなら、ボクにまかせてクダサーイ!No problemデスヨ!」
そして文化祭当日、ジョージはアコースティック・ギター一本で「いとしのエリー」英語バージョンをソロで歌いきったのだった。
彼のごつい身体から繰り広げられる声圧と音圧は、体育館の空気を一遍に支配した。僕は、ジョージのその圧倒的な才能に舌を巻いた。当然観客にも大うけで、曲が終わった後ジョージは女子生徒にもみくちゃにされていた。しかし彼はその群がる女子生徒に目もくれず、かのんにギターをささげ、
「アレは、ホントはいとしのかのんって歌いたかったのデスヨ」
「そんなことしてみなさい。私が腹を斬ります」
といいつつも、彼女は満更でもない表情を浮かべていた。
文化祭が終わり、僕は部長として、その静寂の中に自分の居場所を見つけようとしていた。
放課後の時間は、もっぱら図書室で過ごすようになった。目の前には、付箋だらけの英単語帳と、解きかけの数学の問題集。
一学期の平均点という「実績」は、僕にとって槍ヶ岳の頂上で撮った記念写真と同じくらい、自分を支える重要な盾になっていた。
僕は天才でも秀才でもない。でも、泥にまみれて足を前に出すことだけは、誰にも負けない自信がある。それが勉強という未知の山であってもだ。
9月25日。
10月のイギリスの大学の願書提出開始を前に、桃香先輩から連絡が入った。
『今日、6時に家に来て。パパと話す。ジンタロー、約束、覚えてる?』
僕はネイビーの登山靴をきれいに磨き、学校指定の、いつもより少しアイロンの効いたシャツに袖を通した。
向かったのは、高級住宅街の一角にある堀越家。そこは、坂田先輩の豪邸のような無機質な華やかさとは違う、歴史と教養という名の重苦しい蔦が絡みついたような、そんな威圧感のある邸宅だった。
「……来たんだね」
玄関で迎えてくれた桃香先輩は、水着姿で見せたあの眩しい笑顔を、どこかのロッカーに預けてきてしまったような顔をしていた。
「パパ、書斎にいる。明日香お姉ちゃんもいるよ」
通された書斎は、床から天井まで本で埋め尽くされていた。そこにあるのは、知性という名の冷たい武器庫だ。
デスクの奥に座る彼女の父親……堀越先生は、僕が挨拶をしても視線を上げず、手元の書類に赤ペンを走らせていた。
戦いが、始まる。




